「八田知家」(はったともいえ)は、「鎌倉幕府」の御家人(将軍直属の武士)を務め、同幕府2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)を幕政において補佐するために設けられた指導体制、「13人の合議制」のひとりにも選ばれた武将です。「源氏」4代に仕えた八田知家の生涯を辿りながら、鎌倉幕府での八田知家での役割とその活躍についてご説明します。
八田知家は1142年(永治2年/康治元年)、下野国(現在の栃木県)を本拠とした「宇都宮氏」2代当主「宇都宮宗綱」(うつのみやむねつな:別称[八田宗綱])の四男として誕生。これが八田知家の出自にまつわる通説です。
ところが八田知家の出自には、もうひとつの説がまことしやかに囁かれています。それは八田知家が、「源頼朝」(みなもとのよりとも)や「源義経」(みなもとのよしつね)らの父、「源義朝」(みなもとのよしとも)の十男であったのではないかとする説です。
しかし八田知家には、1156年(久寿3年/保元元年)に勃発した「保元の乱」(ほうげんのらん)において、77代天皇「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)方に与した源義朝に付き従っていたとする史実があります。八田知家が源義朝の十男であったことが事実ならば、保元の乱が起こった3年後の1159年(保元4年/平治元年)に、源義朝の九男・源義経が生まれたことと辻褄が合いません。
そのため、八田知家の父が源義朝であったとする説は、やはり無理があると言わざるを得ないのです。保元の乱で初めて歴史の表舞台に立った八田知家は、1180年(治承4年)に、後白河法皇の第3皇子であった「以仁王」(もちひとおう)の令旨(りょうじ:皇太子や親王など、皇族の命令を記した文書)を受けた源頼朝が、「平氏」の討伐を目的に挙兵すると、いち早く馳せ参じたと伝えられています。
これは八田知家の姉、もしくは妹であった「寒河尼」(さむかわのあま)が、源頼朝の乳母を務めていたことが理由のひとつと考えられており、同年に八田知家は、源頼朝より下野国茂木郡(現在の栃木県芳賀郡)の地頭職に任じられました。
そして1183年(寿永2年)2月に八田知家は、源頼朝とその叔父「志田義広」(しだよしひろ)が対立した「野木宮合戦」(のぎみやかっせん)に、源頼朝軍に属していた「小山朝政」(おやまともまさ)による指揮のもとに戦い、勝利を収めたのです。
その翌年8月に源頼朝は平氏討伐を遂行させるために、異母弟「源範頼」(みなもとののりより)に主要な武士団を与えて西国へと派遣。八田知家は、この軍勢に付きしたがっていました。
1185年(寿永4年/元暦2年)1月、源範頼と共に豊後国(現在の大分県)へ入った八田知家は、1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵したことから始まった一連の戦い「源平合戦」のひとつ、「葦屋浦の戦い」(あしやうらのたたかい)に参戦。
さらに1185年(元暦2年/文治元年)3月には、「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)においても武功を挙げ、平氏滅亡に貢献しました。
このように、源氏の悲願であった平氏討伐を叶えることに尽力していた八田知家でしたが、壇ノ浦の戦いの約1ヵ月後、源頼朝より罵倒される言葉が綴られた手紙を受け取っています。その原因となったのは、1184年(寿永3年/元暦元年)に起こった、源義経のいわゆる「無断任官事件」。
この当時、鎌倉幕府に仕える御家人達への賞罰については、まず源頼朝がその可否を決定してから朝廷に申請する仕組みになっていました。これにより源頼朝は、御家人達を徹底的に統率しようとしたのです。しかし源義経は、そのような背景があったにもかかわらず、源頼朝の推挙がないままに後白河法皇より「左衛門尉・検非違使」(さえもんのじょう・けびいし)の官位を受けてしまいます。
同時に多くの鎌倉御家人達も任官し、八田知家も「右衛門尉」(うえのもんじょう)の官位を賜っており、これが、源頼朝の怒りを買ってしまったのです。その手紙に記されていたのは、「西国へ向かう途中に京都で任官するなんて、怠け者の馬が道草を食っているのと大して変わらない」という何とも手厳しい内容。
ところが八田知家は挫けることなく、熱心に源頼朝へ仕えた結果、1189年(文治5年)に鎌倉政権と「奥州藤原氏」(おうしゅうふじわらし)の間で起こった「奥州合戦」において、「東海道大将軍」に任命されました。そして同合戦で八田知家は、奥州藤原氏を追い詰める戦功を立てたのです。
1193年(建久4年)に源頼朝が、駿河国富士山麓(現在の静岡県御殿場市、及び裾野市一帯)・富士野(現在の静岡県富士宮市)に御家人達を集め、多人数で行う狩猟である「巻狩り」(まきがり)を実施します。参加者が700,000人にも及んだこの「富士の巻狩り」は大盛況となりましたが、その際、曾我兄弟が父の仇である「工藤祐経」(くどうすけつね)を討つ事件が起こりました。
この混乱に乗じて八田知家は、常陸国において覇権を争っていた従兄弟の「多気義幹」(たけよしもと)を罠に嵌めようと、「北条時政」(ほうじょうときまさ)と共に策を巡らせます。
そして八田知家は、「多気義幹が謀反を起こそうとしている」と鎌倉幕府に報告。それまで多気義幹の所領であった常陸国(現在の茨城県)は没収され、八田知家は、自身の本拠を下野から常陸へ移動。このときに八田知家は、「常陸守護」に補任されました。
1199年(建久10年/正治元年)1月に源頼朝が亡くなると、その嫡男であった源頼家が家督を継ぎ、鎌倉幕府2代将軍に就任します。
しかし源頼家は、それまでの慣例を無視して専制政治を行っていたため、同年4月には、その訴訟親裁(しんさい:国王や天皇などが、自ら裁決を下すこと)が停止されることに。
そして幕府の有力者であった宿老13名の合議により訴訟の裁断を決める、13人の合議制と称される指導体制が発足。源義朝の時代から源氏に仕えていた八田知家もその一員となり、幕政に加わったのです。
1203年(建仁3年)には、源頼朝の異母弟であり、源頼家の叔父である「阿野全成」(あのぜんじょう/ぜんせい)が、「北条氏」と共に反源頼家派を形成。阿野全成らが幕府に対して反旗を翻そうとしていることを察知した源頼家は、八田知家に命じ、阿野全成を謀殺させたのです。
そして八田知家は1218年(建保6年)3月3日、源義朝から鎌倉幕府3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)まで4代に亘って源氏に仕え、忠誠心を貫き通した生涯を77歳で閉じました。
「中条家長」(ちゅうじょういえなが)は、1165年(長寛3年/永万元年)に「法橋成尋」(ほっきょうじょうじん)別称「小野義勝」(おのよしかつ)の子として誕生しました。父・法橋成尋は、武士団「武蔵七党」(むさししちとう)のひとつ、「横山党」に属していた人物。
武蔵七党とは平安時代後期から鎌倉時代、そして室町時代にかけて、武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、及び神奈川県の一部)を中心に、隆盛を極めた同族武士団の総称です。
時期は明らかになっていませんが、中条家長は八田知家に養子として迎え入れられています。これは、父・法橋成尋が僧であったことがその理由。そして中条長家は、八田知家の養子となったことをきっかけに、名字を「小野」から「中条」に改めたのです。中条と名乗るようになったのは、実父・法橋成尋が、武蔵国埼玉郡上中条(現在の埼玉県熊谷市)を本拠としていたことが由来だと推測されています。
また、1184年(寿永3年/元暦元年)に起こったいわゆる「源平合戦」のひとつ、「一ノ谷の戦い」(いちのたにのたたかい)において中条家長は、源範頼の軍勢に付き従い、奥州合戦や「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)など、主要な合戦に参戦しました。
1190年(文治6年/建久元年)には、許可を得ないまま、「右馬允」(うまのじょう)に朝廷より補任されたことが源頼朝の不興を招き、同職を辞任しています。そののち、中条家長は源頼朝と源頼家、源実朝、「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)という4代の将軍に近習(きんじゅ/きんじゅう)として仕えたのです。
さらには1225年(元仁2年/嘉禄元年)、鎌倉幕府3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)によって創設された同幕府の最高政務機関「評定衆」(ひょうじょうしゅう)に抜擢され、1236年(嘉禎2年)に亡くなるまで同職の任にありました。
評定衆の多くは、北条氏に近い血縁の親族などが占めていたため、中条家長が長きに亘って同職を務めていたことは、武将としてだけでなく、文官としても優れた才能の持ち主であったことが窺えます。
八田知家のお墓があるのは、茨城県笠間市に位置する「宍戸清則家」(ししどきよのりけ)の墓地内です。ここはもともと、八田知家の流れを汲む「宍戸氏」(ししどし/ししどうじ)の屋敷「山尾館」、及び「新善光寺」(しんぜんこうじ)が存在していた場所。八田知家のお墓である五輪石塔(ごりんせきとう)は、祖先を供養するため、宍戸氏出身の「一木理兵衛」(いちきりへえ/りへい)により同寺の境内に建てられたと伝えられているのです。
新善光寺の建物自体はなくなっていますが、八田知家の五輪石塔は現在も遺されており、その横にはもうひとつ、少し小さな石塔が並べられています。こちらには、「当山開基宍戸四郎家政の墓」と刻まれていることから、八田知家の四男で宍戸氏の始祖となった「宍戸家政」(ししどいえまさ)のお墓であることが窺えるのです。
八田知家に続いて宍戸家政がこの笠間の地を領し、その子孫達もまた、常陸守護や鎌倉幕府の御所奉行などに任じられ、大いに活躍しました。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1142年(永治2年/ 康治元年) |
1歳 |
宇都宮宗綱の四男として生まれる。
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1180年(治承4年) | 39歳 |
源頼朝の挙兵に早くから加わる。
源頼朝より、下野国茂木郡の地頭職に任じられる。 |
1183年(寿永2年) | 42歳 |
源頼朝と志田義広との間で起こった野木宮合戦に参戦し、志田義広を討って勝利を収める。
|
1184年(寿永3年/ 元暦元年) |
43歳 |
平氏を討つため、源範頼の軍勢に付き従う。
|
1185年(元暦2年/ 文治元年) |
44歳 |
前年に、無断で右衛門尉に任じられていたことが源頼朝の勘気に触れ、怒りの言葉が綴られた手紙を受け取る。
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1189年(文治5年) | 48歳 |
奥州合戦において東海道大将軍を務め、奥州藤原氏を追い詰める武功を挙げる。
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1193年(建久4年) | 52歳 |
「曽我兄弟/曾我兄弟の仇討ち」を好機と捉え、多気義幹が領していた常陸国を没収。本拠を下野から常陸に移動させ、守護職に任じられる。
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1199年(建久10年/ 正治元年) |
58歳 |
13人の合議制のメンバーとなり、幕政に携わる。
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1203年(建仁3年) | 62歳 |
反源頼朝派であった阿野全成を誅伐する。
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1218年(建保6年) | 77歳 |
3月3日に死去。
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