「安達盛長」(あだちもりなが)は、「鎌倉幕府」に仕える有力御家人(将軍直属の武士)の家系「安達氏」の始祖であった武将です。さらには、のちに同幕府初代将軍となる「源頼朝」(みなもとのよりとも)が、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)において流刑の身であった時代から側近となって活躍しました。源頼朝の没後には「13人の合議制」の一員となった安達盛長が、鎌倉幕府の幕政にどのように貢献したのか、その人物像に迫りつつご説明します。
安達盛長の出自について明らかになっているのは、その生年が1135年(長承4年/保延元年)であり、没年が1200年(正治2年)であったことのみ。安達盛長以前の血筋は家系図ごとに異なっており、例えば南北朝時代に完成した諸家の系図集「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)において安達盛長は、「藤原北家魚名流」(ふじわらほっけうおなりゅう)の「小野田兼広」(おのだかねひろ)の子とする記述がありますが、その真偽のほどは定かにはなっていません。
晩年に名字を「安達氏」に改めるまでは、兄が領していた武蔵国足立郡(現在の東京都足立区周辺、及び埼玉県の一部)に因み、「足立」と表記していました。また尊卑分脈によれば、安達盛長同様に鎌倉幕府の有力御家人となる「足立遠元」(あだちとおもと)は年上の甥であったとされていますが、こちらも憶測の域を出ない情報です。
なお安達盛長の屋敷は、神奈川県鎌倉市最古の神社と言われる「甘縄神明神社」(あまなわしんめいじんじゃ)のすぐ近くにあったと伝えられており、現在は、同社の境内に「安達盛長邸跡」と刻まれた石碑が設置されています。
出自については不明な点が多い安達盛長ですが、鎌倉幕府成立以前より、源頼朝に仕えていたことは史実として残されています。
その具体的な時期は、源頼朝の父「源義朝」(みなもとのよしとも)と「平清盛」(たいらのきよもり)が覇権争いを繰り広げた「平治の乱」(へいじのらん)の終戦後のこと。「源氏」が敗北したことにより源頼朝は、1160年(平治2年/永暦元年)に、伊豆国にある「蛭ヶ小島」(ひるがこじま)に配流されました。
この当時、安達盛長の正室「丹後内侍」(たんごのないし)が、源頼朝の乳母を務めた「比企尼」(ひきのあま)の長女であった縁から、安達盛長は、流刑の身となった源頼朝に仕えることになったのです。源頼朝の側近となった安達盛長は、主に京都の情勢を伝えるなどして、主君・源頼朝より篤い信頼を得るようになります。
その背景には、妻の丹後内侍がその昔、女房(朝廷に仕える女官。ひとり部屋を与えられていた)として宮中に出仕していた関係から京に住した知り合いが多く、京都、すわなち朝廷の動向などにまつわる情報を入手しやすかったことがありました。
約20年もの間、安達盛長を始めとする側近達の支えにより、蛭ヶ小島にて流人生活を送っていた源頼朝に、「平氏」討伐を果たす絶好の機会が訪れます。それは1180年(治承4年)のこと。
77代天皇「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の皇子「以仁王」(もちひとおう)が諸国の源氏達に向けて、平氏を打倒すべく令旨(りょうじ:皇太子や親王などの命令が記された文書)を発したのです。これを受けた源頼朝は、当初は静観しつつも最終的には挙兵を決定。
安達盛長はこれに付きしたがい、代々源氏に仕えていた各地の東国武士達を結集し、源頼朝方へ与するように説得。この源頼朝による挙兵がきっかけとなり、「源平合戦」と称される一連の戦いが繰り広げられることになったのです。安達盛長は、1180年(治承4年)9月に起こった「石橋山の戦い」に源氏軍が敗れたあと、源頼朝と共に安房国(現在の千葉県南部)に渡ります。
このときも安達盛長は、下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部)の大豪族「千葉常胤」(ちばつねたね)や、同じく下総国と上総国にも所領があった「上総広常」(かずさひろつね)のもとに使者として赴き、両者とも源氏軍の味方に付けることに成功しました。
石橋山の戦いの約2ヵ月後には、源頼朝が安房国にて再び挙兵します。安達盛長の優れた交渉力もあり、駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)に入る頃には、源氏軍の兵士は約40,000人にまで増加。源頼朝はこの大軍を率いて、「富士川の戦い」にて平氏軍と対峙しますが、平氏軍の数はたったの約2,000人。
この圧倒的な兵力差を前にして平氏軍が撤退したことにより、源氏軍が勝利します。その後、最終的に源頼朝は鎌倉を根拠地として、東国を配下に収めたのです。
1184年(寿永3年/元暦元年)頃から安達盛長は、源頼朝より、上野国(現在の群馬県)の奉行人(政務を担い、執行する役職に就く者)に任じられます。やはりこれは、安達盛長の仕事ぶりが源頼朝に高く評価された証しだと言えるのです。
安達盛長と源頼朝は仕事面だけではなく、プライベートにおいても確固たる信頼関係を築いていました。これは、鎌倉時代に編纂された歴史書「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)に、源頼朝が特に用がないときでも、安達盛長の屋敷に度々訪れていた記録があることからも窺えます。一説によれば安達盛長と源頼朝は、片時も離れずに行動を共にしていたと言われるほど仲が良かったのです。
源頼朝が公私共に、安達盛長にどれほどの信頼を寄せていたのかが分かる逸話が、曾我兄弟による仇討ちを題材にした鎌倉時代の軍記物語、「曽我物語」に記されています。
それは、源頼朝の結婚相手にまつわる逸話です。源頼朝の正室が、鎌倉幕府初代執権「北条時政」(ほうじょうときまさ)の長女、「北条政子」(ほうじょうまさこ)であったことはよく知られていますが、実は源頼朝は当初、次女を正室として迎え入れたいと考えていました。
そこで源頼朝は、次女への思いを綴った手紙を安達盛長に託したのです。政務など仕事にまつわる文書であればまだしも、プライベートである手紙を躊躇なく預けられたのは、源頼朝にとって安達盛長が、何でも打ち明けられる「腹心」のような存在であったことがその理由。
ところが安達盛長は、宛名を次女から長女に書き換えて届けさせています。これは、普通に考えると一気に信頼関係が崩れてしまう行為ですが、北条時政の次女と三女には、あまり良くない噂ばかり流れていたため、安達盛長が源頼朝のことを思ってしたことだったのです。
そのあと源頼朝と北条政子は、幾度となく手紙を交換して密かに逢瀬を重ね、最終的には婚姻関係を結びます。そして北条政子は源頼朝の没後、「尼将軍」の異名を取るほど鎌倉幕府の存続に尽力しました。
少々乱暴とも言える方法でしたが、安達盛長がこのときに機転を利かさず、北条時政の次女にそのまま手紙を渡していたとしたら、鎌倉幕府はまた別の結末を迎えていたかもしれません。
1185年(寿永4年/元暦2年)の「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で平氏を滅亡させた源頼朝は、1189年(文治5年)に東北地方にて、「奥州藤原氏」と対立します。「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)と呼ばれるこの戦いに、安達盛長も従軍。同合戦に勝利したことにより源頼朝は全国制覇を完成させ、日本初の武家政権を確立させたのです。
安達盛長は奥州合戦後、源頼朝より陸奥国安達郡(現在の福島県二本松市周辺)を賜ります。同地を本貫(ほんがん:律令制において、戸籍に記載された土地)とした安達盛長は、それまで自身の名を「足立盛長」と表記していましたが、その姓を「安達」に改めました。
同氏の家紋には、信濃国(現在の長野県)の戦国大名「真田家」(さなだけ)も用いた「六連銭/六文銭」(ろくれんせん/ろくもんせん)の意匠が使われています。鎌倉幕府の成立後、源頼朝が同幕府初代将軍に就任してからも変わらず、その重臣として仕えていた安達盛長。
しかし、1199年(正治元年)1月に源頼朝が亡くなると失意のどん底に落ちてしまいます。そして安達盛長は、出家して「蓮西」(れんさい)と号するようになったのです。前述した通り安達盛長は、源頼朝が伊豆で流人生活を送っていた時代から、その側近として仕えていました。
この当時の源頼朝は罪人と見なされていたため、公に家臣を持つことを禁じられていたのにもかかわらず、安達盛長は、事実上の従者として源頼朝のために働いていたのです。
安達盛長が源頼朝との間に、主君と家臣の枠を超えた篤い信頼関係を結べたのは、流人であった源頼朝と共に、多くの苦労を重ねてきたからこそ。安達盛長が出家したのは、そんな唯一無二の存在であった源頼朝が亡くなった悲しみを癒すため、仏教に救いを求めたことが理由だったのかもしれません。
出家した安達盛長でしたが、源頼朝の没後、その嫡男「源頼家」(みなもとのよりいえ)が18歳の若さで鎌倉幕府2代将軍の座に就くと、1199年(正治元年)4月、政務を補佐する宿老13名のひとりに選ばれます。
のちに13人の合議制と称されるこの制度が発足したのは、源頼家がまだ若かったためか、目に余るほどの専制政治を行い、多くの御家人達から反感を買ったことが背景にありました。
こうして幕政に関与するようになった安達盛長は、同年、三河国(現在の愛知県東部)の守護職にも任じられています。また、同年秋に安達盛長は、同じ13人の合議制のメンバーであり、御家人達を厳しく統制していた「梶原景時」(かじわらかげとき)の弾劾状に署名。
鎌倉幕府内部初となる権力闘争「梶原景時の変」が起こり、梶原景時は、幕府から追放されることになったのです。そして安達盛長は1200年(正治2年)、66歳で死去。
安達盛長は鎌倉幕府の開府以降、有力御家人のひとりとして幕政の中枢でその手腕を振るっていましたが、源頼朝が亡くなってからも、生涯官職を得ることはありませんでした。これはやはり、源頼朝を慮り(おもんぱかり)、自身の主君は源頼朝以外にはいないとする安達盛長の切実な思いの表れだと言えます。
「安達景盛」(あだちかげもり)の生年は不詳ですが、安達盛長と丹後内侍の間に嫡男として誕生しています。源頼朝による挙兵以降、父・安達盛長と共に、源頼朝の近習(きんじゅ/きんじゅう)として鎌倉幕府の成立に大きく貢献。源頼朝の没後は、源頼家に仕えていました。
しかし、安達景盛と源頼家の関係はあまり良好ではなかったと伝えられており、それが窺える逸話が吾妻鏡に記されています。それは、安達景盛の留守中に、源頼家の命を受けた御家人達によって安達景盛の側室が殺害されそうになった事件。その側室は、北条政子によって救出されたと伝えられています。この逸話は創作であるとする説が有力ですが、これは、北条氏と安達氏の繋がりが、かなり親密であったことの表れと言えるのです。
その後、3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)にも仕えた安達景盛は、1218年(建保6年)、「秋田城介」(あきたじょうのすけ)に任じられました。
秋田城介とは、「秋田城」(あきたじょう/あきたのき:秋田県秋田市)のすべてを管轄していた国司のこと。同職の始まりは奈良時代後期頃と言われており、当初は国司がいくつか担当していた任務のひとつにすぎませんでした。
しかし、平安時代中期に「出羽城介」(でわじょうのすけ)と称する官職となり、鎌倉時代には秋田城介と呼ばれるようになったのです。安達盛長以降、同職は安達氏が世襲することに。同氏は秋田城に赴任はしませんでしたが、その周辺を支配下に置いています。
1219年(建保7年/承久元年)に源実朝が暗殺されると、安達景盛は多くの御家人達と共に出家。法名を「大蓮房覚智」(だいれんぼうかくち)と号して高野山に入り、源実朝の菩提を祈るため、「金剛三昧院」(こんごうさんまいいん:現在の和歌山県伊都郡高野町)を建立します。
僧侶となった安達景盛でしたが、そのあとも幕府からの要請を受けて幕政に参加。自身の娘「松下禅尼」(まつしたぜんに)が産んだ「北条経時」(ほうじょうつねとき)と「北条時頼」(ほうじょうときより)が執権の座に就いた際には、その外祖父(がいそふ:母方の父)として権勢を振るったと伝えられています。
安達盛長の物と伝わる墓所は、日本全国に複数あります。
そのなかでも特に有名なのが、静岡県伊豆市にある「修禅寺」(しゅぜんじ)。安達盛長のお墓と推測されているのは、同寺から梅林へと続く中腹にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。宝篋印塔とは、笠の四隅に馬耳のような形状の突起が飾られた供養塔の一種。安達盛長の遺言により、お墓が修禅寺に建てられたと伝わっていますが、その理由は明確になっていません。一説には、安達盛長の娘の夫「源範頼」(みなもとののりより)が、同寺にて最期を遂げたからとも推測されていますが、その真相は不明です。
さらには、埼玉県鴻巣市の「放光寺」(ほうこうじ)にも安達盛長の墓所が見られます。安達盛長が館(やかた)の敷地内に創建した同寺は、安達盛長のお墓のみならず、安達氏一族の供養塔も建てられており、それらには、1983年(昭和58年)に復元された台座などが用いられているのです。さらに放光寺は安達盛長の坐像を所蔵しており、こちらは、南北朝時代に制作されたと推測されています。
この他に安達盛長のお墓がある場所として知られているのは、愛知県蒲郡市にある「長泉寺」(ちょうせんじ)です。安達盛長が三河守護を務めていた繋がりから、普請奉行(ふしんぶぎょう)として同寺を建立。本堂の裏にある五輪塔が安達盛長のお墓であると伝えられており、1957年(昭和32年)に、蒲郡市の指定文化財となっています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1135年(長承4年/ 保延元年) |
1歳 |
藤原北家魚名流の小野田兼広の子として誕生。
|
1180年(治承4年) | 46歳 |
源頼朝による挙兵の際、各地の関東武士達に対して、源氏軍に加わるように呼び掛ける。
石橋山の戦いに敗れたあと、安房国まで逃亡する。 |
1184年(寿永3年/ 元暦元年) |
50歳 |
上野国における奉行人に任じられる。
|
1189年(文治5年) | 55歳 |
奥州合戦において、源頼朝軍に付き従う。
陸奥国安達郡を賜り、名字の表記を「足立」から「安達」に改める。 |
1199年(建久10年/ 正治元年) |
65歳 |
出家して法名を蓮西と号する。
13人の合議制のメンバーとなり、幕政に携わる。 |
1200年(正治2年) | 66歳 |
6月9日に死去。
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