「富田重政」(とだしげまさ)は、戦国時代に存在した数多くの剣豪のなかでも、とりわけ高い禄(ろく:武士が受け取る給与)を得ていた人物です。その額はなんと、13,670石(約7億1,577万円)。「加賀百万石」を称した前田家に仕え、主君の近侍を務めるほどの高級武士だったためです。当時、10,000石あれば大名を称していましたから、家臣の身で10,000石以上の家禄を食んだ富田重政は、異色の剣豪だったと言えるでしょう。剣の腕前も相当なもので、官位が「越後守」(えちごのかみ)であったことから、「名人越後」と呼ばれていました。剣豪としての名誉だけでなく、武将としての成功も収めた富田重政とは、いったいどのような人物だったのでしょう。生涯をたどりつつ、数々の逸話を紹介していきます。
「富田重政」(とだしげまさ)は、1564年(永禄7年)に「山崎景邦」(やまざきかげくに)の子として生まれました。
家柄が高く、もともと近江国(現在の滋賀県)の名族で、近江源氏と呼ばれた「佐々木六角氏」(ささきろっかくし)の一族。
そのあと、越前国(現在の福井県北東部)に移住して朝倉氏に代々仕えるようになりました。
また、剣術への造詣が深い家柄で、父の山崎景邦は「中条流」(ちゅうじょうりゅう)の達人。自らの剣技を「山崎流」と称するほどの腕前でした。幼い頃の富田重政も、父の手ほどきを受けて腕を磨き、門下随一の剣士として名を馳せます。
しかし、1573年(天正元年)、朝倉氏が「織田信長」に攻められ滅亡。一家は主家を失いますが、織田家の重臣「前田利家」に仕えることが許され、以後、前田氏を支える家臣として重きをなすようになるのです。
富田重政が父から学んだ中条流は、南北朝時代に「中条長秀」(なかじょうながひで)が大成した甲冑剣法です。武士が戦場で甲冑を着こんだ状態を前提とし、比較的防備の薄い部分を斬り突く技が主体でした。
京都で生まれた剣術ながら、越前国の富田家が代々相伝するようになり、やがて「富田流」とも呼ばれるようになります。富田重政は、この富田流の宗家にあたる「富田景政」(とだかげまさ)に認められて養子に入ったことで、本格的に剣豪への道を歩みはじめたのです。
なお、富田景政の兄は盲目の剣士として有名な「富田勢源」(とだせいげん)。「伊藤一刀斎」(いとういっとうさい)の師匠「鐘捲自斎」(かねまきじさい)に剣を教えた人物とされています。
家中随一の剣の腕前を誇っていただけに、富田重政は前田氏が合戦を起こすたび最前線へ立ち、無類の強さを発揮しました。その代表例が、1584年(天正12年)に起こった「末森城の戦い」(すえもりじょうのたたかい)です。
能登国(現在の石川県北部)の要衝だった「末森城」(石川県羽咋郡宝達志水町)が、当時越中国(現在の富山県)を支配する「佐々成政」(さっさなりまさ)に攻められた際、富田重政は一番槍の武功を挙げ、前田利家から激賞されます。
また、1590年(天正18年)に起こった「豊臣秀吉」による「小田原の役」の際は、「八王子城」(東京都八王子市)攻めで手柄を立て、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」における北陸戦線でも「大聖寺城」(石川県加賀市)攻めで武勇を発揮。最後の合戦となる「大坂の陣」では、隠居後だったにもかかわらず従軍し、19もの首を挙げたと言われています。
これらの武功によって加増に次ぐ加増となり、富田重政は最終的に13,670石という大名なみの高禄を食むようになりました。ちなみに徳川家の剣術指南役を務めた「柳生宗矩」(やぎゅうむねのり)でさえ、石高は12,500石。通常の剣術指南役は約300石が相場です。
富田重政は、逸話に事欠かない人物です。
あるとき、前田利家の四男「前田利常」(まえだとしつね)に「無刀取り」(むとうどり)ができるかと尋ねられ、佩刀の鋒/切先(きっさき)を突き付けて挑発されたことがありました。
ところが富田重政は、白刃を前にしても全く動じず「謹んでお受けいたします」と対応。そして「秘伝でありますから、他見されるのは具合が悪うございます。後ろの襖の陰から何者かがこちらをうかがっておりますので、その者をお退け下さい」と言いました。
前田利常が思わず後ろを振り向いた瞬間、富田重政は前田利常の手から佩刀をするりと奪取。「これが無刀取りにて」と、奪った佩刀を差し出したのでした。これには前田利常もうなるしかなかったと言います。
剣技もさることながら、肝の据わり方も尋常ではありませんでした。豊臣秀吉が「醍醐寺」(だいごじ:京都市伏見区)で花見を催したとき、富田重政は前田利家に従い宴に参加。太刀持ちを任じられ、殿上(殿舎の上)に着座したのです。しかし、しばらくすると宴の責任者から「太刀持ちは殿下[殿舎の階下]へ」との命令が下ります。
富田重政は動こうとしません。長く正座していたため足がしびれ、立ちたくても立てなかったのです。そこへ「早く降りろ。降りねば打つぞ」と声を荒らげる宴の責任者。そのとき、富田重政は平然と「打つなら打て」と言い放ち、睨み付けたのでした。
これには前田利家も慌ててたしなめましたが、豊臣秀吉は「壮士なり」と称賛し、罰することはありませんでした。いかなるときも毅然とした態度を示す武人・富田重政。主君からの信頼が厚かった理由がうかがえます。
晩年、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)が富田重政の噂を耳にして、将軍家の剣術指南役で「柳生新陰流」(やぎゅうしんかげりゅう)の後継者である柳生宗矩と立ち合わせようとしたことがありました。
将軍直々の命とあれば断ることもできず、旅支度を進めていましたが、出発の直前に徳川家光の使者が現れ、立ち合いの中止を告げたのです。
「龍虎相打つとの言葉もあるように、名人同士が試合をすればいずれかひとりに汚名が付く」というのが翻意の理由でした。
こののち、人々の間ではまことしやかに「柳生宗矩が負けを恐れて手を回した」との噂がささやかれるようになります。それだけ富田重政の剣名は、全国に知れ渡っていたのです。