愛知県の尾張地区と言えば、「織田信長」と「豊臣秀吉」の出身地であり、また「徳川家康」にもゆかりのある地域です。彼ら三英傑が活躍した室町末期から江戸初頭というのは、権力の変遷が目まぐるしい激動の時代。そして、刀剣史上でも、古刀から新刀へ移る過渡期でした。優れた刀剣、優れた刀工は、権力者のもとへ集まってくると言いますが、「尾張三作」と呼ばれる優秀な刀工達も、この時代に名古屋の地へやってきたのです。では、この背景にはどのようなことがあったのでしょうか。そして、時の権力者と彼らの関係はどのような物だったのでしょうか。
美濃国から尾張国に移住して繫栄した一派を「尾張関」と呼びますが、その中でも著名な刀工3名を「尾張三作」と呼びます。
刀工集団の中には、共同性を重んじるグループもありましたが、美濃鍛冶は、個々に作業するという独歩性が強い集団でした。もともと美濃鍛冶であった尾張三作もそういった傾向が強かったにもかかわらず、美濃本国とはやや趣の異なる独自の作風を持っていたため、昔から刀剣界の玄人たちから人気があったと言われています。では、尾張三作とはどのような人物だったのでしょうか。
尾張三作の「初代政常」は作域が広く、刀・脇差・短刀を作るだけでなく、槍(やり)と薙刀(なぎなた)の名手として有名です。美濃国では「兼常」(かねつね)と名乗っていましたが、尾張清洲に移り、「福島正則」のお抱え鍛冶となって、銘を「政常」に改めました。小牧に移住してからは、徳川家康の配下に入り、1584年(天正12年)の「小牧山の戦い」で槍100本を納め、銀子(ぎんす:銀貨のこと)を賜ります。
それ以来は、もっぱら徳川方の御用を勤め、1600年(慶長5年)に家康の四男、「松平忠吉」に召されると、小牧から清洲城下へ移住。1607年(慶長12年)に寵愛を受けていた忠吉が28歳で病没すると、その死を慎んで隠居しました。忠吉は非常に人望の厚い人物だったと伝えられていますので、初代政常にも大きな衝撃を与えたと考えられます。
家督を実子である「二代目政常」に譲ってからは、二代目を表に立たせ、親子で「徳川義直」に仕えました。しかし、わずか2年後、二代目政常が早世してしまったため、美濃国から養子を迎え、自らは「相模守藤原政常入道」として第一線に復帰しています。大切な人の死が、初代政常の刀鍛冶としての生き方も左右したのです。
「氏房家」は、血のつながりはありますが、受領名が代ごとに変わりますので、ここでは「若狭守氏房」(わかさのかみうじふさ)を父・若狭守、その子である二代目「飛騨守氏房」(ひだのかみうじふさ)を「氏房」、その子である三代目「備前守氏房(びぜんのかみうじふさ)」を「子・備前守」と呼ぶことにします。
父・若狭守が、織田信長のお抱え鍛冶だったこともあり、氏房は11歳になると、信長の三男「信孝」の「小姓」(こしょう)として仕えました。小姓とは、武将の雑用を請け負う少年のこと。平時には秘書、戦時には君主の盾にならねばならないポジションのため、幅広い知識や、一流の作法と武術を身に付けなくてはならなかったと言われています。「前田利家」や「加藤清正」など、有名な戦国武将の中にも小姓上がりの人物は多く、エリートと言えるでしょう。小姓に上がった氏房も、知行(ちぎょう:武士に支給された土地・給与)が父・若狭守よりも多かったと言われています。
ところが、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」で切腹を命じられた信孝が自害すると氏房は浪人に。その後「佐久間正勝」に仕えますが、正勝が出家してしまったため、再び浪人となった氏房。実は松平忠吉からも、たびたび声が掛かっていたところを、辞退していたと言うので、運悪く良い勤め先に出会えなかったのではなく、本人の意思で選んでいたことになります。こうして紆余曲折あった後に、父・若狭守のもとで刀鍛冶になるのですが、父・若狭守は息子・氏房の意思が定まるまで、気を揉んでいたのではないでしょうか。
代々徳川家に仕えていた名家が尾張三作の「伯耆守信高家」(ほうきのかみのぶたか)です。江戸初期は、政常や氏房を含む、数多くの美濃鍛冶が尾張へ移住し、尾張関と呼ばれましたが、それら刀工の総代を務めていました。美濃から尾張清洲城下を経て、名古屋城が完成した1610年(慶長15年)に名古屋へ移住。「初代信高」から銘と技術を受け継ぎ、五代まで「伯耆守」を受領しました。
話題が二代目の氏房に戻りますが、刀鍛冶として生きることを定め、師匠である父・若狭守を亡くしたあとは初代信高に付いて学んでいたと伝えられています。総代として信高家が他の家をサポートしていたのが窺い取れるエピソードです。
伯耆守信高は、初代が76歳、二代目は87歳、三代目が76歳で亡くなっており、「人間50年」と言われる当時の平均寿命から考えれば、非常に長生きな家系と言えます。
尾張三作の3人が、朝廷から受領名を賜ったのは1592年(天正20年)。その前年まで、数においても質においても断然他国に勝っていたのは備前鍛冶でした。
ところが、1591年(天正19年)に発生した豪雨による増水で、吉井川の堤防が決壊。付近に住んでいた備前の刀工たちはほとんどが亡くなり、壊滅状態に。この災害を転機に、業界二番手であった美濃鍛冶にスポットが当たることになりました。尾張三作以外にも、美濃鍛冶は京都・近江・越前・大阪などへ移住し、ここから新刀期に入っていったのです。
名古屋城が完成した1610年(慶長15年)は、尾張三作にとって、移住してきた節目の年。その約2年後から行なわれたのが、城下町ごと清洲(現在の愛知県清須市)から名古屋へ移す「清洲越し」です。武家屋敷・神社仏閣・橋・町屋・門までもが移され、莫大な費用がかかったと推測でき、家康の大胆さを垣間見ることができます。
ところで、どうして清洲越しをする必要があったのでしょうか。まずひとつに、清洲の地が水害に弱いこと。次に、名古屋城が建てられた「那古野台地」が、水陸の連絡に有効だったことが考えられます。水を恐れるだけでなく、水を制するという発想が、名古屋の発展に結びついたということです。
家康の慎重さを物語るエピソードは他にもあり、家康は水だけでなく火のリスクも考慮。万が一火災にあっても後世に伝えられるよう、国中から集めた優れた書物を3部写し、朝廷・幕府・家康の図書館の3ヵ所へ収めるほどの徹底ぶりでした。名古屋城のシンボルである金のシャチホコも、火災から城を守る守り神として設置されたと伝えられています。このようにして、名古屋城と尾張三作の暮らす城下町は、徳川家康の決断力と思慮深さによって、数百年にわたって繁栄することになるのです。
尾張三作の名前にはそれぞれ「守」(かみ)が付いています。この守とは県知事にあたる役職名を指す言葉。これは、本名とは別に通称として使っていた「受領名」と呼ばれる物です。役職の名前が付いていたと言っても、尾張三作の彼らは刀を鍛える職人であり、実際に国を治めていた訳ではありません。これはどういうことでしょうか?日本の歴史を尾張三作の時代から、さらにさかのぼってみます。
もともと、天皇を頂点として位や役職が与えられるという組織構造は、大和朝廷が中国の律令制を手本にして取り入れた制度。武家政権が発足してからも、任官のためには勅許(ちょっきょ:天皇の許可)を得なければならないという形式は変わりません。
仕組みとしては、まず、大名や武士側から官位を授かりたいと幕府の官途奉行に申し出ます。そして、奉行から朝廷に願い出て、そこで晴れて許可が下りるという構造です。朝廷が権力や秩序を守るために、このようなシステムにする必要があったのでしょう。「受領名」は、単に通称であった訳ではなく、地位や身分の等級を表していたのです。
しかし、時代が移るにしたがって、許可を得ずに勝手に名乗る大名や武士が現れます。例えば、若い頃の「織田信長」。副知事にあたる「介」を名乗っていますが、これも自称であったと言われています。
そして江戸時代、受領名に関しては、腕の良い職人や芸能人なども名乗ることができるようになりました。現代の感覚だと、名ばかりの知事になることがそんなにありがたいのか?と、首を傾げたくなりますが、当時の商工業者や芸能者にとっては、家業に箔が付き、ブランドの価値が上がって商売繁盛にもつながる大変名誉なことだったのです。
これにより、名前だけで商売がしやすくなるとなれば、横着な人が現れる物で、時代の流れと共に、個々の職人が父祖の代に許された受領名を勝手に世襲して看板に掲げるケースが増えていきます。見かねた朝廷は、18世紀半ばに幕府に要請し、実態を調査。それによると、江戸・京・大阪の職人で勅許を受けている者は1割弱に過ぎなかったということでした。
許可をしていない受領名を勝手に名乗る人が増えるということは、それだけ朝廷の権威が衰えていること。実は、勝手に名乗られて嬉しくない理由が他にもあり、それが収入の面でした。武家に荘園を横領され、経済的に困窮していた朝廷や寺院にとって、職人に官位を与えることで得られる収入は貴重だったのです。
最終的に、1869年(明治2年)受領名の授受廃止により、名ばかりの国司はいなくなります。尾張三作の時代には、確かな腕を持っていた職人が、その評価として賜っていたのが受領名でしたが、時代が下るごとに本当に実のない物へと変化してしまいました。受領名が有るからと言って、優秀な刀工の証とは言い切れなくなっていったのです。
氏房家の三代目、子・備前守が残した由緒書に、興味深いことが書かれています。尾張三作の受領名である「相模守」、「飛騨守」、「伯耆守」の受領には、「豊臣秀次」からの斡旋があったと言うのです。
1591年(天正19年)、尾張三作は聚楽第(じゅらくてい)にいる豊臣秀次のもとへ参上しました。氏房が太刀二振りを献上すると大いに喜び、「良い機会だ。こんど受領するがよい。朝廷に申請して遣わすぞ」と、秀次の方から親切に受領を勧めてくれたのです。3人は、「せっかくの御意ながら、献上物も用意していませんので、明年上京のときよろしく…」と、この場では辞退。翌年、再び上洛し、槍を3本献上して受領のことを頼むと、秀次はさっそく朝廷に受領の斡旋をしてくれたということです。
当時、自由営業の刀鍛冶は生活が苦しかったと言いますが、お抱え鍛冶は経済的にも恵まれていました。彼らは、君主と距離が近い分、目をかけられていたと推測できます。尾張三作は、そんな刀鍛冶の中でも、最も尊重される時代に生きたのではないでしょうか。