「芹沢鴨」(せりざわかも)は、筆頭局長として草創期の新撰組を牽引した人物です。京都での破天荒な振る舞いや、同志に暗殺されるという非業の死を迎えたことで、その名を知られていますが、江戸幕府が京都の治安維持のために募集した、「浪士組」(ろうしぐみ)参加以前の前半生は、謎に包まれています。また、剣術の腕前は相当な人物だったとも言われ、「近藤勇」(こんどういさみ)と「土方歳三」(ひじかたとしぞう)も、芹沢鴨の暗殺に際しては、周到な策を講じました。 酒乱や自制心の欠如など、致命的とも言える短所が、命取りとなった芹沢鴨。その破天荒な生涯を、愛刀の逸話と共にご紹介します。
「芹沢鴨」(せりざわかも)は、近藤勇と共に新撰組局長を務めた人物であり、常陸国・水戸(現在の茨城県水戸市)の出身です。
しかし、その前半生については、よく分かっていません。
まず、生年からして、1826年(文政9年)や1830年(文政13年/天保元年)、さらには1832年(天保3年)など諸説あります。
本名も不明で、本姓こそ「芹沢」であったことが有力視されていますが、名前の「鴨」は、浪士組に参加する際、洒落っ気で付けた可能性が大。
江戸時代、鴨肉と芹(セリ科の多年草)は、食材における絶妙な組み合わせとして人々に好まれていたことから、「芹とくれば鴨だろう」という具合に名付けたと推察されています。
芹沢鴨の足跡が明らかになるのは、1863年(文久3年)、「清河八郎」(きよかわはちろう)の呼びかけによって、江戸幕府14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛警護を目的として集められた浪士組に、同郷の「新見錦」(にいみにしき)らと参加して以降です。
それ以前は水戸藩で「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を敬い、外敵を排除しようとする思想)を掲げていた「天狗党」(てんぐとう)の一派を担っていたと言われていますが、定かではありません。
しかし、芹沢鴨が京都に到着するなり、浪士組の本当の目的が徳川家茂の警護ではなく、尊王攘夷運動の決行にあることが分かると、浪士組は分裂。近藤勇らの一派と共に、京都に留まった芹沢鴨は、「京都守護職」を務める会津藩(現在の福島県)を頼り、ここに新撰組の前身となる「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)が誕生するのです。そして芹沢鴨は、筆頭局長として、草創期の新撰組を牽引していきます。
芹沢鴨は、「神道無念流」(しんとうむねんりゅう)と称される剣術流派の創始者、「戸賀崎熊太郎」(とがさきくまたろう)の門下に入って修行を積み、攻めを主体とする激しい剣法である、同流派の師範役に就いていました。そんな芹沢鴨の愛刀は、「備後三原守家正家」(びんごみはらのかみまさいえ)。一般的には、「三原正家」の名で知られる刀匠が鍛えた日本刀です。
三原正家は代々、備後国(現在の広島県東部)において、日本刀の鍛造に携わった刀匠でした。時代によって、「古三原」(こみはら:鎌倉時代末期~南北朝時代)と「中三原」(なかみはら:室町時代前期)、「末三原」(すえみはら:室町時代後期)と区分されており、分派も多数派生し、幾多の名刀を世に送り出しています。
現存している三原正家の刀には、皇室の御物(ぎょぶつ:皇室家、及び宮内庁の所有品)や重要文化財、重要美術品に指定されている作例が少なくありません。
また、室町時代に当たる1413~1428年(応永20~35年/正長元年)頃に作刀を行っていた四代 正家は、江戸時代後期に、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられた、14工のひとりに選定されています。
芹沢鴨は背丈が高く恰幅の良い体格でした。威圧感のある体を活かし、三原正家の日本刀を手にして攻め、神道無念流を巧みに操ったわけですから、相当な剣豪だったことが窺えるのです。事実、芹沢鴨と面識のあった郷士(ごうし:武士の身分にありながら農業に従事した人、もしくは、農民でありながら武士と対等な待遇を受けていた人)、「八木源之丞」(やぎげんのじょう)の子孫は、「芹沢鴨は、剣術においてずば抜けた腕前を持っていた」と証言を残しています。
芹沢鴨の性格をひと言で表すと、「豪放磊落」(ごうほうらいらく:大胆で度量が広く、小さなことにはこだわらない様子)。肝の据わりは尋常ではなく、意思の齟齬(そご)によって、会津藩士から、眼前に槍の穂先を突き付けられた時にも一向に動じず、「尽忠報国之士・芹沢鴨」(じんちゅうほうこくのし・せりざわかも)と刻んだ鉄扇で、穂先をゆっくりと払いのけ、一歩も引かなかったと言う逸話が伝えられています。
芹沢鴨は学問にも堪能で、文武両道に達した一角(ひとかど)の人物でしたが、自身の長所を帳消しにしてしまう致命的な欠点がありました。酒乱の気があり、酩酊すると狂暴化する一面を持っていたのです。
新撰組の二番隊組長を務めた「永倉新八」(ながくらしんぱち)は、芹沢鴨について、「朝から酒の香りがして、酔っていないことは、まずなかった」と述懐しています。つまり、酔っていることが常態であったのです。そのため、日頃から粗暴な振る舞いが多く、「遊郭島原の角屋[すみや]に難癖を付け、営業を妨害していた」、「自分の求めに応じなかった芸妓と中居の髪を切った」など、酒席での横暴が今日にまで伝えられています。
また、怒りが爆発すると自制が利かないところがあり、1863年(文久3年)8月12日には、糸織物の交易商家であった「大和屋」(やまとや)を焼き討ちにする事件を引き起こしました。
しかし、新撰組は、京都守護職を務める会津藩お預かりのもと、京都の治安維持に当たるのが任務。こうした蛮行を見かねた会津藩は、芹沢鴨が藩にとって危険な存在であると判断し、近藤勇に対して暗殺の指令を出したのです。
1863年(文久3年)9月16日、壬生(みぶ:現在の京都市中京区)の新撰組屯所から、ほど近い遊郭島原の角屋で、新撰組隊士55名が参加しての大宴会が開かれました。芹沢鴨は、夕方6時頃に中座しますが、土方歳三らが加わって、内輪での宴会が続けられます。
芹沢鴨が屯所に戻ったのは午後10時頃。深夜、まず土方歳三が忍び入り、芹沢鴨の就寝を確認。次いで刺客4~5人が入り込み、芹沢鴨の寝込みを襲ったのです。
不意の暗殺部隊を相手に、脇差(わきざし)を抜いて応戦する芹沢鴨。「沖田総司」(おきたそうじ)に手傷を負わせるも、酩酊状態のうえに多人数相手とあって防戦一方となり、多くの手傷を被ったあげく、縁側伝いに隣の部屋まで逃げたところで絶命します。
実はこの夜の宴会は、芹沢鴨を確実に討ち取るために、近藤勇と土方歳三が立てた作戦でした。一流剣客である両名に、「酩酊させたうえで討ち取る」という策を立案させるあたり、芹沢鴨が持っていた剣の腕前のほどが窺えるのです。
芹沢鴨は、生年に諸説があるため、亡くなった年についても、32歳や34歳、38歳というように、史料によって異なります。新撰組内では「芹沢鴨は賊に殺された」として、同月18日に、盛大な葬儀を執り行いました。
なお、新撰組屯所であった八木源之丞の邸宅は、現在、「八木邸」(京都市中京区)として、京都市の有形文化財に指定。邸宅離れの鴨居には今も、芹沢鴨暗殺の際に付けられたと伝わる刀傷が、生々しく残っています。