「伊達氏」(だてし)と聞いて1番に思い浮かぶのは、「独眼竜」(どくがんりゅう)の異称を持つ名将「伊達政宗」(だてまさむね)。伊達宗家の第17代当主である政宗は、陸奥仙台藩(むつせんだいはん:現在の宮城県仙台市)の初代藩主として、奥羽地方(おううちほう:現在の東北地方)を治めていました。しかし、政宗の長男・秀宗(ひでむね)は、後継者としての期待をかけられていながら、伊予宇和島藩(いようわじまはん:現在の愛媛県宇和島市)藩祖となったのです。 伊達宗家と遠く離れた西の地で、秀宗が伊達氏庶流家を興した理由とは?宇和島藩伊達家に伝来していた日本刀「備前国住長船忠光」と共に、宇和島藩伊達家の詳細についてご説明します。
伊達宗家の初代当主「伊達朝宗」(だてともむね)は、「藤原氏北家魚名流」(ふじわらしほっけうおなりゅう)の流れを汲む、平安時代の公卿であった「藤原山蔭」(ふじわらやまかげ)の子孫。朝宗の母が「源為義」(みなもとのためよし)の娘であった由縁から、朝宗は、為義の孫で鎌倉幕府初代征夷大将軍・「源頼朝」(みなもとのよりとも)の御家人となります。
そして、1189年(文治5年)、4人の息子を従え、「奥州征伐」に参加。その武功が認められ、頼朝より陸奥国伊達郡(現在の福島県北東部と宮城県との県境のあたり)の地が朝宗に与えられました。それまで「中村氏」を称していた朝宗でしたが、このことをきっかけに、伊達氏を名乗るようになります。
それから約400年のときを経て、1591年(天正19年)、伊達政宗の長男として陸奥国で生まれたのが、宇和島藩初代藩主となる伊達秀宗(幼名:兵五郎[ひょうごろう])。兵五郎の母「新造の方[※異説あり]」(しんぞうのかた)は政宗の側室だったことから、当時の兵五郎は、庶長子の立場にありました。しかし、政宗とその正室「愛姫」(めごひめ)との間には男子がいなかったため、兵五郎は、政宗の家臣達から「御曹司様」と呼ばれ、伊達宗家の家督を継ぐことを期待されていたのです。
1594年(文禄3年)、兵五郎が数えでわずか4歳のとき、父・政宗と共に「豊臣秀吉」へ拝謁。兵五郎は、秀吉への忠誠の証しである人質として、山城(現在の京都府南部)の伏見城で暮らすことになりました。
翌1595年(文禄4年)、秀吉の甥・秀次(ひでつぐ)が謀反の疑いにより切腹させられ、その妻子ら39名が処刑される事件が勃発。このとき、秀次と懇意の仲であった政宗が、連座(れんざ:家族など、他の人が犯した罪の連帯責任を問われて処罰されること)によって、伊予国への減転封をさせられそうになります。「徳川家康」の仲裁により、この処分は免れますが、政宗の重臣19人が連署起請文(れんしょきしょうもん:神仏に誓って契約を履行する旨を記した文書)を秀吉に提出。政宗が逆心を起こした場合には、家督を幼い兵五郎に譲り、隠居することを誓約させられたのです。
その一方で、兵五郎は、1596年(文禄5年)に秀吉の猶子(ゆうし:家督相続を第1の目的とせずに、他人の子を自分の子として迎え入れること)となり、秀吉のもとで元服。秀吉の「秀」の字を賜り、「兵五郎」から「秀宗」に改名しただけでなく、「豊臣」姓も授かります。
そして、秀吉の3男・秀頼(ひでより)の小姓(こしょう:武将など貴人に仕え、身のまわりの世話などをした少年)として取り立てられ、「従五位下侍従」(じゅごいげじじゅう)に叙位・任官されたのです。
秀吉亡きあとも、秀宗は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では、その幕開けとなった「会津征伐」で政宗が徳川方の東軍に付いたことから、「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍の副将「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)邸に、人質として留められます。さらに秀宗は、1602年(慶長7年)、伏見に赴き、初めて徳川家康に拝謁。江戸での人質として、差し出されることになりました。
秀吉の人質時代には、かなりの厚遇を受けていた秀宗。しかし、たった4歳の幼い頃から繰り返された、実父・政宗と離れて暮らすことを余儀なくされた人質生活の長い年月には、寂しい思いを抱いていたかもしれません。庶長子とは言え、伊達宗家の跡取りとして目をかけられていたこととは裏腹に、不遇の幼少時代を送っていたのです。
そんな秀宗に、さらなる不運が訪れます。1600年(慶長5年)、父・政宗の正室・愛姫に嫡男となる「虎菊丸」(とらぎくまる)が生まれ、1603年(慶長8年)には江戸幕府初代征夷大将軍となっていた徳川家康に拝謁。
それに加えて虎菊丸は、1611年(慶長16年)、江戸城での元服の際に、第2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)から「忠」の字を賜り、「忠宗」(ただむね)と名乗るようになります。これにより、伊達宗家の後継者は忠宗であることが正式に決定したのです。
このような状況の中で秀宗は、1614年(慶長19年)、父・政宗と共に「大坂冬の陣」に参戦し、初陣を飾ります。そして、その参陣の功により秀宗は、同年12月28日、秀忠から伊予宇和島10万石の領地を賜りました。
実はこの宇和島の領地は、当初は政宗に与えられた物。しかし、伊達宗家の跡取りになれなかった秀宗のために、政宗は別家を興すことを考えていました。そこで、宇和島の地を秀宗に譲ることについて許可してもらえるように、秀忠に働きかけたのです。そして、秀宗の忠義に報いる形で、秀忠はこれを許可。そのうえ、秀忠は、宇和島藩を仙台藩の支藩として扱うのではなく、国主(国持大名:1国以上の領地を与えられている格式の大名)として新たに取り立てる処遇を与えました。
好条件で宇和島藩に入部したかのように思われる秀宗ですが、その背景には、秀宗が豊臣姓を賜るほどに豊臣家と近しい関係であったことから、秀宗を江戸から遠ざけ、奥羽地方でもっとも有力な外様大名である伊達家を、東西に分断する必要があったことが理由にあるとも言われています。
1615年(慶長20年)の3月18日、宇和島城に秀宗が入城。正式に宇和島藩が成立し、その初代藩主となった秀宗。入部の際には、父・政宗が仙台伊達家の中から自ら厳選した、いわゆる「伊達57騎」と呼ばれる家臣団を含む、足軽や兵卒など約1,200名が付きしたがっていました。しかし、この家臣達こそが、宇和島藩主としての秀宗の船出を、前途多難なものにした原因になったのです。
秀宗が藩主となった頃の宇和島藩は、豊臣政権の時代から、短期間で領主や藩主が入れ替わっていたこともあり、財政がひっ迫している状況。秀宗入部のときには、それを立て直すための初期資金として、仙台藩から多額の借金をしています。
その金額は、3万両であったとも6万両とも伝えられていますが、この借金の返済をはじめとする藩の運営を巡って、家臣達が対立したのです。
その対立の代表格であったのが、もともとは仙台藩において、政宗の家臣であった「山家公頼」(やんべきんより)と「桜田元親」(さくらだもとちか)。
元親は、軍務のすべてを請け負う侍大将として、秀宗に付けられていました。それに対して公頼は、宇和島藩の筆頭家老として、軍務以外の総奉行を担当しただけでなく、秀宗の「目付」(めつけ:旗本や御家人を監察する役職)も任されていたのです。そのため、公頼から宇和島藩の藩政へ向けられた目は、非常に厳しいものでした。
仙台藩への借金返済を遅らせないよう、1635年(寛永12年)まで、「隠居料」という名目で毎年10万石のうち3万石を政宗へ献上し、藩の財政を圧迫。これにより、元親をはじめとする家臣達の俸禄も、減額せざるを得なくなりました。
徐々に不満を募らせていく、元親ら宇和島藩士達。公頼との対立が決定的となったのは、1619年(元和5年)、徳川秀忠より命じられた大坂城の石垣修繕工事を、公頼が引き受けたことです。多額の借金返済により大きな負担を強いられていた中で、莫大な工事費を工面しなければならなくなったことが、元親派閥の家臣達の怒りに火を点けたのです。
このことが発端となり、1620年(元和6年)6月、のちに「和霊騒動」(われいそうどう)と呼ばれる家臣同士のお家騒動が勃発。秀宗に命じられた元親派閥の者達の襲撃により、公頼一族が皆殺しにされてしまいました。
公頼のことを、伊達宗家側の煙たい存在と感じていた秀宗。そのため、秀宗は江戸幕府にも、そして政宗にさえも、この暗殺事件について報告していませんでした。これを知った政宗は憤激し、秀宗を勘当しただけでなく、幕府の老中であった「土井利勝」(どいとしかつ)に、宇和島藩返上を嘆願する書状を送ったのです。
困惑した利勝でしたが、この書状を幕府には取り次がずに政宗と秀宗の間を取り成し、父と子が腹を割って話せるように面会の場を設けました。そのとき、幼い頃からの人質生活で味わった苦悩や、仙台藩を継げなかったことに対する悔しさなど恨みとも言える思いを、政宗に洗いざらい訴えた秀宗。政宗はこれを真摯に受け止め、2人は和解。それからは互いに和歌などを贈り合うほど、良好な親子関係を築いたのです。
宇和島藩主としてのスタートは、前途洋洋とはならなかった秀宗でしたが、和霊騒動後には、その藩政に力の限りを尽くしました。そのかいあって、秀宗は、1622年(元和8年)に「遠江守」(とおとうみのかみ)に叙任されたあと、1626年(寛永3年)には「従四位下」(じゅしいげ)にまで昇叙したのです。
しかし、その後の宇和島藩には、秀宗の治世がかすむほどの功績を残し、名君と謳われた藩主が現れます。それは、第8代藩主であった「伊達宗城」(だてむねなり)。秀宗の3男で第2代藩主・宗利(むねとし)のときには、すでに跡継ぎがいなかった宇和島伊達家。そのため、宗利の娘婿でありながら、仙台藩第3代藩主「伊達綱宗」(だてつなむね)の3男でもあった宗贇(むねよし)を養嗣子として迎え、第7代藩主・宗紀(むねただ)までその血が継がれていきます。
ところが、宗紀には家督を継ぐ男子がおらず、1829年(文政12年)、旗本「山口直勝」(やまぐちなおかつ)の次男・亀三郎、のちの伊達宗城が養嗣子として宗紀のもとへ出されたのです。宗城の祖父「山口直清」(やまぐちなおきよ)は、もともと宇和島藩5代藩主・村候(むらとき)の次男。「山口直承」(やまぐちなおつね)の養嗣子となっていました。つまり、宇和島伊達家にもっとも血縁が近かったため、宗城がその後継者に選ばれたのです。
そのひとつが、藩の軍備を西洋式にしたこと。宗城は、思想犯として幕府に追われていた蘭学者「高野長英」(たかのちょうえい)や、のちに「大村益次郎」(おおむらますじろう)と名乗った、長州藩(現在の山口県)の蘭方医「村田蔵六」(むらたぞうろく)を宇和島に招き入れます。そして2人に兵法などに関する蘭学書の翻訳や、蘭学の講義を担当させました。その中で、長英は砲台の設計にも従事し、当時の最先端の技術を結集した物を築造。また蔵六は、1853年(嘉永6年)にアメリカから来航した黒船のような蒸気船を造るため、軍艦建造の研究を目的に、長崎にまで出向いたのです。さらに宗城は、提灯屋の「嘉蔵」(かぞう)に蒸気船の模型を作らせ、「御船方」(おふなかた:船に乗る業務を担当する者)に抜擢。蔵六と嘉蔵、医師と提灯屋という、兵法に関してはまったくの専門外であった2人を中心にして、宇和島藩の蒸気船は完成。
日本初となる蒸気船は薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県)の物でしたが、それには外国人技師が携わっており、日本人のみで造られたのは、宇和島藩が最初だったのです。
宗城を含めたこの4人の藩主は、のちに「幕末の四賢侯」(ばくまつのしけんこう)と称されますが、自身の藩のみならず、幕府の政治にも意欲的に参加。老中首座「阿部正弘」(あべまさひろ)に対して、幕政改革を行うように意見し、実際に採用されています。しかし、1857年(安政4年)に阿部正弘が亡くなると、その翌年大老に就任した「井伊直弼」(いいなおすけ)と四賢侯達との間で、第13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の継嗣問題を巡って意見が分かれました。四賢侯や水戸(みと:現在の茨城県)藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)は「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)を、直弼は紀州(きしゅう:現在の和歌山県)藩主「徳川慶福[家茂]」(とくがわよしとみ[いえもち])をそれぞれ推しましたが、最終的には直弼が大老の強権を発動。家定の後継者は、慶福になることが正式に決定したのです。
この騒動がきっかけとなり、直弼は一橋派や尊皇攘夷(そんのうじょうい:天皇を第一に敬い、外国を排除しようとする思想)派など、反幕府勢力を弾圧する「安政の大獄」(あんせいのたいごく)を開始。宗城は、他の四賢侯達と共に、直弼より蟄居(ちっきょ:自宅などの1室に閉じ込めて謹慎させた刑罰)を命じられ、隠居することになったのです。
隠居により、宗紀の3男であった宗徳(むねえ)を養嗣子として迎え、家督を譲った宗城。しかし、藩に対する宗城の影響力は衰えず、謹慎が解かれてからは、精力的に藩政へ関与します。その敏腕ぶりは、イギリスの外交官・アーネスト・サトウが著した日本滞在の回想録の中で、「四国の小領地の藩主にしては、もったいないほど有能」と評されるほど。このような宗城の才能は、朝廷にまで伝わっており、1862年(文久2年)、「孝明天皇」(こうめいてんのう)の命により、宗城は、国事周旋(こくじしゅうせん:国家の交渉ごとなどで当事者間に立って取り持つこと)にあたることになります。
そして、翌1863年(文久3年)、宗城は上洛を果たし、有力大名らと共に「参預会議」の一員となるのです。朝議や幕議に参加し、「公武合体論」(こうぶがったいろん:朝廷と幕府の結び付きを深め、幕藩体制を再び強化しようとする政策論)を推進。
1867年(慶応3年)に宗城は、「大政奉還」(たいせいほうかん:幕府が明治天皇に、政権を返上した政治的なできごと)を支持し、明治新政府の議定(ぎじょう:閣僚のこと)にも名を連ねます。しかし、旧幕府軍と新政府軍が対立した1868年(慶応4年/明治元年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、中立的な立場を取るために、軍事参謀を辞任したのです。
明治維新後の宗城は、外国官知事や民部卿兼大蔵卿、大蔵卿専任といった、明治政府の重要ポストを歴任。そして1871年(明治4年)には、日本側の全権大使として、「日清修好条規」に調印。宗城の優れた外交手腕が、高く評価されました。
1884年(明治17年)に施行された「華族令」(かぞくれい)により、宇和島伊達家は、五等爵のうちの第3位にあたる伯爵を賜ります。さらには、1891年(明治24年)、第9代藩主・宗徳は、宗城が明治維新を通じて残した功績が称えられ、第2位である侯爵に。
その一方で、仙台藩の伊達宗家は伯爵に留まっていたため、最終的には宇和島伊達家のほうが格上ということになったのです。
その理由は、幕末を見据えた近代化による藩政改革をはじめとして、宗城が自身の藩のみならず日本全体のことも考え、常に先を見て政治活動に取り組んでいたことにあるのかもしれません。
伊達秀宗の実父・政宗が秘蔵していた日本刀に、脇差「鎬藤四郎」(しのぎとうしろう)があります。その名刀ぶりを伝え聞いた徳川秀忠が所望しましたが、政宗は豊臣秀吉に拝領した形見であることを理由に断固拒否。この逸話からも分かるように、仙台伊達家にとっての日本刀は、例え主君であっても軽率には譲ることができないほど、重んじてきた物でした。
その理由は、武具である日本刀を長く伝来していくことが、その家が幾多の戦を乗り越えて、長く続いていることの証しになるということにあるのかもしれません。
このような仙台伊達家の日本刀に対する精神は、宇和島伊達家にも同じように受け継がれていることが窺えます。それは、宇和島伊達家が所蔵していた日本刀の中に、激動の戦国時代から幕末をも乗り越え、現代にまで残っている物がいくつもあるからです。その中のひとつが、刀「備前国住長船忠光」(びぜんのくにじゅうおさふねただみつ)。
忠光は、鎌倉時代に備前国(現在の岡山県南東部)で興った日本刀の刀工集団・長船派の中で、室町時代末期に活躍した「末備前」(すえびぜん)系統の代表工。末備前においてよく知られている日本刀の名工には、「勝光」(かつみつ)や「祐定」(すけさだ)などがいますが、忠光もまた、彼らと肩を並べるほどの高い作刀技術を持っていたのです。
こちらの刀には、裏銘に「延徳三年」と年紀が切られていることから、忠光系7代目にあたる「彦兵衛尉忠光」(ひこひょうえのじょうただみつ)作の物と推測が可能。
末備前は1590年(天正18年)頃、吉井川で発生した大洪水を受けて、長船派の拠点が消滅したことにより衰退してしまいました。しかし、それまでのおよそ120年もの間に、「忠光」銘を切った日本刀の刀工は幾人にも上っています。
彼らは総じて直刃(すぐは)の名手であったと評されていますが、こちらの忠光は、できの良い乱刃(みだれば)を示しているのが最大の特徴です。この刃文から、著名な愛刀家「岡野多郎松」(おかのたろまつ)氏は、その号(ごう:逸話などから後世になって付けられる、日本刀のニックネームのようなもの)を「走雲」(そううん)と名付けています。