新撰組の主な戦士と愛刀

藤堂平助(新撰組・八番隊組長)
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藤堂平助(新撰組・八番隊組長) 藤堂平助(新撰組・八番隊組長)
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「新撰組」(しんせんぐみ)にその草創期から参加し、「八番隊組長」を務めた「藤堂平助」(とうどうへいすけ)。「池田屋事件」(池田屋騒動)などでも活躍した新撰組きっての剣客でありながら、のちに新撰組を離れ、同組の参謀であった「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)が結成した、「御陵衛士」(ごりょうえじ)に参加。その後、「油小路の変」(あぶらのこうじのへん)において、非業(ひごう)の最期を遂げました。 藤堂平助の新撰組への参加から離脱までの経緯、そして、愛刀「上総介兼重」(かずさのすけかねしげ)にまつわる逸話を軸に、その数奇な生涯を辿ります。

藤堂平助(とうどうへいすけ)の人となり

名家出身の美男子

藤堂平助

藤堂平助

藤堂平助は、古武道における流派のひとつ、「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)の道場「試衛館」(しえいかん)に出入りして剣術を学び、その後、道場主であった近藤勇より代稽古を任されるほど、高い剣の腕前を持っていた人物です。

藤堂平助の出自には諸説ありますが、その一説を窺える石碑が、東京都日野市にある「金剛寺」(こんごうじ:通称「高幡不動尊」[たかはたふどうそん])で見られます。

それは、新撰組の二番隊組長「永倉新八」(ながくらしんぱち)が中心となって建立した「殉節両雄之碑」(じゅんせつりょうゆうのひ)。

そこに刻まれた銘文によれば、藤堂平助は、津藩(現在の三重県)11代藩主「藤堂高猷」(とうどうたかゆき)の御落胤(ごらくいん:父親に認知されていない庶子のこと)であり、試衛館で剣術の修行を積む以前には、「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の創始者、「千葉周作」(ちばしゅうさく)の門下で剣術を学んだことが記されています。

また、薩摩藩(現在の鹿児島県)の藩士が京都の風説をまとめた書物、「京師騒動見聞雑記録」(けいしそうどうけんぶんざっきろく)には、藤堂平助について、「いたって美男士の由御座候」と明記されており、かなり男前な風貌だったことが分かっているのです。

血気盛んな「魁先生」(さきがけせんせい)

新撰組隊士「阿部十郎」(あべじゅうろう)が記した「史談会速記録」によると、藤堂平助は、「藤堂は小兵でございますけれども、なかなか剣術はよく使いまして、また文字[学問]もございます」と評されており、文武両道の人物でした。

また、その性格は、「京師騒動見聞雑記録」に「藤堂平助と申すもの別けて[わけて:特に]盛んなる壮士の由」とあり、かなり血気盛んであったと伝えられています。事実、藤堂平助は、京都の治安を守る任務中、いざ実力行使という場面になると、真っ先に切り込むのが常でした。

このように藤堂平助は、何でも「先駆けて」行動する性格から、新撰組内では、「魁先生」(さきがけせんせい)との異名でも呼ばれていたのです。

近藤勇と上洛し新撰組の一員に

池田屋事件での奮闘ぶり

藤堂平助は、新撰組が結成される以前、近藤勇らが江戸幕府による「浪士組」(ろうしぐみ)募集に応じ、上洛したときから行動を共にしています。

しかし、京都に到着するも、早々に浪士組が分裂。京都に留まるため、京都守護職の会津藩(現在の福島県)藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)を頼ることに。その際提出した嘆願書にも、藤堂平助の名が見られており、同行していたことが分かります。

また、新撰組がその名を知らしめた1864年(文久4年/元治元年)6月の池田屋事件でも、最前線で奮戦。近藤勇や永倉新八、「沖田総司」(おきたそうじ)と共に池田屋の表口から突入すると、1階にあった中庭を持ち場として獅子奮迅の働きを見せます。

しかし、暑さのために額の鉢鉄(はちがね)を外したところを、敵方より切り付けられて負傷。永倉新八の助太刀(すけだち)により、藤堂平助は、辛うじて戦線を離脱しました。そのとき、愛刀の上総介兼重がひどく損傷したと見られ、近藤勇が「藤堂の刀は刃切、ささら(茶筅[ちゃせん]を横に長くしたような楽器のこと)のごとく」と書状に書き記したほどでした。なお、この池田屋での働きによって藤堂平助は、会津藩から計20両(現在の約200,000円)の報奨金を下賜されています。

上総介兼重を愛刀にした理由

藤堂平助の愛刀を鍛えた上総介兼重は、武蔵国(現在の東京都23区、埼玉県神奈川県の一部)において、3代に亘って日本刀鍛造に携わった刀工です。初代が「和泉守」(いずみのかみ)の官位を受領して以降、作刀の(なかご)には、「和泉守兼重」の銘を切っていましたが、2代目によって「上総守兼重」に改銘。

これは、同工が召し抱えられていた津藩の藩主「藤堂高久」(とうどうたかひさ)が、「和泉守」に叙任されたことで、同じ受領銘を用いることを遠慮したためです。その後、「守」の字を「介」の字に変え、「上総介兼重」を銘としました。

なお、もともと津藩において浪人の身分にあった藤堂平助が、名刀の上総介兼重を愛刀として用いられた理由には諸説あります。そのうちのひとつとして、藤堂平助は庶子であったとは言え、その出自が「藤堂家」にあったことが挙げられているのです。

伊東甲子太郎との再会

伊東甲子太郎

伊東甲子太郎

池田屋事件のあとに藤堂平助は、近藤勇に命じられ、隊士を補充するため江戸へ向かいます。

このとき真っ先に訪れた場所が、深川佐賀町(現在の東京都江東区)で伊東甲子太郎が開いていた、北辰一刀流の道場でした。藤堂平助と伊東甲子太郎は、近藤勇の試衛館に出入りしていた時期から知己(ちき)を得ており、その関係は師弟に近かったと言われているのです。

ここで藤堂平助は、「近藤勇は江戸幕府の走狗[そうく:人の手先として使われる者]になっている」、「小成[しょうせい:わずかな成功]に甘んじている」、「尊王攘夷[そんのうじょうい:天皇を敬って外国を排除し、日本国内に入れないようにする思想]を断行するという結成本来の目的は、いつ達成できるか分からぬ」と、近藤勇に対する激しい不満を口にしたと伝えられています。

その上で藤堂平助は、伊東甲子太郎に、「近藤勇を暗殺して、尊王の志厚い貴殿を隊長にいただき、新撰組を純粋な尊王派の部隊に改めたい。それ故、先立って京都を発った[たった]のです」と新撰組への加入を提案し、伊東甲子太郎は、これを承諾したのです。

「油小路の変」での最期

土方歳三

土方歳三

藤堂平助の仲介により新撰組に入隊した伊東甲子太郎は、局長の相談役である「参謀」(さんぼう)の重責を担いますが、思想面において、近藤勇や「土方歳三」(ひじかたとしぞう)ら新撰組首脳陣と次第に対立。

1867年(慶応3年)には、前年に崩御した121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)の陵墓(りょうぼ)を守る「御陵衛士」(ごりょうえじ)を組織し、新撰組から分離します。

このとき、藤堂平助も御陵衛士の一員となり、新撰組と決別。かねて志向していた、尊王攘夷の道を歩み始めるのです。

その後、新撰組の三番隊組長「斎藤一」(さいとうはじめ)を間者(かんじゃ:敵方に潜り込み、その動向や様子を密かに探る者)として、御陵衛士に送り込んだ近藤勇らは、伊東甲子太郎一派が、自分達の暗殺を企てていることを察知。

これにより、1867年(慶応3年)11月18日に、伊東甲子太郎の殺害と御陵衛士の殲滅(せんめつ)を目的とした、新撰組を二分する「油小路の変」(油小路事件)が勃発します。

まず、伊東甲子太郎を近藤勇の妾宅に呼び寄せると、酒を酌み交わして酔わせ、帰途に就いているところを襲撃。さらには、伊東甲子太郎の亡骸(なきがら)を放置して御陵衛士の面々をおびき寄せ、一気に殲滅を図ったのです。最初に現場へと駆け付けて、新撰組の隊士達に切られたのは、藤堂平助でした。

伊東甲子太郎の亡骸を駕籠(かご)に乗せようとしたところ、振り向きざまに顔面を切られ、得物(えもの:自分が得意とする武器)を抜き合わす間もなく即死。近藤勇は、あらかじめ藤堂平助だけは見逃すよう指示を出し、現場で指揮を執った永倉新八と「原田左之助」(はらださのすけ)も、その手はずを整えていましたが、藤堂平助は、事情を知らない隊士の手にかかり、24歳という若さであっけなく最期を遂げたのです。

益荒男(ますらお)の 七世(ななせ)をかけて 誓ひして ことばたがわじ 大君のため

この和歌は、藤堂平助作と伝えられており、「西本願寺」(にしほんがんじ:京都市下京区)の侍臣(じしん:主君のそば近くに仕える者)「西村兼文」(にしむらかねふみ)が編纂した、「近世殉難一人一首伝」に記載されている1首です。頑なに(かたくな)に尊王の思想を貫こうとした、藤堂平助の心情が窺えます。

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「永倉新八」(ながくらしんぱち)は、「新撰組」(しんせんぐみ)の二番隊組長を務めた人物。「池田屋事件(池田屋騒動)」をはじめ、新撰組の隊士の中でも、第一線で活躍を続けた、同組きっての剣豪です。明治維新後は、新撰組の記録作成に専念し、「浪士文久報国記事」(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)や、「同志連名控」(どうしれんめいひかえ)などの著書に記録を残しました。これらは、新撰組や、その往時を知る貴重な史料として、現在も重要視されています。つまり永倉新八は、歴史的な貢献度も高い新撰組隊士とも言えるのです。愛刀「播州住手柄山氏繁」(ばんしゅうじゅうてがらやまうじしげ)を手に戦い、幕末期を駆け抜けた姿や、晩年の著作活動に焦点を当て、永倉新八の実像に迫ります。

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斎藤一(新撰組・三番隊組長)

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「新撰組」(しんせんぐみ)の「三番隊組長」を務めた「斎藤一」(さいとうはじめ)は、「溝口派一刀流」(みぞぐちはいっとうりゅう)と、「聖徳太子流」の剣術を修めた剣客です。「沖田総司」(おきたそうじ)や「永倉新八」(ながくらしんぱち)らと並ぶ、新撰組屈指の腕前であったと評されています。 そんな斎藤一は、業物(わざもの:切れ味の良い刀)として名高い名工、「鬼神丸国重」(きじんまるくにしげ)が鍛えた日本刀を手に、京都の治安を乱す志士達を始め、新撰組内に潜入した間者(かんじゃ:敵方に潜み、その動向や様子を探る者)から裏切り者まで、次々と始末した人物でした。 明治維新後は警視庁に奉職(ほうしょく:公職に就くこと)し、東京の治安維持に尽力。1877年(明治10年)に起こった「西南戦争」では、「警視隊」として従軍するなど、後年にも剣の実力を発揮。幾度もの修羅場を経験しながらも天寿を全うした齋藤一。その生涯を、愛刀にまつわる逸話と共にご紹介します。

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原田左之助(新撰組・十番隊組長)

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「新選組」(しんせんぐみ)の「十番隊組長」であった「原田左之助」(はらださのすけ)は、直情径行(自分の感情をそのまま言動に表すこと)の快男児として知られている人物です。「池田屋事件」(池田屋騒動)での働きなど、武闘派としての側面が取り上げられがちですが、「長州征討」(ちょうしゅうせいとう)に際して、「兵站」(へいたん)と呼ばれる主要な後方支援の任務を託されるなど実務処理能力も高く、新選組内でも希有な人材でした。 晩年は「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)で転戦を続け、「上野戦争」で戦死したとされていますが、生き延びて中国の馬賊(ばぞく:騎馬を駆使する武装集団)になった伝説も残っているのです。ここでは、破天荒な原田左之助の人物像について、愛刀の逸話などを交えて掘り下げていきます。

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