13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

平宗盛
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「平宗盛」(たいらのむねもり)は、「平清盛」(たいらのきよもり)の三男として誕生した人物です。父・平清盛の「保元の乱」や「平治の乱」での活躍に伴い、平宗盛や平氏一門で昇進し栄耀栄華を極めるようになります。父の死後は平宗盛が棟梁となりますが、源氏に追われ都落ちをし、戦にも負け続けるなど険しい道のりでした。平氏を滅亡の最後まで背負った平宗盛とはどんな人物だったのでしょうか。ここでは平宗盛の生涯やその評価、墓の場所などについてご紹介します。

朝廷で起きた2度の政変

朝廷で政変が起きた時代、平宗盛はまだほんの少年だった頃のことです。けれども父・平清盛の活躍と共に兄弟や平氏一門で地位を高めていく、平宗盛にとってはそんな意気揚々とした明るい時代でした。

平宗盛の生い立ち

平宗盛

平宗盛

「平宗盛」は、平清盛の三男として1147年(久安3年)に誕生しました。母は、平清盛の2人目の正室「時子」。そして腹違いの兄が2人、長男「平重盛」(たいらのしげもり)と次男「平基盛」(たいらのもともり)がいました。

同じ母から生まれた弟には「平知盛」(たいらのとももり)や「平重衡」(たいらのしげひら)などがいましたが、平宗盛は正室の長男として重く扱われていたと言います。

「保元の乱」と「平治の乱」

まだ平宗盛が年少だった1156年(保元元年)に、「崇徳上皇」(すとくじょうこう)と「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の争い「保元の乱」が起き、乱は朝廷内の人々を二分する大きな争いに発展。崇徳上皇側には、平宗盛の大叔父「平忠正」(たいらのただまさ)と、源氏の棟梁「源為義」(みなもとのためよし)が付きます。

対する後白河天皇側には、父・平清盛と、源為義の子「源義朝」(みなもとのよしとも)が付き、戦いを勝利に導きました。保元の乱に勝利した後白河天皇は、勝利に一役買った平清盛に信頼を寄せるようになり、1157年(保元2年)に父・平清盛は播磨守に昇進。

次いで長男・平重盛、叔父「平頼盛」(たいらのよりもり)、「平経盛」(たいらのつねもり)、「平教盛」(たいらののりもり)が位階を上げ、平宗盛も11歳で従五位に叙せられました。数年後の1159年(平治元年)に、再度、朝廷を揺るがす政変「平治の乱」が起きます。

後白河上皇([二条天皇]に譲位したため上皇となる)の側近である「信西」(しんぜい)と「藤原信頼」(ふじわらののぶより)が対立。乱の最中に信西は藤原信頼側に倒され、藤原信頼は天皇の許しも得ずに政治を良いように操ります。

平清盛は、二条天皇の追討命令を受けて藤原信頼と彼に味方した源義朝を打ち破りました。こうして平宗盛の父・平清盛は、2度の政変を勝利に導いたことで、天皇家から信頼され、朝廷内で大きな力を持ち始めるのです。

平氏一門の繁栄と凋落

平治の乱以降、父・平清盛は後白河上皇や二条天皇から大きく信頼を寄せられるようになり、ついに1166年(仁安元年)に武士として初の太政大臣(だじょうだいじん)に就任。平宗盛や平氏一門も次々と朝廷内の要職に就くようになります。

政治の中枢を担うようになる

1162年(応保2年)に平宗盛は、左馬頭(さまのかみ)に就任。左馬頭は宮中の軍馬を管理する部署であり、武門の家柄にとっては花形の役職でした。平治の乱以前は源義朝が務めていましたが、乱以降は平宗盛が就き、さらに後任も平氏の者が就いていることから軍事関係を平氏一門で独占しようとしていた平清盛の考えが見えてきます。

さらに平宗盛は、1164年(長寛2年)に妹「盛子」が摂関家の「藤原基実」(ふじわらのもとざね)に嫁ぐことが決まると、その政務機関の別当(長官)に弟・平重衡と共に就きました。1167年(仁安2年)の5月に父・平清盛は太政大臣を辞任し、家督を兄・平重盛に譲ると自身は福原(現在の神戸市兵庫区と中央区)へ拠点を移行。

そして福原で港を整備し「日宋貿易」を開始させると、その地に住み続けるようになります。同年8月に平宗盛は参議(さんぎ)に叙され、平氏一門のなかでは平重盛に次ぐ地位を手に入れ、政治の中枢を担うようになりました。

そして母・時子の妹で後白河上皇の后「建春門院」(けんしゅんもんいん)の養子となり、皇太后宮権大夫(こうたいごうぐうごんのだいぶ)となり建春門院に仕える立場になります。そして平宗盛は、建春門院の妹「清子」を妻に迎えることで、母の実家と懇意になり、後白河上皇とも密接な関係となりました。

父・平清盛と母・時子は同じ桓武平氏の流れを汲む家柄ですが、微妙に流派が異なります。平清盛は「桓武天皇」(かんむてんのう)の孫「高望王」(たかもちおう)の子孫で、伊勢国に移り住んだ武門の伊勢平氏。時子は桓武天皇の子「高棟王」(たかむねおう)の子孫で、京都で発展した公家の平氏です。兄弟や親戚が多い分だけ、誰の後ろ盾を得るかで平宗盛の昇進は大きく変わりました。

平氏一門への反発と妻の死

1176年(安元2年)の7月に建春門院が死去すると、今まで建春門院が間に入り均衡を保っていた平清盛と後白河上皇の対立が次第に顕著になっていきます。平宗盛は建春門院の養子であったことから後白河上皇との関係は良好でしたが、内心は複雑な心境を抱えていました。

また同じ頃、平氏一門による朝廷の官職独占などにより、朝廷内では平氏に対する反発が広がっていました。その翌年1177年(治承元年)の6月に、後白河上皇の側近「藤原成親」(ふじわらのなりちか)、「西光」(さいこう)、「俊寛」(しゅんかん)らが平氏打倒の話し合いをしたという密告を平清盛が受けます。

東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)にある山荘で行われたことから「鹿ヶ谷事件」と呼ばれ、平清盛は首謀者や関係者を厳しく処罰しました。側近を独断で罰された後白河上皇は当然ながら怒り、平清盛との対立はより決定的なものとなります。

そして、鹿ヶ谷事件の首謀者だった藤原成親は、兄・平重盛の妻の兄だったことから平重盛は政治的な地位を失墜させることとなりました。平宗盛も後白河上皇とは良好な関係とは言え、父・平清盛との間で、非常に難しい立場に立つこととなります。

そんな事件が起きた翌年の1178年(治承2年)の7月に平宗盛の妻・清子が亡くなりました。妻の死による深い悲しみと、後白河上皇と平清盛の対立などが重なり、精神的に参った平宗盛は当時任官していた右大将を1179年(治承3年)2月に辞任してしまいます。

さらにその数年後に得た2人目の妻にも先立たれ、残された長男「平清宗」(たいらのきよむね)、後妻との子で次男の「平能宗」(たいらのよしむね)を大切に養育しました。通常、公家や武士の子は両親ではなく乳母夫婦が養育します。

しかし鎌倉時代の軍記物語「平家物語」によると、次男・平能宗に関しては、出産後すぐに妻が亡くなってしまい、平宗盛は片時も離さずに育てたと言います。

平氏打倒を掲げた「以仁王の令旨」

以仁王

以仁王

そして同年1179年(治承3年)の6月に姉・盛子が、7月には兄・平重盛が相次いで死去。後白河上皇は、姉・盛子と兄・平重盛の所有していた領地を不当に没収すると、福原から上洛した平清盛によって幽閉され、その側近達も次々と罷免。

のちに「治承三年の政変」と呼ばれる乱を起こした平清盛は、平宗盛に後処理を任せて、福原へ帰還してしまいます。すべてを押し付けられる形となった平宗盛は、後白河上皇の側近らの所領没収や、解雇などの処理を行いました。

このとき手違いで何の関与もしていなかった「以仁王」(もちひとおう)の所領まで没収してしまったことが、のちの「以仁王の令旨」に関係する原因のひとつと言われています。以仁王は後白河上皇の第3皇子でしたが、母親の身分が低かったため皇子として十分な恩恵を受けることなく、肩身の狭い生活を送っていました。

以仁王の挙兵

以仁王の挙兵

そこで「安徳天皇」が即位した1180年(治承4年)に、諸国の源氏や寺社勢力などに「後白河上皇を幽閉し院政を停止させ、多くの近臣の役職を奪った平清盛は謀反人だ」と平氏の横暴を断罪し出されたのが、以仁王の令旨です。

1180年(治承4年)の5月、平宗盛は挙兵した以仁王を匿った「園城寺」(滋賀県大津市)への攻撃を決定。

しかしこのときに味方だった老将「源頼政」(みなもとのよりまさ)が寝返り、さらに園城寺の総本山「延暦寺」(滋賀県大津市)の僧兵300人の参加が平宗盛に伝えられ、事態は一時、最悪の様相を呈すことになります。けれど、手勢が少なく戦にも慣れていなかった以仁王は、その数日後に平氏によって討ち取られ、乱は終息しました。

激化する平氏への反乱と平清盛の遺言

1180年(治承4年)の6月に、父・平清盛は自ら作り上げた福原の地に、安徳天皇とその父「高倉上皇」、祖父・後白河上皇を連れて行きたいと発言。情勢が不安定な今、天皇家を伴い京都を空にするのはとても危険なことでした。

平宗盛は思い留まるよう説得を続けたとされますが、そんな反対を押し切って平清盛は、安徳天皇と高倉上皇、後白河上皇を福原に連れて行く「福原遷都」を強行してしまうのです。

同時代の貴族「九条兼実」(くじょうかねざね)の日記「玉葉」(ぎょくよう)には、「常に穏やかで、また平清盛に対しては従順な平宗盛が父に反対する意見を述べたことは非常に珍しい」と書かれています。それほどに強い激高だったことも伝わりますが、政治的に後手に回る可能性があることを平宗盛は父に伝えたかったのでしょう。

上皇や天皇が遷都して以降も各地では、以仁王の令旨の影響で平氏への反乱が起こり続けました。ついに同年1180年(治承4年)の8月には、甥「平維盛」(たいらのこれもり)が、源義朝の子「源頼朝」(みなもとのよりとも)によって「富士川の戦い」で討ち負かされます。

東国武士に敗れたことで、改めて戦略を見直すべきだとして平宗盛は「遷都反対」の意見を強く主張し、これにより安徳天皇と高倉上皇、後白河上皇は京都へ帰還。平清盛も上洛しました。年が明けた1181年(治承5年)に、ついに棟梁を継いだ平宗盛は、畿内惣官職(きないそうかんしき)に任じられます。

この畿内惣官職は、京都周辺の軍政を行う臨時の役職であり、ついに東国の源氏との戦いに備えた体制がしかれるようになったのです。しかし折悪しくも、安徳天皇の父・高倉上皇が崩御し、平清盛も逝去という不幸が重なります。

まだ幼い安徳天皇では政務は務まらず、ここで再度、祖父・後白河上皇が院政(天皇が譲位後に政治を行うこと)を開始。平清盛は「後白河上皇と平宗盛で協力し安徳天皇を助けるように」と言い残していましたが、仲違いしたままの後白河上皇が遺言を守ることはありませんでした。

平氏の都落ちと「三種の神器」

平宗盛は、院政を再開したのち白河上皇に恭順する姿勢を示します。しかし平清盛が生前に残した畿内惣官職の役職は譲らず、軍事的な権限は保持し続けました。甥・平維盛と弟・平重衡を追討使として東国へ向かわせます。

木曽義仲

木曽義仲

「墨俣川の戦い」では「源行家」(みなもとのゆきいえ)に勝利するも、「横田河原の戦い」では「木曽義仲」に大敗。そして北陸で起きた反乱には敵わず平氏は戦線を離脱しています。

しかも平氏は、当地の貴族が持つ所領を奪って配下に分け与えてしまうため、京都の貴族達は年貢納入が減り困っていました。

こうしたなか、後白河上皇は戦乱の長期化は京都の民の飢餓に直結することや、源頼朝からの和平交渉の密奏を受けたため、平宗盛に源氏との和議を打診します。しかし平宗盛は亡き父・平清盛の遺言に従いその打診を拒否しました。

そして1183年(寿永2年)5月11日に、平氏が総力を集めて向かった「倶利伽羅峠の戦い」で木曽義仲軍に敗退したことで、平氏の持つ軍事均衡は完全に崩壊。同年の5月末、平宗盛は後白河上皇と安徳天皇を伴い京都に向かって来る木曽義仲軍から逃げようと計画していました。

後白河上皇は先に京都を脱出しましたが、その数時間後に平宗盛は母・時子や妹「建礼門院」、その子・安徳天皇、平氏一門を引き連れて京都をあとにします。

このとき平宗盛は、安徳天皇だけではなく天皇家の宝物「三種の神器」まで持ち去ってしまったために、のちに京都に戻った後白河上皇に「平宗盛が天皇をさらい、三種の神器まで奪った」として木曽義仲に平氏追討の命が出されてしまいます。こうして栄華を極めた平氏は、賊軍に転落することになるのです。

源氏との戦いと平家一門の終焉

都落ちした平宗盛と平氏一門は、日宋貿易を介して平氏の家人が多くいた九州の大宰府を目指しました。しかしどの家人に交渉しても天皇家の賊軍になることをおそれて味方になることはありませんでした。

次は、平清盛の代から仕え日宋貿易の築港奉行も務めた「田口成良」(たぐちのしげよし)を頼り阿波国(現在の香川県)に向かいます。その田口成良の支援により瀬戸内海の屋島(現在の香川県高松市)と彦島(現在の山口県下関市)を掌握し、屋島に内裏を建設して新たな本拠地を作りました。

1184年(寿永3年)の正月、平宗盛は福原に前線基地を設けることが可能なくらいには勢力を回復。しかし京都では木曽義仲が敗戦し、今度は源頼朝が平氏追討の命を受けて軍を福原まで向けているところでした。

同年の2月7日に「一ノ谷の戦い」が勃発し、源頼朝が指揮する「源義経」(みなもとのよしつね)と「源範頼」(みなもとののりより)軍に襲いかかられ、平氏軍は命からがら屋島へ敗走。この戦で、平氏一門、有力家人らが命を落とすこととなり、平氏軍は満身創痍の状態となってしまいました。

逃げ延びた平宗盛は、屋島と彦島の防御を固め、これより幾度か攻めてきた源範頼軍を退け敗走させています。しかし1185年(寿永4年)2月に源義経軍によって屋島を急襲され本拠地は炎上。平宗盛らは最後の砦である彦島に逃げるしかなくなります。

同年の3月24日に「壇ノ浦の戦い」(壇ノ浦は現在の関門海峡のあたり)で味方の裏切りや、潮の流れが変わり源氏が猛攻撃をしかけて来たことで、ついに勝負はつき平氏は壊滅しました。

平宗盛の評価とその墓所

平宗盛については、平氏一門を率いる能力が低く、良くない評価が多く残っています。平氏最後の戦となった壇ノ浦の戦いについても、平家物語には少々情けない平宗盛の様子が書かれているのです。

海上に追い込まれた母・時子や、妹の建礼門院、安徳天皇、弟・平知盛など平氏の武将らが船から海へ身を投げるなか、平宗盛はなかなか飛び込まなかったとされています。そんな様子を見かねた平氏の武将達に無理やり海に突き落とされているのです。

けれど平宗盛は泳ぎが得意だったため、海に落ちたあとも泳いで生き残り、長男・平清宗と共に源氏に引き上げられて捕虜となっています。平氏と源氏の話は、平家物語や玉葉、「源平盛衰記」(げんぺいじょうすいき)、「吾妻鏡」(あづまかがみ)などに残されていますが、どれも平氏側が関与した書物ではありません。

当時の貴族の日記や、勝者である源氏に配慮した記録のため、平宗盛についての逸話は作り話の可能性もあるのです。情けない人物像が残る一方で、平宗盛の心優しい一面を示す逸話も残っています。捕虜となった平宗盛は、鎌倉の逗子へ送られ軟禁されていました。

当初、源氏贔屓である住人には快く思われていなかったのですが、平宗盛が楽しそうに地元の子供と遊ぶ姿に、徐々に心を許していったとされています。その後、京都へ送還される途上、源頼朝の命を受けた者により、平宗盛は近江国篠原宿(現在の滋賀県野洲市)で斬首。長男の平清宗、生き残った息子達も全員処刑されました。

平宗盛が処刑されたことを知った逗子の人々は、その死を悼む声が多かったと言います。平宗盛と息子達の首は京都へ運ばれ六条河原で晒し首となり、胴体のみが埋められました。埋めた場所は、現在「宗盛塚」と呼ばれ平宗盛の墓となっています。

平宗盛は、あまり武勇に優れた人物ではなかったようですが、父・平清盛や後白河上皇に挟まれながらも仕事をこなしていたことなどから、実務的な能力は高かったとされています。そのため近年ではかつての評価が見直されつつあるようです。

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