江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)と言えば、「武家諸法度」(ぶけしょはっと)を改定して諸大名の参勤交代を義務化したり、「鎖国令」を発布したりと、幕府の基礎を確立するためにその力の限りを尽くしてきた将軍です。約260年間にも亘る江戸幕府の存続は、家光の政治力なくしては有り得なかったと言っても過言ではありません。 剣術を好んで学び、その腕前は、「柳生新陰流」(やぎゅうしんかげりゅう)の免許を皆伝されるほどであった家光。彼が所持していた日本刀と、それを拝領された大名「諏訪忠恒」(すわただつね)、及び諏訪氏との関係についてご紹介します。
諏訪氏は、長野県諏訪市にある「諏訪大社」上社において、代々「大祝」(おおほうり:神道において神に仕える職)に就いていた由緒正しい家柄。それと同時に信濃国(しなののくに)諏訪の地の領主でもありました。
しかし、1542年(天文11年)に「武田信玄」の侵攻により、諏訪氏の宗家は滅亡。諏訪氏は武田氏の支配下に置かれますが、武田一族の許しを得て諏訪大社の大祝の職を剥奪されることは免れます。そして、諏訪氏の第19代当主・諏訪頼重(よりしげ)の従兄弟であった頼忠(よりただ)がその職を継ぎ、諏訪氏は生き残りました。
1582年(天正10年)3月、織田信長・徳川家康連合軍の猛攻に屈し、「武田勝頼」(かつより)が自害。これにより武田氏が滅ぶと同年6月に「本能寺の変」が起き、信濃・甲斐(かい)を巡る「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)が徳川家康と「北条氏直」(ほうじょううじなお)との間で勃発します。これを好機と見た頼忠は、諏訪の旧臣と共に蜂起し、信長に任じられて「高島城」(たかしまじょう)の代官となっていた「弓削重蔵」(ゆげじゅうぞう)を駆逐。諏訪氏の再起を図りました。その際、家康軍が信濃を侵攻し、家康と諏訪氏は対立する形となりましたが、12月には和睦。諏訪氏は徳川家に家臣として仕えることになったのです。
1577年(天正5年)、頼忠は息子・頼水(よりみず)に大祝の職を譲り、1590年(天正18年)の「小田原征伐」に父子で従軍。
その後、家康が秀吉に関東移封を命じられると慣れ親しんだ諏訪の地を離れ、家康と共に関東へ移ることを決意。武蔵国(むさしのくに)に1万2,000石で封じられ、のちに上野国総社(こうずけのくにそうじゃ)に転封となります。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では、第2代将軍「徳川秀忠」の軍に属することになった頼忠父子。頼忠は江戸城の留守番役を担い、頼水は「上田城」攻めに参戦。その武功を称え、家康は諏訪氏に信濃高島城2万7,000石を与えました。つまり、これは諏訪氏の旧領復帰を意味し、これまでの戦における諏訪氏の活躍ぶりから家康は彼らの忠誠心を認め、諏訪氏代々の念願を叶えたのです。
家康が亡くなったあとの1616年(元和2年)、秀忠は家康の六男で弟の「松平忠輝」(まつだいらただてる)を、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」の際、大和口の総大将であったのにもかかわらず遅参したなどという理由から改易を命じます。このとき、忠輝の身柄が頼水のもとに預けられることになりました。
改易という罰を科すためと言っても、忠輝は家康の実子。徳川家が諏訪氏に、全幅の信頼を寄せていなければ、頼水に任せるようなことはなかったはず。そして諏訪氏はその信頼に応え、忠輝が生涯を終えるまで面倒を見ました。
また、1634年(寛永11年)には、頼水が家光からの杯と饗膳(きょうぜん:客をもてなす料理の膳)を受けたという史実も残っています。これら一連のエピソードは、徳川家の家臣の中では新参者であった諏訪氏が、やがて徳川家と固い絆で結ばれた証しだと言えるのです。
江戸時代には、将軍の直属家臣達の格式は、公式に将軍に謁見(えっけん:貴人や目上の人のお目にかかること)できるかどうかということで決められていました。特に元服(げんぷく:男子が成人になったことを祝う儀式)の際に初めて登城(とじょう:幕府に出勤すること)し、将軍に謁見することを「乗出し」(のりだし)と呼んで称えられており、諏訪氏もまた、譜代大名としてそれが許されていたのです。
頼水の長男で信濃国諏訪藩第2代藩主となる忠恒は、1607年(慶長12年)、13歳のときに元服し、徳川秀忠に謁見しています。その際、秀忠の偏諱(へんき:貴人の名前の2文字のうち、通字でない1文字のこと。江戸時代には、恩賞として主君から臣下に与えられていた)として「忠」の字を賜り、忠恒は初名となる「忠頼」(ただより)を名乗るようになります。諏訪氏の通字は「頼」でしたが、これ以降「忠」の字に変わりました。
秀忠への謁見で忠恒が賜ったのはそれだけではありません。乗出しでは、将軍から偏諱の他に官位と日本刀を賜るのが慣例となっていました。どちらも一人前の武士としての証しとなる物ですが、中でも日本刀は武家にとっては代々受け継がれる財産であり、武士の命とも言える物。将軍から直々にそれを賜ることは、武士にとって最高の栄誉だったのではないでしょうか。
忠恒が徳川家より日本刀を賜ったのは、乗出しのときだけではありませんでした。いつ頃であったかは定かではありませんが、徳川家光より貞真(さだざね)という太刀を賜っています。
「貞真」は、平安時代中期に備前国(びぜんのくに)でおこった刀工集団「古備前」に引き続いて鎌倉時代初期に現れた一文字系統のひとつ、「福岡一文字」に属していた刀工「宗忠」の子。福岡一文字の中でも、宗忠や貞真ら鎌倉初期に活躍した刀工達は「古一文字」と称されています。
一文字系統の刀工達は、太刀の銘として茎(なかご)に「一」の字を切るのが通例でしたが、古一文字の刀工達は個人銘を切るのみで、こちらの太刀の銘も同様に一の字はなく、個人銘である貞真だけが切られています。この刀の作風は、直刃調で小乱れという古備前派の特色を継承しつつも、一文字系統初期によく見られた小丁子乱れに地沸が付く典型的な物になっています。
鎌倉時代、後鳥羽(ごとば)上皇は「御番鍛冶」(ごばんかじ)として、名人と評される刀工を12名招集し、月番を定めて鍛刀させていましたが、福岡一文字から選出された刀工の数はなんと7名。これは当然、その技術力の高さを買われてのこと。
現代においても、備前伝の多くの刀工達が一文字の作風を目指していると言われており、どれほど優秀な刀工集団であったかが窺えます。その流れを汲む貞真もまた、優れた技能を持った刀工であったことは想像に難くありません。
そのような日本刀を家光が忠恒に譲ったことから、徳川家は諏訪氏に一目置いていたことが分かるのです。