幕末期、新たな政局の中心となりつつあった京都では、尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を敬い、外敵を排除する思想)を掲げた過激派による、「天誅」(てんちゅう)と称するテロが横行し、治安は極度に乱れていました。この治安回復のために新設されたのが、会津藩(現在の福島県)が務めることになる「京都守護職」。さらには、会津藩による支配のもと、実働部隊として「新選組」が新設されます。この新選組に局長として君臨し、並み居る猛者達を束ねたのが、「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)宗家4代の「近藤勇」(こんどういさみ)でした。ここでは、近藤勇の足跡や愛刀、そして天然理心流剣術などについてご紹介します。
近藤勇は1834年(天保5年)、武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)の農家「宮川久次郎」(みやがわきゅうじろう)の三男として生まれました。幼少から肝が据わっていた近藤勇には、様々な逸話が残されています。
例えば、近藤勇が14歳の頃、父親不在の「宮川家」に、賊が忍び込んだことがありました。兄2人は即座に動こうとしましたが、末弟の近藤勇(当時の通称は勝太[かつた])は、「今は奴らも気が立っているから」と兄を押し留め、賊が引き揚げる瞬間を狙って襲撃。
虚を衝かれた(つかれた)賊は、宮川家から奪い取った金品を放り出し、這う這うの体(ほうほうのてい:散々な目に遭い、慌ててその場を去る様子)で逃げ帰りました。近藤勇が、この頃から実戦感覚に秀でていたことが分かる逸話と言えます。
のちにこの話を聞いた天然理心流宗家3代「近藤周助/周斎」(こんどうしゅうすけ/しゅうさい)は、「農家にしておくのはもったいない」と、自流を継がせるべく養子に引き取り、天然理心流宗家4代・近藤勇が誕生するのです。
なお「天然理心流」とは、多摩地方に伝わる、地味ながら実戦本位の剣術。丸太ほどの太さがある木刀を用いて、形(かた)を練り上げる稽古に特徴があります。
近藤勇は、この形稽古を重ねることで、実戦に不可欠な胆力(たんりょく:物事に尻込みしないような強い精神力)や握力、体力を養っていたのです。
近藤周助から、天然理心流剣術の道場「試衛館」(しえいかん)を継承してからは、江戸で道場経営に専念していた近藤勇でしたが、1863年(文久3年)に転機が訪れます。江戸幕府による「浪士組」(ろうしぐみ)募集の呼びかけに応じ、道場の仲間を率いて上洛したのです。
しかし、近藤勇一行が京都に着くなり、「清河八郎」(きよかわはちろう)から、浪士組は将軍の警護ではなく、尊王攘夷活動が本当の目的であることを告げられ、近藤勇の浪士組への加入は、空中分解となってしまいます。そして近藤勇らは、多くの隊士が江戸へ帰る中で京都への残留を決め、京都守護職を務めていた会津藩を頼るのです。
ここに新選組の母体となる「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)が誕生し、近藤勇は局長に就任することになります。当時局長は3名おり、近藤勇は、筆頭局長の「芹沢鴨」(せりざわかも)を支える立場でした。
しかし、芹沢鴨のたび重なる蛮行を問題視した会津藩から、粛清(しゅくせい)の命が降りると、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)らと決行。そのあと、新選組におけるただひとりの局長として、君臨することになったのです。
1864年(文久4年/元治元年)に起こった「池田屋事件」(池田屋騒動)では、尊王攘夷派の中でも過激派の志士達が、秘密裏に会合を開いていた旅館「池田屋」に、少数の部下を引き連れて乗り込み、多くの尊王攘夷派の志士を捕縛、そして斬殺しました。
この事件により近藤勇は、新選組と自身の名を天下に轟かせます(とどろかせます)。これを機に新選組の役割は広がり、京都の治安維持に加えて江戸幕府の諜報機関としての任務にも従事。
1865年(元治2年/慶応元年)には、近藤勇自ら広島へ赴き、新選組局長としての正体を隠しながら、長州藩(現在の山口県)の役職者を尋問しました。
さらに近藤勇は、1867年(慶応3年)、正式に江戸幕府の「直参」(じきさん:主君[ここでは江戸幕府のこと]に直接仕えていた者)となり、諜報活動を通じて薩摩(現在の鹿児島県)・長州両藩の武力討幕情報を入手。この情報をもとに、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が、「大政奉還」(たいせいほうかん)を断行するのです。
そんな中、1868年(慶応4年/明治元年)に、徳川慶喜率いる「旧幕府軍」と、薩摩藩、及び長州藩が中心となって結成された「新政府軍」の間で、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が勃発。
その初戦となった「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)において、旧幕府軍に属していた新選組が敗れたあと、近藤勇は、江戸幕府直参の旗本として、「大久保大和」(おおくぼやまと)に名前を変更。「甲陽鎮撫隊」(こうようちんぶたい)を組織して進軍しますが、現在の山梨県甲州市で敗走します。
そして、現在の千葉県流山市で新政府軍に投降すると、1868年(慶応4年/明治元年)4月に斬首刑となりました。近藤勇の首は、処刑場で晒されたのち、京都の三条河原でも晒されています。「忠誠心で節義に殉じる」、そして「死を以って恩義に報いる」旨を詠んだ、2首の漢詩が近藤勇の辞世の句でした。
近藤勇の愛刀の1振を鍛えた「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)は、2代に亘って、江戸で日本刀を鍛造した刀匠です。初代は、もともと「長曽祢興里」(ながそねおきさと)と名乗っており、近江国(現在の滋賀県)で、甲冑(鎧兜)制作に携わっていました。
そして、50歳前後で江戸に移住し、それまで副業としていた鍛刀を本業とするようになった人物です。元甲冑師だけあって、その作例は質実剛健。明るく冴えた地鉄(じがね)や肉置(にくおき:刀身の厚さのこと)が特長であり、何よりも無類の切れ味を誇りました。
「石灯籠切虎徹」(いしどうろうぎりこてつ)の異名を持つ刀は、松の大枝を両断したところ、勢い余ってかたわらにあった石灯籠にまで切り込んでしまったという逸話が伝えられているほどです。なお、近藤勇が所持していた刀は、この初代 長曽祢虎徹による作刀。その伝来に関しては諸説あり、一説には、大坂の豪商「鴻池家」(こうのいけけ)から贈られたと伝えられています。
また、池田屋事件のあとに近藤勇は、義父・近藤周助への書状に、自身の愛刀について言及。「永倉新八[ながくらしんぱち]の刀は折れ、沖田総司[おきたそうじ]の刀は帽子(ぼうし:鋒/切先[きっさき]にある刃文)が欠けて、藤堂平助(とうどうへいすけ)は刃が刺さらないようになりましたが、自分の刀は、長曽祢虎徹であるから無事でありました」と誇らしげにしたためたのです。
長曾根虎徹と作風が似ていたことから、「会津虎徹」(あいづこてつ)と呼ばれたのが、会津藩のお抱え刀工であった「三善長道」(みよしながみち)です。同工が鍛えた日本刀の茎(なかご)には、3つの胴を重ねて実際に試し切りを行ったことや、片手切りで胴1体を両断したことを示す銘文が、金象嵌(きんぞうがん)で施されている刀もあります。
近藤勇は、この三善長道の作刀を、会津藩士「山本覚馬」(やまもとかくま)に所望して入手。なお、前述した初代 長曾根虎徹と初代 三善長道は、揃って「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられた名工でした。
そして近藤勇の愛刀、最後の1振は、「播州藤原宗貞」(ばんしゅうふじわらのむねさだ)が手掛けた刀。近藤勇が、江戸幕府の老中「板倉勝静」(いたくらかつきよ)から拝領した日本刀です。戊辰戦争において、甲陽鎮撫隊を率いた際に佩刀していたと伝えられています。