徳川御三家のひとつである「水戸徳川家」の家祖「徳川頼房」(とくがわよりふさ)は、学問振興で有名な水戸藩の基礎を築いた人物です。晩年の「徳川家康」が儲けた子で、甥にあたる3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)と1歳差であったことから、徳川頼房と徳川家光は幼少期から親交を深めていました。この2人の関係によって、のちに水戸徳川家は徳川御三家のなかでも特殊な立ち位置となっていきます。父・徳川家康の血を受け継ぎ、文武両道な人物であった徳川頼房は、水戸藩の名君として藩政を主導しました。「水戸黄門」(みとこうもん)でお馴染みの「徳川光圀」(とくがわみつくに)の父にあたる徳川頼房について見ていきましょう。
「徳川家康」が江戸幕府を開いた1603年(慶長8年)、「徳川頼房」(とくがわよりふさ)は徳川家康の十一男として「伏見城」(ふしみじょう:京都市伏見区)で誕生しました。
母は「お万の方」(おまんのかた)と呼ばれた側室の「養珠院」(ようじゅいん)で、徳川頼房が誕生する前年に、紀州徳川家当主となる「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)を出産しています。
徳川頼房は同母兄の徳川頼宣と共に、伏見城から父の隠居城である「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市)へ移り、しばらく徳川家康のもとで養育されました。
1603年(慶長8年)に兄・徳川頼宣が常陸国水戸(現在の茨城県水戸市)200,000石を与えられると、1605年(慶長10年)に徳川頼房もわずか3歳で常陸国下妻(現在の茨城県下妻市)100,000石を与えられることに。そののち、兄・徳川頼宣の駿府転封に伴い、1609年(慶長14年)に徳川頼房は常陸国水戸250,000石の領主となります。しかし、当時まだ幼年であった徳川頼房は水戸へは入国せず、引き続き兄・徳川頼宣と共に駿府に留め置かれました。
父・徳川家康が亡くなると、徳川頼房は駿府から江戸へ移ったあと、1619年(元和5年)に17歳で初めて水戸の地へ渡ります。ところが、徳川頼房の水戸滞在期間はたった2ヵ月で終わり、再び江戸へ帰ると、徳川頼房は青年期のほとんどを江戸で過ごしました。尾張徳川家の「徳川義直」(とくがわよしなお)や、紀州徳川家の徳川頼宣といった兄達は、江戸と領地を行き来していたにもかかわらず、弟の徳川頼房はなぜ江戸で暮らしていたのでしょう。
この理由としては、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が、嫡男「徳川家光」(とくがわいえみつ)と歳の近い徳川頼房を傍に置いておきたかったという説が語られています。こうして、徳川頼房は次期将軍・徳川家光の良き話し相手となり、水戸藩主でありながら大半を江戸で過ごす異例の措置が取られました。
徳川頼房が水戸に滞在した回数は、初めて入国してから亡くなるまでの約40年間で、わずか11回だけ。水戸藩の整備に努めた1625~1630年(寛永2~7年)にかけては、毎年江戸と水戸を行き来していましたが、これ以降、徳川頼房の水戸入りは極端に頻度が低くなっています。
この頃、江戸幕府では大御所・徳川秀忠が亡くなり、3代将軍・徳川家光の親政となった時期でした。つまり、徳川頼房は将軍・徳川家光の親政を傍で支えるために、江戸に留まっていたと考えられます。
徳川家光は、徳川御三家の中でも、徳川将軍家にしばしば反抗的な態度を取っていた尾張藩の藩主・徳川義直や、武功派として謀叛の疑いをかけられたことのある紀州藩の藩主・徳川頼宣のことは信頼できなかったのでしょう。当時の徳川家光には、幼少期から心を開いていた徳川頼房しか頼れる存在がいなかったのです。
このような将軍・徳川家光の要望から、徳川頼房は江戸に常住するようになり、1650年(慶安3年)に徳川家光が亡くなるまで、江戸で将軍を支えながら領地経営を行いました。そして、このような2人の関係は、そのあとの江戸幕府と水戸藩にも受け継がれ、水戸藩主は代々江戸の小石川邸に常住する「定府」(じょうふ)という形式となったのです。
在任中、ほとんど江戸で生活していた徳川頼房ですが、水戸藩の経営を怠っていたわけではありません。徳川頼房は「水戸城」(茨城県水戸市)の改築や城下町の拡充を行い、藩法の整備にも努めています。水戸城の改築にあたり、幕府に遠慮した徳川頼房は、天守を構えず、二の丸に三階櫓(さんかいやぐら)を建てて代用しました。外郭においても、石垣を用いずに土塁(どるい)のみで囲うといった手法が取られており、徳川頼房がいたって質素な城郭建築を目指していたことが窺えます。
徳川頼房以降、水戸藩が定府となり、歴代藩主も水戸城を居城としなかったため、このような水戸城の素朴な造りは廃城となるまで受け継がれました。なお、定府大名である水戸藩主が水戸へ入る際には「就藩」(しゅうはん)という言葉が用いられます。
水戸城の整備以外にも、徳川頼房は1641年(寛永18年)に領内総検地を実施し、領内支配や財政基盤の確立を図っています。このように、徳川頼房は江戸に定住しながらも、水戸藩の基礎作りに尽力していました。
そして、1661年(寛文元年)に水戸城に就藩中に病を発症し、家臣の殉死を禁じると遺言して、この世を去りました。
将軍から頼りにされていた徳川頼房は、大らかで意志の強い人物だったと言われています。
武術・学術ともに秀でており、短弓(たんきゅう)の名手でもあった徳川頼房は、父・徳川家康に似て鷹狩りを好んでいました。徳川頼房は水戸へ初めて入国した際も、到着早々鷹狩りに出ています。
また、将軍・徳川家光に随行して鷹狩りを行っていた際、猪2頭を見事に射止めて、献上したという逸話も。1635年(寛永12年)に藩内で実施された猪狩りは、500頭を仕留める極めて大がかりな猪狩りとなりました。
学術面では儒学に興味を持ち、京都から儒者の「人見林塘」(ひとみりんとう)と「辻端亭」(つじたんてい)を侍講(じこう:君主に対して学問を講じること、またその役)として招いています。この2人の学者は、徳川頼房の世子となった「徳川光圀」(とくがわみつくに)の侍講も務め、徳川光圀が藩主の時代にも水戸藩の学問振興に貢献した人物です。
徳川頼房には、徳川光圀を含む26人もの子女がいますが、すべて側室との間に生まれた子であり、生涯正室を迎えることはありませんでした。徳川頼房の子で継嗣(けいし:跡継ぎ)となった徳川光圀以外の男子は、多くが支藩(しはん:所領の一部を分けて新たに成立させた藩のこと)に分かれています。そして水戸藩は幕末まで他家から養子を迎えることはなく、藩祖である徳川頼房の血筋を受け継ぎました。
そんな水戸本家や支藩からは、養子として他家へ行く者が少なくなかったため、徳川頼房の血筋は広く継承され、徳川15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)をはじめとする多くの子孫が歴史に名を残しています。
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