1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」において、反徳川勢力であった西軍を率いていた「石田三成」(いしだみつなり)。「豊臣秀吉」の家臣として主君に忠実に働いていたが故に、平懐者(へいくわいもの:横柄で無遠慮な者)と揶揄され、同じ家臣達の中にも三成に恨みを持っていた者が少なくなかったと言われています。しかし、そんな三成に対し、生涯を通じて並々ならぬ恩義を感じていた武将がいました。それは、久保田藩(別名秋田藩)初代藩主「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)。ここでは、2人がそのような関係を結ぶまでに至った経緯と、三成から義宣に譲られた日本刀の一種である薙刀「丹波守吉道」(たんばのかみよしみち)についてご紹介します。
「石田三成」と佐竹義宣が親交を深めるきっかけを知るには、義宣の父・義重(よししげ)の時代にまで遡る必要があります。佐竹氏は、常陸国(ひたちのくに:現・茨城県)で平安時代から続く由緒正しい「清和源氏」(せいわげんじ)の家系。その第18代当主であった義重の時代には、関東のほとんどを北条氏が支配していました。
しかし義重は、7人の敵の首をひるむことなく1度に討ち取ったという逸話があることなどから「鬼義重」との異名を取るほどにその武勇をとどろかせ、越後国(えちごのくに)の「上杉謙信」(うえすぎけんしん)と連携を強めることで、北条氏の勢力拡大を阻止していたのです。
義重は戦の才能だけでなく、外交手腕や先見性も非常に優れていました。当時は、天下掌握に尽力していた「織田信長」が、関東への勢力拡大を目論んでいた時期。そこに目を付けた義重は、信長と友好関係を結んだのです。実際、信長が室町幕府第15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を擁して上洛(じょうらく:京都に入ること)する際、義重もそれに随行。そして、信長の奏上により、義重は常陸国の国司の中で実務上の長官の立場にある「従五位下・常陸介」(じゅごいのげ・ひたちのすけ)に補任されました。
1582年(天正10年)の「本能寺の変」により信長が倒れると、信長の権力を継承して天下統一を成し遂げるべく、彼の家臣であった豊臣秀吉が台頭してきます。このときにも義重は、1583年(天正11年)「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で、秀吉が「柴田勝家」(しばたかついえ)に勝利したことを祝うため、いち早く使者を送りました。
このような働きかけにより、天下人となる秀吉とも懇意の間柄になった義重。彼の息子である義宣が、秀吉に絶大な信頼を寄せられていた家臣・石田三成との親交が深くなっていったのも、ごく自然なことだと言えます。
1570年(元亀元年)に生まれた佐竹義宣は、父・義重の隠居に伴い、1586~1590年(天正14~18年)の間に家督を相続しました。この頃の佐竹氏は、義宣の従兄弟である仙台藩初代藩主「伊達政宗」の勢力が北方から拡大してきており、対立していた状況。
そして、南からは北条氏による侵攻が見られ、義宣は10代にして2大勢力の抗争の渦中に飛び込むことになったのです。
そんな中、1590年(天正18年)、義重・義宣父子のもとに、豊臣秀吉より戦への参陣要請が入ります。その戦とは、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げとなった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)。
1585(天正13年)に関白(かんぱく:成人した天皇の補佐として、政務を司っていた重職)に就任していた秀吉は、1587年(天正15年)天皇の名のもとに、関東・奥羽(おうう)地方(現・東北地方)に対して大名同士の私的な領土紛争を禁じた「惣無事令」(そうぶじれい)を発令していました。秀吉は、北条氏がこれに反したとして、当時の北条氏の居城であった小田原城に攻め入りました。
このときにも、政宗との戦いの真っ只中であった義重と義宣。すぐに小田原にまで向かうのは困難でした。しかし、当時の佐竹氏が置かれている状況を鑑みると、即参陣するのが得策だったのです。と言うのも、戦国時代において名を上げるためには、大きな戦いで武功を挙げることが何よりも重要。そして主君に背くことは、国替えやお家取り潰しなど、何らかの処分が科されることを意味していたのです。
そんな佐竹氏のピンチを救ったのが石田三成です。彼の仲介により、義重と義宣は小田原に駆け付けることができ、三成のもとで「忍城(おしじょう)の水攻め」に参陣。そのあとの「奥州仕置」(おうしゅうしおき)にも続けて参加した義重と義宣は、これら一連の功績が秀吉に認められたことにより、常陸国54万石が安堵され、悲願であった常陸国の平定を果たすことになりました。
ちなみに政宗は、義宣らより2ヵ月ほど遅れて小田原に向かったことが秀吉の心証を害してしまい、奥羽地方に約150万石あった所領が、72万石にまで減封されるという憂き目に遭っています。
1597年(慶長2年)、義宣の従兄弟にあたる下野(しもつけ)国の戦国大名「宇都宮国綱」(うつのみやくにつな)が、秀吉の命により、突如改易(かいえき:武士の身分を奪い、領地などを没収する刑罰)されました。
その理由には諸説あり、太閤検地の際、国綱が自身の石高を過少申告していたからだとも、豊臣五奉行のひとりで秀吉の重臣であった「浅野長政」(あさのながまさ)の三男・長重(ながしげ)を、跡継ぎのいなかった国綱の養子にさせる計画があったにもかかわらず、国綱の弟「芳賀高武」(はがたかたけ)や家臣らの反対により、破談にしたからだとも言われています。改易というのは、現代で言うリストラのこと。大名に科されてしまえば、その藩の武士全員が職を失うことになるのです。
この国綱の改易に際し、国綱と血縁関係にあった佐竹義宣は連座(れんざ:家族など、他の人が犯した罪の連帯責任を問われて処罰されること)させられそうになりました。このときも義宣は、石田三成の取り成しにより、改易の処分を免れたのです。
豊臣政権下では、石田三成をはじめとする政務担当であった「文治派」と、軍務を担当していた「武断派」の武将達が度々衝突していました。1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると、両派の対立が表面化。秀吉の忠臣「前田利家」(まえだとしいえ)が何とかその仲を取り持って抑えていましたが、1599年(慶長4年)3月に利家が死去したことをきっかけに、武断派である「加藤清正」(かとうきよまさ)や「福島正則」(ふくしままさのり)ら「七将」(しちしょう)による、三成暗殺計画が実行されようとしていたのです。
しかし、秀吉の三男・秀頼(ひでより)に仕えていた「桑島治右衛門」(くわじまじえもん)からの通報により、三成は、七将らが屋敷を襲撃してくる直前に義宣の屋敷へと逃亡。義宣は、三成に女性用の着物を着せて女輿(おんなごし)に乗せると、豊臣政権の五大老のひとり「宇喜田秀家」(うきたひでいえ)の屋敷にまで運んで匿ったのです。この結果、三成の暗殺計画は未遂に終わることになりました。
義宣が自らの危険を顧みずにこのような行動に出たのは、小田原征伐や改易事件の際に、三成から受けた恩義を忘れていなかったからに他なりません。襲撃事件後、義宣は茶の湯の師匠であった武将「古田織部」(ふるたおりべ)からは、七将らとの仲介をしてくれた「徳川家康」に釈明するように勧められました。
しかし、「公命に背いたことのない三成を討とうとするのは諸将の私情によるもの。私が三成を救ったのは、かつて恩を受けたからである」と答えたのです。これを聞いた家康は、「義宣の身命にかけて三成の恩に報いたことは、義と言うべきこと。異存はない」として、義宣の行動を認めました。
義宣は、三成襲撃事件のときに「治部(じぶ:石田三成の役職治部少輔の略)なくしては生きる甲斐がない」との言葉を残しています。
この一言からも、三成と義宣の親交がかなり深かったことが窺えますが、そのことが最もよく表れている出来事と言えば、1600年(慶長5年)に勃発した天下分け目の戦いである「関ヶ原の戦い」。家康の東軍に付くのか、それとも三成の西軍に付くのか。佐竹氏は究極の選択を迫られます。
秀吉亡きあと、家康の力が無視できないほどに大きくなっていたことを見抜いていた父・義重は、義宣に対し東軍側に付くように助言しました。しかし、三成に受けた恩義を忘れられない義宣は、関ヶ原の戦いの幕開けであり、会津藩(現・福島県)120万石の大名「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が対立した「会津征伐」に一応出陣したものの、あまり動こうとはせず、三成方であった上杉氏とも通じていたのです。
関ヶ原の戦いは、このように義宣がどっちつかずの態度を取ったまま、東軍が勝利を収めて終わってしまいました。
義宣本人は、あくまでも中立の立場を取っていたつもりかもしれません。しかし、家康からは「今の世の中では見たことのない、困りすぎるほどの律儀者」と評され、関ヶ原の戦いの2年後の1602年(慶長7年)、常陸国54万石から出羽(でわ)国秋田郡(現・秋田県)20万石への減転封を家康から命ぜられました。三成と義宣の厚い友情と親交が、佐竹家全体の運命も変える結果となったのです。
関ヶ原の戦いにおいて、一歩間違えれば佐竹家の存続が危ぶまれることを知りつつも、三成に対する恩義を忘れられず、最終的な決断を下すことができなかった義宣。
このとき三成は、そのような義宣の思いを知っていたかどうかは定かではありませんが、西軍側への助力を求め、薙刀「丹波守吉道」(たんばのかみよしみち)を義宣に贈っています。
銘 | 鑑定区分 | 刃長 | 所蔵・伝来 |
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丹波守吉道 | 未鑑定 | 2尺1寸2分 | 石田三成→ 佐竹家伝来→ 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |
日本刀の刀工である丹波守吉道は、室町時代末期に美濃国武儀(むぎ)郡関(せき:現・岐阜県関市)在住であった刀工「兼道」(かねみち)の三男。1593年(文禄2年)、兼道は、「吉道」を含む4人の子どもを引き連れて京都に移住し、兼道の姓であった「三品」(さんぴん)からその名を取った「三品系」(みしなけい)の始祖となります。
初代吉道は、1595年(文禄4年)に「丹波守」を受領。丹波守吉道は、幕末に至るまで7代続く良工であり、日本刀の刃文の一種である「簾刃」(すだれば)が最大の特徴です。
簾刃とは、刃先に平行して、線状あるいは点状に二筋、三筋と構成されている刃文のこと。しかし、初代吉道の最初期の1振であるこの薙刀は、どちらかと言えば「兼房乱れ」(けんぼうみだれ)と呼ばれる、頭がタコのように丸い「互(ぐ)の目乱れ」の刃文が焼かれており、簾刃の気配はまだ現れていません。
初代吉道が晩年になって簾刃の前兆を示す刃文を考案し、2代目がそのあとを継いで完成させたと考えられています。
また、日本刀の刀工丹波守吉道には、「帆掛丹波」(ほかけたんば)という別称があります。銘の「丹」の字が極端に右に傾き、その横棒が極めて上に引かれているさまが、船の帆に風がはらんでいるように見えることが由来です。それに対してこの薙刀の銘には、角張った形の丹の字が切られており、初代吉道の最初期の作品であることが分かります。
この薙刀は、その刀身のみならず、付属されている拵の朱色の柄も、三成が義宣に譲った当時のままの物。関ヶ原の戦いについて窺い知ることのできる、貴重な1振であると言えるのです。