足利15代将軍

第4代将軍/足利義持
/ホームメイト

第4代将軍/足利義持 第4代将軍/足利義持
文字サイズ

南朝と北朝の合一を果たし、南北朝時代を終わらせた第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の跡を継いだのが「足利義持」(あしかがよしもち)です。室町幕府の最盛期を築いた足利義満の嫡男である足利義持は、偉大な父が遺した財産を引き継ぎながら、新たな時代を創生していきます。その背景には、父である足利義満との確執や、幕政を支えた守護大名との関係、朝廷の復興、京都での公武共存などがあり、足利義持はこれらを包括して新たな社会を構築していきました。室町幕府の基礎を築いた第4代将軍足利義持についてご紹介します。

偉大な父に反発した足利義持の生涯

異母弟との家督相続問題

足利義持

足利義持

「足利義持」(あしかがよしもち)は、1386年(至徳3年)に「足利義満」(あしかがよしみつ)と側室の「藤原慶子」(ふじわらのよしこ)の子として生まれました。

1394年(応永元年)に父の足利義満から将軍職を継承し、9歳で第4代将軍となっています。しかし、政治の実権は大御所となった足利義満にあり、引き続き幕府をはじめとする公武関係や、朝廷にも足利義満は強い権力を持っていました。

そのため、足利義満の意向により、足利義持も将軍就任からわずか10年で右大将の官位を与えられるなど、飛躍的な昇進を重ねていたのです。

しかし、足利義持が成長するにつれて、父・足利義満との関係は次第に悪化していくことに。その要因となった出来事には、生母の死と異母弟にあたる「足利義嗣」(あしかがよしつぐ)の存在が挙げられます。生母の藤原慶子が亡くなった際、足利義持が悲しみに暮れていたところ、父である足利義満は酒宴を開き大酒を飲んでいました。これをきっかけに、足利義持は父に対して嫌悪感を募らせていったのです。そして、足利義満の愛情は異母弟の幼い足利義嗣に偏向し、足利家の家督を足利義嗣に継がせるような行動を見せるようになります。

ところが、足利義満は後継者を決めぬまま急死してしまったため、すでに将軍を継いでいる足利義持と、足利義満から偏愛を受けていた足利義嗣の間で家督相続問題が勃発することに。世間では、足利義嗣が家督を継ぐのではと噂されるなか、守護大名や宿老「斯波義将」(しばよしゆき)の意向により、足利義持が家督相続する結果となりました。

このとき、足利義持が多くの守護大名に擁立されたことが、のちの足利義持政権で守護大名が政治の表舞台に立つ素地となったと言えます。

足利義持の政策は父への反発心?

父・足利義満の死後、足利義持は宿老である斯波義将とともに、新たな政策を打ち出していきます。当初、足利義持は、「花の御所」と呼ばれる父が建てた室町殿で暮らしていましたが、わずか1年で祖父「足利義詮」(あしかがよしあきら)の邸宅であった三条殿に移り住みました。

さらに、足利義持は、父である足利義満が造営した山荘、北山殿(現在の鹿苑寺[ろくおんじ:京都市北区])の舎利殿(金閣)のみ残して、すべてを解体してしまうのです。このような足利義持の行動は、少なからず父に対する反発心があったからだと考えられます。

そして、前代の体制に依存しない独自政策を推進していくなかで、足利義持は足利義満が始めた日明貿易に対しても、否定的な態度を取り始めます。ついに、明の勅使が入京することを拒んだ足利義持は、1411年(応永18年)に明との国交断絶に踏み切り、足利義満が築いた明との関係を終わらせたのです。

また、長年足利政権を支えた宿老・斯波義将の死後も、後任に足利義満が失脚させた「畠山満家」(はたけやまみついえ)を抜擢するなど、足利義持はことごとく父と正反対の政治スタンスを取り続けました。

くじ引きで決められた足利義持の後継者

1423年(応永30年)に、足利義持は嫡子「足利義量」(あしかがよしかず)に将軍職を譲り、出家します。しかし、2年後の1425年(応永32年)に、足利義量が19歳の若さで急死してしまうと、将軍後継がいなかったため、足利義持は再び幕政を包括するべく、実質的な将軍として政治に復帰します。この頃、朝廷においても天皇家の後継問題が起こり、また、幕府内でも管領や重臣による政争が水面下で起こるなど、幕府は様々な問題を抱え始めていました。

そんななか、足利義持に死期が迫ります。1428年(応永35年)、足利義持はお尻の出来物の瘡蓋を剥がしたことで、感染症を発症し発熱。お尻の出来物はみるみるうちに悪化し、座ることすらできないほどの痛みだったと言われています。そのあと数日のうちに、出来物は腫れ上がり傷口が腐り始めると、足利義持は寝たきりに。

突然の病状悪化に、管領の畠山満家をはじめとする重臣達はパニックとなり、後継者の指名を足利義持に促します。しかし、足利義持はこれを拒否して、後継者は幕府重臣達で決めるよう命じたのです。将軍からの予期せぬ答えに重臣達は困惑しましたが、協議の結果、足利義持の弟4人からくじ引きで後継者を選定することを決め、足利義持もこれに賛同します。そして、足利義持は発症から10日ほどで、この世を去りました。足利義持の死因は敗血症と言われており、享年43でした。

そののち、くじ引きによって足利義持と同母の弟「足利義教」(あしかがよしのり)が将軍職を継承することとなり、幕政は引き継がれていったのです。

室町時代における足利義持の役割

幕府体制は足利義持政権によって確立した?

室町幕府と言うと、初代将軍・足利尊氏から3代将軍・足利義満までにスポットが当てられがちですが、実は足利義持が将軍であった時代に幕府体制が確立したと言っても過言ではありません。3代将軍の時代までは、南北朝の合一や足利義満による天下のワンマン政治が主な流れであり、幕府を主体とする政治や社会編成は、4代将軍・足利義持の時代になってようやく地盤が固められました。本質的な室町幕府が、ここから始まったとも言えます。

伊勢神宮

伊勢神宮

また、足利義持政権期には、飢餓や疫病の流行が社会的な問題となっています。これにより、南北朝の混乱で長らく中止されていた祭祀や儀礼に関心が集まり、「伊勢神宮」(三重県伊勢市)などの寺社や朝廷からの呼びかけもあったことで、祭祀や儀礼が再興されました。

足利義持政権の幕府は、このような朝廷の祭祀や儀礼に進んで資金援助を行い、朝廷の復興にも貢献しています。こうして、足利義持は幕府体制づくりに尽力し、これらの体制は次代の幕府へと継承されていきました。

第4代将軍/足利義持
SNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「足利15代将軍」の記事を読む


初代将軍/足利尊氏

初代将軍/足利尊氏
「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、室町時代に15代にわたって中央政府に君臨し続けた足利将軍家の祖であり、室町幕府を開いた初代征夷大将軍です。足利家はもともと、河内源氏の流れである名門御家人の一家であり、鎌倉時代に源氏が3代で滅びたあとも、鎌倉幕府内で重要な地位にいました。当時、足利家は鎌倉幕府の執権・北条氏と血縁関係となることで家格を保ちながら、強権政治を行う北条氏に代わるリーダーとして、周囲から期待されていたのです。そして、足利家8代目当主である足利尊氏は、見事に鎌倉幕府を滅ぼし、将軍の地位を手に入れることとなります。足利尊氏の将軍宣下までの道のりを振り返るとともに、足利尊氏が将軍として生きた室町時代と南北朝時代をご紹介します。太平記足利尊氏が主人公の大河ドラマ「太平記」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。

初代将軍/足利尊氏

第2代将軍/足利義詮

第2代将軍/足利義詮
鎌倉幕府を滅亡させ、新たな幕府を京都に築いた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の跡を継いだのが、嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)です。幕府創府者である父・足利尊氏と、息子でカリスマ性を持つ3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の間に挟まれた足利義詮は、1991年(平成3年)に放送された大河ドラマ「太平記」(たいへいき)でも、どこか頼りないキャラクターとして描かれていました。しかし、実は歴代足利将軍の中でも名君だという評価もあります。父の謀反により、幼い頃から戦場に駆り出された過去を持つ足利義詮は、父とともに室町幕府草創期を支えた人物。南北朝問題を抱えるなか政権の安定化を図り、幕府の基盤を固めた足利義詮の人生をご紹介します。

第2代将軍/足利義詮

第3代将軍/足利義満

第3代将軍/足利義満
室町幕府歴代将軍の中で特に印象に残る人物と言えば、昭和に放送された国民的アニメ「一休さん」の将軍様でお馴染みの第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)です。初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の孫であり、父の第2代将軍「足利義詮」(あしかがよしあきら)の代で成し得なかった南北朝合一を果たして、足利政権を確立しました。また、世界遺産として知られる「金閣寺」(京都市北区)の建立や明との貿易など、そののちの日本に大きな影響を及ぼした政策・文化を打ち立てています。室町時代の全盛期を築いた将軍・足利義満の人生を見ていきましょう。

第3代将軍/足利義満

第5代将軍/足利義量

第5代将軍/足利義量
室町幕府第5代将軍に就いたのは、第4代将軍「足利義持」(あしかがよしもち)の嫡男「足利義量」(あしかがよしかず)です。足利義持には、正室と2人の側室がいましたが、男児に恵まれず元服の年齢まで存命していた子どもは足利義量だけだったと言われています。しかし、将軍職を継いだ足利義量も19歳という若さでこの世を去ってしまうのです。語られることの少ない短命な将軍・足利義量とは、一体どのような人物だったのでしょうか。足利義量の生い立ちを振り返りながら、足利義量の後継や、足利義量の死にまつわる噂についてご紹介します。

第5代将軍/足利義量

第6代将軍/足利義教

第6代将軍/足利義教
室町幕府では、第5代将軍「足利義量」(あしかがよしかず)が早世したことにより、しばらく将軍不在で幕政が続けられていました。そんななか、後継候補のいないまま幕政を主導してきた「足利義持」(あしかがよしもち)が急病となり、次代将軍の後継問題が浮上します。そして、長らく将軍空位となっていた幕府に、第6代将軍として「足利義教」(あしかがよしのり)が選ばれたのです。足利義教は「くじ引き将軍」、「還俗将軍」、「悪御所」など、様々な異名で呼ばれていたと言われています。なぜ、このような異名で呼ばれていたのか、足利義教の人生や治世をご紹介します。

第6代将軍/足利義教

第7代将軍/足利義勝

第7代将軍/足利義勝
室町幕府において、最後の強権的将軍とされた第6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)が暗殺されると、9歳の嫡男「足利義勝」(あしかがよしかつ)が将軍職を継ぎました。しかし、第7代将軍となった足利義勝は、征夷大将軍の任官からわずか8ヵ月で命を落としてしまいます。幼少将軍の突然の死は再び幕府に混乱を招いただけでなく、足利本家の権威失墜の端緒となってしまうことに。のちの足利本家や室町幕府にとって大きな意味を持つ、第7代将軍・足利義勝の時代をご紹介します。

第7代将軍/足利義勝

第8代将軍/足利義政

第8代将軍/足利義政
室町幕府第8代将軍となった「足利義政」(あしかがよしまさ)は、第6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)の子で、幼年で亡くなった第7代将軍「足利義勝」(あしかがよしかつ)の弟にあたる人物です。父の足利義教は、強権政治を行い「悪御所」(あくごしょ)と呼ばれていた将軍であり、「嘉吉の変」(かきつのへん)で家臣に暗殺されました。この事件は室町幕府に大きな影を落とし、後継となった足利義政に抱えきれないほどの負担を背負わせることとなります。戦国時代を生んだ大抗争「応仁の乱」を引き起こした足利義政の治世と人物像についてご紹介します。

第8代将軍/足利義政

第9代将軍/足利義尚

第9代将軍/足利義尚
室町幕府第9代将軍の「足利義尚」(あしかがよしひさ)は、第8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の子で、幕府体制の崩壊を招いた将軍継嗣問題の渦中にあった人物です。足利義尚が生まれた翌年に、幕府の主導権を巡って「応仁の乱」が勃発し、全国に波及したこの一大抗争は大きく時代を動かしました。足利将軍家の権威失墜後に将軍を継承した足利義尚は、幕府の立て直しと権威復活に力を注ぐのですが、幕政改革を進めるなかで病死してしまいます。志半ばで命を落とした足利義尚とは、一体どんな人物だったのでしょうか。足利義尚の生涯と人物像についてご紹介します。

第9代将軍/足利義尚

第10代将軍/足利義材

第10代将軍/足利義材
室町幕府第10代将軍の「足利義材」(あしかがよしき)は、足利15代将軍の中で唯一、征夷大将軍に2度任官した人物です。1度目の任官の際、幕府管領の「細川政元」(ほそかわまさもと)や幕府で権力を持っていた伯母「日野富子」(ひのとみこ)と対立したことで、足利義材は幕府から追放されてしまいます。管領の細川政元の死後、足利義材は再び将軍職に復帰し、「足利義稙」(あしかがよしたね)と改名して幕政を主導しました。「応仁の乱」から続く幕府と管領による主導権争いに直面し、将軍を廃立(はいりつ/はいりゅう:臣下が君主を廃して他の人を君主に立てること)させられるという一大事件の当事者となった足利義材の人生をご紹介します。

第10代将軍/足利義材

注目ワード
注目ワード