刀剣には、「銘」(めい)と呼ばれる刀鍛冶の名前が刻まれています。歴史の中で最初に刀鍛冶の「銘」が切られたのは平安時代。「日本三名匠」と呼ばれる3人の有名な刀鍛冶「宗近」「友成」「安綱」は、銘が切られている刀鍛冶の中で、最も古い時代の刀匠です。現代まで語り継がれてきた名刀には、神秘的な物語と関連付けられた刀剣があります。
そんな、「日本三名匠」と称されるほどの有名な刀鍛冶が鍛えたとされる刀剣には、どのような物があるのでしょうか。現代まで名を馳せる「日本三名匠」の逸話や制作した刀剣についてご紹介します。
山城国の「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)は、三条派の始祖。宗近は公家の出身であり、初めから専門の刀鍛冶だった訳ではありません。趣味で日本刀を打っていたところ、腕があまりに良かったために、刀鍛冶として認知されていったということです。
宗近と言えば、名刀「小狐丸」(こぎつねまる)にまつわる謡曲「小鍛冶」が有名なので、あらすじをご紹介します。
一条天皇から新しく御剣を打つように命ぜられた宗近ですが、特別な剣を作るにはそれなりの技術を持った相槌(鍛冶が鉄を鍛えるとき、師弟が交互に槌を打つ)が必要でした。困った宗近が氏神である稲荷明神へ参拝に行くと、少年に声を掛けられます。不思議なことに少年は、御剣の作刀を命ぜられたこともすべてお見通しで、古今の名剣の話をして宗近を力づけました。
宗近が少年の言い付け通り、祭壇を築いて神々に祈りながら仕事にとりかかったところ、狐の精霊が現れて相槌を手伝ってくれたのです。先程の少年と相槌の狐は、稲荷明神の化身でした。こうして、神の力を借りて宝剣を完成させたのが、小鍛冶という物語。現在、小狐丸の所在は不明ですが、佩表には「小鍛冶宗近」、佩裏には「小狐」と銘が切られていたということです。
山陰地方の鉄産業では、古くから、鉄鋼生産者を「大鍛冶屋」と呼び、原鉄を用いて鉄製品を作る人を「小鍛冶屋」と呼んでいました。しかし、小鍛冶という言葉で宗近個人を指すようになった由来については、はっきりしたことは分かっていません。
父「実成」と共に一条天皇に召され、日本刀を鍛えたのが備前国の「友成」です。備前国は、古墳時代から鉄文化が栄えていました。それに加え吉井川が近くにあるため、材料となる鉄を運びやすくなりました。そして、製品となった日本刀を瀬戸内海から全国へ出荷するにも都合が良く、流通に恵まれていました。
友成の名は永延から嘉禎まで続き、友成がひとり鍛冶だとすると250年も生きたことになるので、古備前派に友成を名乗るグループがいたと考えるのが自然です。なお、「備前国友成造」や「友成作」の他、友成の銘があり、長銘である程古風な趣を持っていました。
友成の日本刀には、「鶯」や「鯨」という名が付けられた物があるものの、その由来に関するファンタジックな物語は伝わっていません。別の言い方をすれば、友成の日本刀には、切れ味をアピールするような武勇伝が必要なかったとも言えます。戦で使われた実績よりも、公家の宝として代々伝わったのちに天皇に献上された日本刀や、厳島神社に奉納された日本刀が有名です。
まずは頼光の前に、家臣のひとりである「渡辺綱」(わたなべのつな)の伝説をご紹介します。綱は、頼光から借りた「鬼切安綱」(おにきりやすつな)で、鬼の腕を切ったと伝えられる人物。
そのエピソードは、「太平記」や「御伽草子」などの文学作品だけでなく、能・歌舞伎舞踊・長唄などにも登場し、多くの人に親しまれてきましたが、言い伝えによって細部に少々異なる点も。
例えば、「平家物語」に登場する鬼。夜中に一条戻橋を通りかかった綱の前に、美しい女性として登場し、綱の馬に乗せてもらったところで正体を現します。ところが、能の「羅生門」に登場する鬼は、綱の方から羅生門に向かい、激しい雨の中で出現。なぜ綱がお供も連れず羅生門に向かうことになったかと言うと、酒宴の席で鬼が出ると主張する「平井保昌」(ひらいやすまさ)と、出ないと主張する綱の間で言い争いになり、綱がひとりで確かめに行くことになったからです。
この他、鬼の正体を「宇治の橋姫」とする説や、「茨木童子」(いばらきどうじ)とする説もありますが、綱が鬼の手を切り落とし、その後、綱のもとに鬼が腕を取り戻しにやってくる設定は、おおむね共通しています。
渡辺綱が鬼の腕を切ったとされる鬼切。この日本刀は、元々「髭切」(ひげきり)という名を持ち、さらに北野天満宮へ奉納されるまでに「獅子の子」や「友切」とも呼ばれ、何度も名前を変えています。源氏がこの日本刀を家宝にしていた時代には、戦況が芳しくないのは友切という名前のせいだとして、髭切に戻したことがありました。このように、所有する人間の都合によって、日本刀の名前すら変わってしまうこともあるのです。
安綱作の「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)は国宝にも指定されており、現存するすべての日本刀の中でも最高傑作と知られる「大包平」(おおかねひら)と共に、「日本刀の東西の両横綱」と称される名刀です。その切れ味を物語るエピソードとして、江戸時代に町田長太夫が試し切りを行なったところ、六体の死体を切断するばかりか木製の土台まで切れたという話が伝わっています。
童子切安綱を語る上で、「酒呑童子伝説」は外せません。伝説によると、丹波の大江山に住む「酒呑童子」(しゅてんどうじ)が、京都の町に度々出没しては治安を乱していました。朝廷は源頼光に酒呑童子の退治を命じます。山伏に変装した頼光とその家臣たちは、酒呑童子に毒酒を飲ませることに成功し、酔いつぶれた隙を見て首を取りました。その童子退治に使用されたのが、童子切安綱であったのです。
さらに、頼光が倒したと伝えられている土蜘蛛にも触れておきましょう。土蜘蛛という言葉は、朝廷に恭順しない豪族を指す言葉として使われていた過去がありました。また、前述の酒呑童子は山賊化した外国人だったとする説も。つまり、名刀に切り倒された者とは妖魔の類ではなく、朝廷にとって都合の悪い勢力のことだったと考えられるのです。そして、名刀物語は武士の武勇を賛美するために、あるいは、刀工の弟子やスポンサーが宣伝のために作り出した創作の可能性があると言えます。
ただし、見逃せないのは必ずしも権力者にとって都合の良いエピソードばかりが語り継がれている訳ではない点です。酒呑童子は、騙し討ちを仕掛けられたことに対して頼光らを激しく非難しました。さらに、退治された酒呑童子に対する同情や哀悼の描写も物語の中で多く見られ、そうなった背景には、政治を私物化していた権力者に対し民衆が密かに抱いていた反抗精神が絡んでいるという見方ができます。民衆の思いが、退治された酒呑童子と共鳴し、「鬼神に横道なきものを」(鬼だって道理に外れたことはしないという意味)と叫ぶ物語として受け継がれてきたという訳です。
彼らと同じ時代を生きていない私たちは、起源について推測するしかなく、妖魔の存在も完全に否定できません。しかし創作と当時の社会情勢、語り継ぐ人たちの思いが複雑に絡み合って現代に伝わっているのが、名刀物語であると言えるのではないでしょうか。