「応仁の乱」以降、多くの大名達が京都を離れて国元へ帰ったことで、幕府には少数の大名の姿しか見えなくなっていました。そのような状況下で、幕府内では管領やその家臣達が台頭し、足利将軍の権威を利用しながら、彼らが幕政の主導権を握るようになっていきます。第12代将軍に就いた「足利義晴」(あしかがよしはる)は、細川家の家督争いや、幕府管領の座を巡る抗争に巻き込まれ、逃亡生活のなかで将軍権威を失うことに。そんな父を見て将軍復権を目指したのが第13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)です。戦国時代に突入した室町時代後期に将軍親政のために奔走し、壮絶な最期を迎えた足利義輝の生涯をご紹介します。
「足利義輝」(あしかがよしてる)は、1536年(天文5年)に「足利義晴」(あしかがよしはる)と正室「慶寿院」(けいじゅいん)の間に誕生します。足利義輝が生まれた頃、父である足利義晴は幕府管領の「細川晴元」(ほそかわはるもと)と主導権争いをしており、劣勢になっては近江国(現在の滋賀県)に逃亡するという生活を送っていました。足利義晴が洛中(京都の市中)に向けて、近江国から京都の「南禅寺」(なんぜんじ:京都市左京区)に進出していたときに、ちょうど足利義輝が誕生したのです。
1539年(天文8年)には、細川晴元とその家臣の「三好長慶」(みよしながよし)の抗争が始まり、細川晴元側についた足利義晴は、再び劣勢となったことで洛外(京都市街地の外側)へ逃亡します。幼い足利義輝もこれに従い、3歳にして流浪生活を経験することとなりました。
そののち、1546年(天文15年)に父の足利義晴は足利義輝に将軍職を譲ろうとします。しかし、細川晴元と三好長慶の抗争が激化したため、再び京都から近江国へ逃れることに。
同年、逃亡先の「日吉神社」(現在の日吉大社:滋賀県大津市)で、足利義輝の元服式が行われ、朝廷からの勅使が到着すると、この地で将軍宣下の儀式が行われました。
こうして足利義輝は、正式に征夷大将軍に任官され、第13代将軍に就任します。本来、「室町殿」(むろまちどの:京都の足利将軍家の邸宅)と呼ばれる将軍が、京都で将軍就任できなかったというこの異常事態は、世間に大きな衝撃を与えました。
1550年(天文19年)に父の足利義晴が亡くなると、足利義輝は幕府で主導権を握る三好長慶との和睦と対立をくり返しました。
この間、足利義輝は京都での勢力復帰を一旦諦め、地方における戦国大名の懐柔政策を進めます。当時、足利義輝は幕臣や公家からも見放されていたため、新たな策を講じるためには、外交に頼るしかなかったのです。
「武田信玄」と「上杉謙信」の間で行われた「川中島の戦い」でも、足利義輝は争いの調停に努めています。この他、伊達氏、大友氏、毛利氏など諸大名の抗争を調停し、さらに諸大名の要求に応じて守護職を乱発しました。足利義輝はこれまでの失策をカバーするかのように、なりふり構わず戦国大名の取り込みを行ったのです。
そして、三好長慶との長期的な戦いで何度か敗走していた足利義輝は、三好長慶の軍事力に敵わないことを悟り和議を結ぶことに。こうして、1558年(永禄元年)に足利義輝は帰洛し、長く続いた流浪生活に終止符を打ちました。
しかし、幕政に復帰したものの、足利義輝は三好長慶から実権を奪うことはできず、和睦したあとも三好長慶を信用することができず悩んでいたと言われています。三好氏に栄典を授与するなど関係修復を図りましたが、足利義輝は三好長慶を取り込むことができませんでした。また、朝廷との関係も良好ではなかったため、足利義輝は地方で勢力を伸ばす大名達を幕府に繋ぎ止めることしかできなかったのです。
1562年(永禄5年)、足利義輝の嫡子「輝若丸」(てるわかまる)が生後3ヵ月で病死してしまいます。そして、この2年後の1564年(永禄7年)には、因縁の三好長慶が病死することに。
この嫡子と三好長慶の死を境に、足利義輝の運命は思わぬ方向に傾いていくこととなるのです。
三好長慶の死後、養子の「三好義継」(みよしよしつぐ)が三好家の跡を継ぐこととなり、足利義輝はこれを機に、将軍の権力回復を図ろうとしていました。
一方で、三好義継も家臣の「松永久通」(まつながひさみち)とともに、上洛後の政権奪取を企てていたのです。そして、1565年(永禄8年)に、三好義継は松永久通らとともに上洛した翌日、白昼堂々と二条御所を襲撃して足利義輝を殺害します。
当時、三好義継の上洛に伴う緊迫感はなく、足利義輝も警戒していた様子はありませんでした。そのため、足利義輝は突然の襲撃に、自ら刀を抜いて対応したと言われています。このとき、足利義輝とともに、「進士晴舎」(しんじはるいえ)ら多数の奉公衆が討死しており、生母の慶寿院、側室である進士晴舎の娘までもが殺害されていたのです。こうして、足利義輝は、将軍復権という父から受け継いだ遺志を成就させることができないまま、30歳でこの世を去りました。
襲撃事件によって壮絶な最期を迎えることとなった足利義輝ですが、実は「剣豪」という一面も持っていました。足利義輝が保護していた宣教師「ルイス・フロイス」によると、足利義輝は襲撃事件の際に、最初に薙刀(なぎなた)を振るって戦い、そのあと薙刀を投げ捨て、刀を抜いて奮闘したと伝えられています。
足利義輝は、兵法家の「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)の直弟子で、奥義「一之太刀」(ひとつのたち)を伝授されていたほど、剣術を極めた人物でした。そのため、江戸時代後期になると、足利義輝が伝家の宝刀を次々と差し替えて奮戦し、ひとりで30人以上を斬り倒したという剣豪エピソードが創作されました。実際に「永禄の変」(えいろくのへん)でこのような戦法を採っていたかは不明ですが、江戸時代の兵法家が足利義輝を卓越した剣術家だと評していたことには間違いありません。
足利義輝が壮絶な死を遂げたあと、三好氏と争っていた「畠山秋高」(はたけやまあきたか)は上杉謙信に対して、足利義輝は「天下諸侍御主」(全国の武家の棟梁)だったと話し、弔い合戦を呼びかけたと言われています。剣豪将軍の討死は、衝撃的な事件として全国の武家に広まっていったのです。
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