江戸時代において、常陸土浦 (ひたちつちうら:現在の茨城県土浦市) 藩を11代にわたって治めていた「土屋家」。最終的に土浦藩9万5,000石を領するまでになりましたが、その治世が安定していたことを証明するがごとく、数多くの刀剣を所有していました。ここでは、その中の1振である日本刀の太刀「景依」(かげより)についてご紹介すると共に、土屋家のルーツをご説明します。
土屋氏には、相模(さがみ)国で興った「桓武平氏中村氏族」(かんむへいしなかむらしぞく)の流れを汲む系統もありますが、土浦藩の藩主であった土屋家の源流は、もとを辿ると、「足利氏族一色氏流」(あしかがしぞくいっしきしりゅう)の始祖「一色公深」(いっしききみふか/こうしん)に行き着くのです。
鎌倉幕府の御家人であった公深は、足利宗家第4代当主「足利泰氏」(あしかがやすうじ)の7男。彼から数えて4代あとの子孫である範貞(のりさだ)の曾孫・藤次(ふじつぐ)が、甲斐(かい:現在の山梨県)武田氏の第14代当主「武田信重」(たけだのぶしげ)の子で跡継ぎのいなかった光重(みつしげ)の養子となります。そして、藤次は、光重が再興させていた名跡「金丸」(かねまる)姓を継ぐことになったのです。
武田氏の重臣となった金丸氏はその親戚でもありました。そんな中、「武田信玄」(たけだしんげん)の傳役(もりやく:教育係)を務めていた「金丸虎義」(かねまるとらよし)の5男・惣蔵(そうぞう)が養子にいく話が持ち上がります。わずか13歳で飾った初陣において敵の首を討ち取った惣蔵の武功を知った、駿河(するが:現在の静岡県中部・北東部)今川氏の家臣「岡部貞綱」(おかべさだつな)が、自身の養子として惣蔵を迎え入れることを信玄に申し出たのです。
そして1570年(永禄13年/元亀元年)、貞綱が武田海賊衆の幹部になると、名跡であった「土屋」(つちや)姓を承継。それと同時に、惣蔵が貞綱の養子となることが認められました。このときに惣蔵は、信玄により「土屋昌恒」(つちやまさつね)と名乗ることを命じられています。
1575年(天正3年)、金丸虎義の次男で、すでに土屋姓を名乗っていた昌恒の実兄・昌続(まさつぐ)と養父・貞綱が、織田信長・徳川家康連合軍と「武田勝頼」(たけだかつより)とが対立した「長篠の戦い」(ながしののたたかい)において討死。
これを受けて、昌続と貞綱、両方の土屋家の家督を、昌恒が継ぐことになりました。武田方であった昌続と貞綱の家臣を率いた昌恒は、その優れた武勇を活かして勝頼に従い、上野(こうずけ:現在の群馬県)国や東海道方面での数多くの戦いに参加したのです。
中でも1580年(天正8年)、勝頼が上野国の「膳城」(ぜんじょう)を攻略した「素肌攻め」と称される戦いでの昌恒は、武具を身に着けない軽装で、城の大手門(正門)に先陣を切って乗り込んだという逸話が残っています。
さらに特筆すべきは、武田氏滅亡の結末を迎えた、1582年(天正10年)2月3日から始まった「甲州征伐」(こうしゅうせいばつ)。これは「織田信忠」(おだのぶただ)を主力とし、徳川家康・北条氏政(ほうじょううじまさ)と共に興した武田氏討伐の軍勢が、長篠の戦いで敗退したあとに衰退の一途を辿っていた勝頼の領国(上野・駿河・信濃・甲斐)へ侵攻した一連の戦いです。
信濃方面からの織田軍を始めとして、駿河方面は徳川軍、上野方面には北条軍というように、10万を超える軍勢が各地で進撃を開始すると、武田勢は次々と陥落。そして3月2日、勝頼の軍地拠点であった信濃「高遠城」(たかとおじょう)が織田軍によって落城した連絡が入ると、勝頼は、前年から築城していた甲斐「新府城」(しんぷじょう)に籠城します。
しかし、翌3日にはこれを放棄。甲斐「岩殿城」(いわどのじょう)へ向かうことが決まりますが、重臣「小山田信茂」(おやまだのぶしげ)の裏切りにより、その道も閉ざされ「天目山」(てんもくざん)を目指すことになりました。
このときには、すでに織田軍が押し迫って来ている状況。勝頼勢の兵の数が約50人であったのに対し、織田軍は3,000~4,000人。圧倒的に不利な状況を前に、勝頼に残されたのは、最早自害することのみ。勝頼は最期のプライドを守るため、敵に討たれる前に、自ら命を絶つことを選んだのです。
その時間を稼ぐのに、ひと肌脱いだのが土屋昌恒。織田軍の襲撃の前に立ちはだかり、断崖絶壁に生える蔓を片手に巻き付けて自身の体を支えながら、もう片方の手に握った刀で戦い続けました。この奮戦ぶりから「片手千人斬り」との異名を取るようになった昌恒。勝頼の切腹の際には、彼が介錯人を引き受け、自身は織田軍のもとへ乗り込んで討死。昌恒は、最期まで勝頼に付きしたがい、27歳の若さでその生涯を閉じました。
甲州征伐により武田氏が滅亡したように、昌恒の死により、その存続が危ぶまれた土屋家。まだ赤ん坊であった昌恒の長男・惣蔵は、母親と共に駿河国「清見寺」(せいけんじ)に逃亡します。この清見寺は、今川氏の人質であった家康が幼少期を過ごした場所。1588年(天正16年)、鷹狩り帰りの家康が清見寺で惣蔵を見かけ、昌恒の遺児であることを知ると、家康の側室であった「阿茶局」(あちゃのつぼね)の養子として迎え入れたのです。
そして1589年(天正17年)、10歳になった惣蔵は、小姓(こしょう:武将など身分の高い人のそばに仕え、身辺の世話をした少年)として家康に召し出されたあと、家康の3男・秀忠(ひでただ)の側衆(そばしゅう:江戸幕府において、将軍の側近として小姓などを支配した役職)としても仕えることになりました。その後惣蔵は、秀忠の偏諱(へんき:名前の2文字のうち、通字ではない1字のこと)「忠」の字を賜り、「忠直」(ただなお)と名乗るようになったのです。
1591年(天正19年)に、相模(さがみ)国3,000石の知行を与えられた忠直。さらに1602年(慶長7年)には、上総久留里藩(かずさくるりはん:現在の千葉県君津市久留里)に2万石で入封し、その初代藩主となりました。
しかし、土屋家と忠直の父・昌恒は、武田信玄・勝頼父子の重臣。つまり、家康にとって忠直は、敵方の子ということになります。それなのになぜ家康は、忠直を召し抱えて重用したのでしょうか。
それは、忠直の父・昌恒が、その命の限りを尽くして武田氏に仕えていたからということに他なりません。というのは、家康は、武田信玄から続いたいわゆる「武田流」の方法を自身の軍制に採用したり、最も信頼を寄せていた家臣のひとり「井伊直政」(いいなおまさ)のもとに武田氏の旧臣を配属し、武田軍に倣って、その強さの象徴である「赤備え」を装備させたりする程の「武田マニア」だったのです。
この他にも家康は、武田氏の親族衆で、甲斐武田氏の名跡を引き継いだものの断絶していた「穴山氏」の跡を、家康の5男・信吉(のぶよし)に継がせ、武田氏を再興させています。
このように敵対していながらも、戦国武将として武田信玄を尊敬していた家康。彼の武田氏に対する人一倍の思い入れがなければ、土屋家は太平の世である江戸時代を迎える前に、途絶えてしまっていたかもしれません。
忠直から3代にわたり、土屋家が久留里藩を治めていましたが、1679年(延宝7年)、第3代藩主「土屋直樹」(つちやなおき)の不可解な行動や狂気などの理由により、改易(かいえき:大名の領地が没収され、その身分も剥奪される刑罰)の処分を受け、お家取り潰しとなってしまいます。
しかしその後、土屋家祖先の功績により、直樹の嫡男で「土屋主税」(つちやちから)の通称で知られる逵直(みちなお)が、新たに旗本(はたもと:将軍家直属の家臣の中で、石高1万石未満及び御目見え以上の格式がある者)に取り立てられました。それから幕末まで、久留里藩土屋家は、旗本として存続したのです。
一方、忠直の次男で1619年(元和5年)から江戸幕府第3代将軍「徳川家光」(いえみつ)に仕えていた数直(かずなお)が、1662年(寛文2年)、土浦藩に1万石で入封。のちに4万5,000石まで加増されています。
数直の長男・政直(まさなお)がその家督を継ぎ、第2代藩主となりますが、1682年(天和2年)、一旦は駿河田中藩へ国替(くにがえ)となりました。
1687年(貞享4年)、政直は再び土浦藩へ6万5,000石で復帰。そして、老中(ろうじゅう:江戸幕府で、政務のすべてを取り仕切っていた重職)として、31年間にもわたり、第5代将軍「徳川綱吉」(つなよし)から家宣(いえのぶ)・家継(いえつぐ)・吉宗(よしむね)の4代に仕えたのです。この間に政直は、加増に次ぐ加増を受け、最終的に9万5,000石を領するまでになりました。
その後、水戸藩藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の17男で、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の弟「松平昭邦」(まつだいらあきくに)が、土浦藩第10代藩主「土屋寅直」(つちやともなお)の養子となります。昭邦は「土屋挙直」(つちやしげなお)に改名し、1868年(慶応4年)、養父・寅直の隠居に伴って第11代藩主となり、明治維新を迎えることとなったのです。
11代にわたって存続した土浦藩土屋家は、たくさんの刀剣が伝来していたことでも知られています。当時の武将が日本刀を入手するには、自身で刀工に制作を依頼するための財力はもちろん、将軍から下賜されたり、他の大名から譲られたりする程の信頼関係や政治力も持ち合わせていなければなりません。それらすべてが土浦藩土屋家に備わっていたことは、お家断絶の危機を乗り越え、明治時代になるまで大過なく存続したことからも分かるのです。
土浦藩土屋家が所蔵していた刀剣には、現代にまで伝わっている物も数多くありますが、その中のひとつに太刀「景依」(かげより)があります。景依は、鎌倉時代中期に備前(びぜん:現在の岡山県)国で興った、日本刀の刀工集団「長船」(おさふね)派のひとり。日本刀の代名詞とも言われる備前長船は、多くの名工を輩出。景依は、その祖である光忠(みつただ)の弟・景秀(かげひで)の息子だったのです。