新撰組の主な戦士と愛刀

新見錦(新撰組・局長)
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新見錦(新撰組・局長) 新見錦(新撰組・局長)
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「新選組」(しんせんぐみ)草創期における中心人物の中でも、「新見錦」(にいみにしき)ほど、謎に満ちた存在はいません。水戸藩(現在の茨城県)脱藩を自称しておきながら、水戸藩の史料には名前が確認できず、一時期は局長格、次いで副長の地位にあったとは伝えられていますが、確たる活動が分かっておらず、判明しているのは、剣の腕前が確かであったことのみです。 新選組二番隊組長を務めた「永倉新八」(ながくらしんぱち)の回顧録「浪士文久報国記事」(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)、幕末の「西本願寺」(京都市下京区)において、侍臣(じしん:主君のそば近くに仕える者)を務めていた、「西村兼文」(にしむらかねふみ)の手による「新撰組始末記」など、同時代にまつわる史料に基づき、謎めいた新選組の隊士・新見錦の姿に迫ります。

剣の腕前のみ史料が残っている新見錦(にいみにしき)

新見錦

新見錦

新見錦(にいみにしき)は、新選組の草創期には局長格の座にありましたが、「近藤勇」(こんどういさみ)らに、切腹を強いられて亡くなった人物です。来歴については不明な部分も多く、新選組隊士中で、特に謎めいた存在とされています。

前述した西村兼文の「新撰組始末記」よりもあとに出版された、昭和期に活躍した小説家、「子母澤寛」(しもざわかん)の著書「新選組始末記」では、「剣の流儀は神道無念流[しんとうむねんりゅう]。岡田助右衛門[おかだすけえもん]に学んで免許皆伝」と、新見錦の剣術について記されていますが、真偽のほどは不明です。

ただし、幕末期の史料「東西紀聞」を紐解くと、相当な剣の使い手であったことが分かります。江戸幕府の呼びかけによって結成された「浪士組」(ろうしぐみ)の名簿が掲載されており、「芹沢鴨」(せりざわかも)や「沖田総司」(おきたそうじ)、「山南敬助」(やまなみけいすけ)らと共に、新見錦の名前の上に〇印が付けられているのです。

そして同書の注釈には、「〇印之分達人之趣ニ御座候」とあり、これこそ相当な剣の使い手だった証拠と言えます。しかし、新見錦は、新選組草創期の段階で死を迎えたため、そもそも剣を振るう機会も乏しかったと考えられ、刀を用いてどのように戦ったのか、また、愛刀はどのような1振であったのかといった事柄に関しては、明確な情報は存在していないのが実情です。

浪士組参加から新選組の中心人物へ

浪士組の「小頭」を務める

1863年(文久3年)2月、江戸幕府は、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の上洛に先んじて、徳川家茂を警護する組織を作るため、「浪士組」参加者の募集を行いました。

新たな政局の中心となりつつあった京都では、この時期、尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を尊び、外国を排除しようとする思想)の志士達による、「天誅」(てんちゅう)と称するテロが横行し、極度に治安が悪化。

そこで、脱藩者や半農半士など、正式な武士ではない人々から成る武装集団を、京都に派遣して京都の治安を回復させ、徳川家茂の上洛を万全にしようと画策したのです。新見錦は、芹沢鴨と共に浪士組に参加すると、1隊10名で構成される小隊の長、「小頭」(こがしら)に任じられます。

しかし、京都に到着すると、浪士組結成の中心人物「清河八郎」(きよかわはちろう)から、この部隊における本当の目的が、攘夷活動の先駆けであることを知らされ、浪士組は分裂。

多くの隊士が江戸へ帰る中、新見錦は京都に留まり、近藤勇や芹沢鴨と合流。やがて、新選組草創期における、中心人物のひとりとなるのです。

新選組での序列

京都残留を決めた同志達は、「京都守護職」を務める会津藩(現在の福島県)藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)を頼るべく、1863年(文久3年)3月15日、京都の会津藩邸を訪れました。この時のことが、「日本史籍協会」の編纂(へんさん)による「会津藩庁記録」に残されており、新見錦の席次は、浪士組の筆頭格であった芹沢鴨の次席。

また同年3月22日、京都残留組が、江戸幕府老中の「板倉勝静」(いたくらかつきよ)に提出した「建白書」(けんぱくしょ)には、新見錦は、芹沢鴨、近藤勇に次いで、3番目の地位で記されています。やがて正式に組織が整備されると、新体制では、局長に芹沢鴨、近藤勇、副長に新見錦、山南敬助、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)が就任。

これは、永倉新八の「浪士文久報国記事」に基づいた情報であり、新見錦は、この時点で早くも局長格から副長に降格したことが分かります。なお、副長となった新見錦の動向は不明であり、永倉新八の「新選組顛末記」に、「八月十八日の政変の際、隊士一同が御所警護に向かう中、新見錦は、近藤勇や芹沢鴨と共に、行軍(こうぐん:隊列を組んだ軍隊が、行進、または移動すること)の先頭に立った」ことを伝えるのみです。

新見錦の不可解な最期

記録にも相違がある

新見錦の最期は、1863年(文久3年)9月に訪れました。永倉新八が記した「浪士文久報国記事」には、次のように記されています。

「新選組に新見錦という隊士がいた。この御仁、法令を犯し乱暴狼藉(ろうぜき)を働くこと甚だしく(はなはだしく)、芹沢鴨と近藤勇が忠告しても聞く耳を持たない。一同は、[切腹させるより仕方がない]という結論に達した。京都の四条木屋町に、水戸浪人・吉成常郎(よしなりつねろう)という人が宿泊していた。新見錦は、この吉成の宿泊する旅籠(はたご)に押しかけ、狼藉を働いた。ここにおいて水戸浪人・梅津某(うめづなにがし)の介錯により、新見錦は切腹して果てた」

しかし、同じく永倉新八の著書である「同志連名記」では、新見錦の死について、「祇園新地貸座敷山緒宅にして切腹」と記し、さらに別著の「新選組顛末記」(しんせんぐみてんまつき)では、「近藤はついに隊長の権威をもって新見錦の横暴を抑え、非行の数々を列挙して祇園の貸座敷で詰腹を切らせた」と記されています。

このように、新見錦の最期については、切腹したということ以外、著書によりまちまちで、その真相は分かっていません。

「新選組始末記」に書かれた別の名前

西本願寺

西本願寺

新選組は、長らく京都の壬生(みぶ:現在の京都市中京区)にある「八木邸」などを屯所としていましたが、隊士の激増により、1865年(元治2年/慶応元年)に、「西本願寺」(京都市下京区)へ移動。この西本願寺の侍臣・西村兼文が書いた「新選組始末記」では、新見錦はいっさい登場せず、新見錦の代役とも言える隊士の名が出てきます。

その名は、「田中伊織」(たなかいおり)。同書において、この田中伊織が、新選組の前身「壬生浪士組」創設期の一員であることが明記されており、その死因については、「近藤ノ意ニ応ゼザル事ノアルヲ悪 [にく]ミ、闇殺ス」と書かれています。

田中伊織の墓は壬生に現存し、刻まれた死亡日は、「文久三年九月十三日」です。新選組研究者の多くは、「新見錦と田中伊織の名前が重複した記録はない」、「新見錦と田中伊織の死亡日がほぼ一致する」ことなどを理由に、両者を同一人物と考えています。

しかし、なぜ別名で記されているのか、本名はどちらなのか、そして新見錦は、水戸藩脱藩を称していたにもかかわらず、なぜ水戸藩の史料に田中伊織の名前がないのかなど、不明点が多数。これらの真相は、今も闇に包まれているのです。

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