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吾妻鏡(あづまかがみ)
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吾妻鏡(あづまかがみ) 吾妻鏡(あづまかがみ)
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日本には、多くの歴史書があります。そして、歴史書が執筆される理由も、その時代に何が起きていたのかを知るためや、出来事を後世へ伝えるためなど様々。源平合戦で平家が滅ぼされたことで始まった「鎌倉時代」にも、「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)と呼ばれる歴史書が存在します。吾妻鏡とは、どのような歴史書なのか。ここでは、その概要をご紹介します。

吾妻鏡(あずまかがみ/あづまかがみ)とは

鎌倉幕府が編纂した歴史書

吾妻鏡

吾妻鏡

「吾妻鏡」は、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの87年間に起きた出来事を記した歴史書です。

この時期は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」からはじまり、6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)が就任していた時期で、その内容から「将軍記」の一面も持っています。

吾妻鏡が成立した時期や編纂者については諸説ありますが、成立時期は鎌倉時代末期である1300年(正安2年)頃で、鎌倉幕府において実権を握っていた「北条氏」とかかわりの深い「金沢氏」や幕府の御家人達によって編纂されたと言うのが通説です。

巻数に関しても諸説あり、いくつかある写本(複製された本や文書)のなかでも、最も著名な「北条本」と呼ばれる写本では全52巻あることが分かっていますが、45巻(1巻)は欠損しているため、実質的には51巻となっています。

  • 刀剣ワールド財団所蔵の吾妻鏡(東鑑)
  • 刀剣ワールド財団所蔵の吾妻鏡(東鑑)

吾妻鏡(東鑑)
所蔵:刀剣ワールド財団

吾妻鏡の特徴

以仁王の挙兵

以仁王の挙兵

吾妻鏡は、1180年(治承4年)4月9日に、「後白河法皇」の皇子「以仁王」(もちひとおう)が「打倒平家」を掲げて挙兵した出来事にはじまり、1266年(文永3年)7月20日に6代将軍・宗尊親王が謀反の冤罪をかけられて、突如将軍職を解任され、京へと帰るまでの87年に亘る出来事が編年体(日記のように時系列順に追って記したもの)形式で書かれているのが特徴。

そして、特筆すべきなのは、東国の武家社会の歴史を詳細に記述している点です。鎌倉時代以前に成立した「古事記」や「日本書紀」は、朝廷を中心に書かれていました。一方で、吾妻鏡は「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府歴代将軍)に焦点を当てて書かれているため、日本における武家政権の最初の記録と評されています。

吾妻鏡の名称由来

日本武尊/倭建命

日本武尊

吾妻鏡は、「東鑑」とも表記されることがありますが「吾妻」も「東」も、どちらも「東国」(東日本)の意味を持つ言葉です。その由来は、鎌倉時代以前の神代の頃にまで遡ります。

古事記に登場する英雄で、最も知名度が高いのが「日本武尊」(やまとたけるのみこと)ですが、じつは東日本を吾妻と呼称するようになった理由は、日本武尊にまつわるある逸話が関係しているのです。

日本武尊が東国遠征を行ったときのこと。航海の途中で突然、暴風に見舞われて船を進ませることができなくなりました。このとき、日本武尊の傍には「弟橘媛/弟橘比売命」(おとたちばなひめ/おとたちばなひめのみこと)と言う女性がいたと言います。

弟橘媛は日本武尊の妃とされる人物で、日本武尊に「皇子の代わりに私が生贄となって、この暴風を鎮めましょう」と言い残すと、そのまま海へ飛び込んでしまいました。すると、暴風はたちまち止んで、日本武尊は無事に岸へ到着。

日本武尊はのちに、東国の平定を果たすのです。東国を無事に平定した日本武尊は、山の上から東国を見渡して、犠牲となった弟橘媛を想い「吾妻はや」(我が妻よ)と呟き、これがきっかけとなって東日本のことを吾妻(東)と呼ぶようになったと言われています。

吾妻鏡の内容

幕府の記録がメイン

吾妻鏡の編纂者は、幕府内部の関係者であったとするのが通説です。そのため、編纂する際の資料も御家人など、幕府内の人びとが所有していたものを使用したことから、その内容は「幕府の記録」がメインとなっているのが特徴。

一方で、幕府に関係しない朝廷のある近畿地方を含めた西国や、その他の地域など、鎌倉以外で起きた出来事や御家人ではない武士・公家の記述は多くありません。

源氏将軍と執権・北条得宗家、それぞれの評価

幕府の最高責任者と言えば「将軍」と考えるのが一般的です。しかし、鎌倉幕府においてはこの認識が通用しません。なぜなら、鎌倉幕府で実権を握っていたのは将軍ではなく、「執権」である北条氏、及び北条氏嫡流の当主「北条得宗家」(ほうじょうとくそうけ)だったからです。鎌倉幕府を開いた初代将軍・源頼朝は、優れた政治手腕とカリスマ性で、多くの御家人から支持を集めることができていました。

しかし、源頼朝が没したのちに将軍となった「源頼家」(みなもとのよりいえ:2代将軍)と「源実朝」(みなもとのさねとも:3代将軍)は就任当時、まだ若かったために源頼朝のような実績も皆無の状態。将軍とは言え、年若い2人に対して忠義を誓い、付きしたがう御家人は「梶原景時」(かじわらかげとき)や「比企能員」(ひきよしかず)など、一部の有力御家人を除いてほとんどいなかったと言います。

そして、将軍から実権を奪うために画策したのが北条氏でした。北条氏は、様々な手段を用いて有力御家人を滅亡に追い込み、幕府の実権を手に入れることに成功。幼い将軍達に代わって政務を担い、幕府運営を支え続けました。

吾妻鏡では、2代将軍・源頼家と3代将軍・源実朝については、大変厳しい評価が書かれています。また、初代将軍・源頼朝も、一見すると公平な評価が書かれているように見えますが、後世にイメージされるような「非情な人物像」が各所に記述されているのが特徴。

北条義時

北条義時

一方で、北条氏に台頭して実権を握り、幕府運営を行った2代執権「北条義時」や、「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)を制定した3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)などの北条得宗家に対する評価は、抜群に高くなっています。

例えば、「独裁的な政治を行った源氏将軍に対して、歴代執権となった北条得宗家は御家人達の身に寄り添い、仁政[じんせい:思いやりのある政治]を行った」と言った具合に書かれました。

吾妻鏡の諸本

吾妻鏡は、原本が見付かっていないため、多くの種類の写本が存在。そのなかでも、代表的とされるのは①北条本、②吉川本(きっかわぼん)、③島津本の3つです。

  1. 北条本

    黒田官兵衛

    黒田官兵衛

    北条本は、吾妻鏡のなかでも最も著名な諸本(同じ題材で、内容が異なる本)と言われています。なぜ北条本と呼ばれているのかと言うと、もともとは戦国時代に小田原城を拠点として関東を支配していた「小田原北条氏」(後北条氏)が所蔵していた写本であるため、北条本と名付けられました。

    北条本はその後、戦国武将「黒田官兵衛」(別名:黒田如水・黒田孝高)に渡り、江戸時代に入ってから「徳川将軍家」へ献上されたと言われています。なお、小田原北条氏から徳川将軍家へ何冊渡ったかは定かになっていません。

    そのため、北条本ははじめから52巻すべてが揃っていたわけではなく、徳川将軍家が以前から所持していた諸本と併さって全52巻となったのではないかと推測されています。

  2. 吉川本

    吉川本は、室町時代の守護大名「多々良姓大内氏」(たたらせいおおうちし)の家臣で「陶氏」(すえし/すえうじ)の一族「右田弘詮」(みぎたひろあき)が収集した「吾妻鏡の最善本」と称される写本です。

    右田弘詮は文人として名を馳せた人物で、当時一流の文化人と称された「宗祇」(そうぎ:室町時代の連歌師)や「猪苗代兼載」(いなわしろけんさい:戦国時代の連歌師)とも交流があったと言われています。

    右田弘詮は、そうした文化人達から「吾妻鏡と言う優れた歴史書がある」との噂を聞き、1501年(文亀元年)頃から吾妻鏡の写本を収集。集めることができたのは42帖で、それらは雇った筆生(ひっせい:筆写を行う職人)達に書き写させて秘蔵しました。

    • 吾妻鏡(吉川本)頼朝将軍記の首書(国立国会図書館ウェブサイトより)
      吾妻鏡(吉川本)
      頼朝将軍記の首書
    • 吉川元春
      吉川元春

    そのあと、全国各地を巡って欠落していたうちの5帖を入手し、以前筆写させた諸本と同じ形式で書き写させて、さらに年譜1帖を作成。1522年(大永2年)、約21年の歳月をかけて、年譜1帖と本文47帖の全48帖となる諸本が完成しました。

    本書はのちに、安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の戦国大名「毛利元就」へ献上され、毛利元就の次男「吉川元春」の子孫へ伝来。吉川本と言う名称は、「吉川氏」へ渡ったことが由来となっています。

  3. 島津本

    島津家の家紋「丸に十文字」

    島津家の家紋「丸に十文字」

    「島津本」は、鎌倉時代から江戸時代まで、薩摩国(現在の鹿児島県西部)を領していた戦国大名「島津家」が完成させた吾妻鏡の諸本です。

    島津本を完成させたのは島津家ですが、その原本となる吾妻鏡は、15世紀末頃に陸奥国岩瀬郡須賀川(現在の福島県須賀川市)を支配していた「二階堂氏」が所有していたと言われています。

    二階堂氏が所有していた写本はその後、島津家へ渡り、さらに島津家で収集・補訂が行われました。巻首目録(巻頭の目録)1冊と、本文51冊の計52冊で構成されているのが特徴です。

後世の吾妻鏡

徳川家康

徳川家康

吾妻鏡は、1605年(慶長10年)にはじめて刊本(印刷刊行された書物)が発行されました。

江戸幕府初代将軍「徳川家康」は、吾妻鏡の諸本を愛読書としていたと言われており、のちに武士向けの教訓書とするために、北条本の吾妻鏡をもとにした古活字版(こかつじばん:16世紀末~17世紀はじめに日本で刊行された活字印刷本)を出版。

さらに、1626年(寛永3年)には、古活字版に振り仮名を振った整版本(1枚の木板や瓦を使用して印刷した書物)が刊行されており、そのあともより多くの人が読めるように何度も手が加えられました。

吾妻鏡は現在、現代語訳版や漫画版など、様々な形で刊行されており、幅広い年代の人が気軽に読める読み物として浸透しています。

【国立国会図書館ウェブサイトより】

  • 吾妻鏡(吉川本) 頼朝将軍記の首書

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