幕末期、かの新選組さえも恐れさせた剣術があります。薩摩国(現在の鹿児島県西部)で生まれた「示現流」(じげんりゅう)です。初太刀にすべてを込めるという苛烈な斬撃が特徴で、江戸時代の薩摩武士は幼少期から示現流を習うのが通例でした。この流派を生み出した武将こそ、戦国時代の剣豪「東郷重位」(とうごうしげかた)です。はじめは「丸目長恵」(まるめながよし)が創始した「タイ捨流」(たいしゃりゅう)を学びますが、京都で「天真正自顕流」(てんしんしょうじげんりゅう)という剣術に出会い、独自の剣境を開拓。やがて藩主に認められ、島津家の兵法師範として腕を振るいました。薩摩武士を虜にした剣術を生み出した武将とはどのような人物なのか、生涯をたどりながら示現流誕生のルーツを紐解きます。
「東郷重位」(とうごうしげかた)は島津家に仕える「瀬戸口重為」(せとぐちしげため)の三男として、1561年(永禄4年)に生まれました。
9歳で父が戦死して苦労を重ねますが、元服後に武功を挙げ、兄の「瀬戸口重治」(せとぐちしげはる)とともに由緒ある東郷姓に改名。幼い頃から剣術に長けていたため、各地の戦で上々の槍働きを見せていました。
東郷重位が学んだ剣術は、当時九州一円で大流行していた「タイ捨流」(たいしゃりゅう)。戦場での刀法を突き詰めた流派で、剣聖「上泉信綱」(かみいずみのぶつな)の一番弟子である「丸目長恵」(まるめながよし)が興した剣法です。
持ち前の剣才によって若くして免許皆伝を得た東郷重位でしたが、剣技が今ひとつしっくり来ません。と言うのも、東郷重位は背が高く骨太で、姿勢は前屈み。足運びも重く、身のこなしが求められるタイ捨流には不適切な体躯だったのです。己の力を活かしきれる剣術は他にあるのではないかという思いがくすぶっていました。
ターニングポイントとなったのは、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)による上洛命令でした。1588年(天正16年)、「聚楽第」(じゅらくだい:豊臣秀吉が京都に造営した城郭風の邸宅)の完成を祝うために主君「島津義久」(しまづよしひさ)に従い京都を訪れると、そこで「天寧寺」(てんねいじ:京都市北区)の和尚「善吉」(ぜんきつ)に出会うのです。「天真正自顕流」(てんしんしょうじげんりゅう)、略して「自顕流」の免許皆伝という風変わりな僧侶でした。
東郷重位は、ほうきを担ぐように構える姿(八相の構え)を見ただけで直感します。その場で弟子入りを志願し、徹底的に自顕流を体に叩き込みました。
島津義久が帰国したあとも残留を希望して修行を続け、やがて善吉から40の技と3巻の伝書を託され、免許皆伝の印可状を得てから郷里へと戻ったのです。
帰国後も東郷重位は、ひとり自顕流を磨き続けました。その修行は独特で、屋敷に植えられていた巨大な柿の木に向かって、一心不乱に打ち込み続けるという手法。これを3年間絶え間なく行い、巨木を立ち枯れさせるまで続けました。
やがて奇妙な剣術の噂は薩摩中に知られるようになり、数多くの剣士から試合を挑まれるようになります。それらを次々と打ち破り、門下に加えていく東郷重位。門弟の数は数百人にも及ぶようになりました。
薩摩中に剣名が知れ渡った頃、薩摩藩初代藩主「島津家久」(しまづいえひさ)から呼び出しを受けます。1604年(慶長9年)、島津氏の御流儀であるタイ捨流の師範と立ち合えという命令が出されたのです。御流儀が上であると示すための呼び出しでした。
試合は木刀によって行われました。双方にらみ合いが続くなか、打ち込んできたタイ捨流師範の木刀を東郷重位が一撃でへし折り、勝負あり。しかし、これを見ていた島津家久はおもしろくありません。東郷重位を奥座敷に呼び付けると、いきなり日本刀を抜いて振りかぶったのです。その瞬間、東郷重位は腰に差していた扇子で主君の手を打ち据えます。驚いた島津家久は「主人を知らぬか!」と激昂しますが、東郷重位は静かに「流儀の意地が出たまでのこと。主君を忘れたわけではござらぬ」と応じ、主君をうならせました。
東郷重位の冷静さと柔和な人柄が垣間見える逸話です。
タイ捨流師範を撃破したことで、東郷重位は島津家の剣術指南役に任じられました。御流儀もタイ捨流から自顕流へと移行。流派名が自顕流から「示現流」(じげんりゅう)に変わったのもこの時期です。これは文字のみ変更したわけではなく、東郷重位独自の創意を加えたことで、別の剣法に生まれ変わったことを意味しています。
創意とは、一言で言えばタイ捨流とのブレンドです。もともとタイ捨流は、すべての雑念を捨てることを追求する自在の剣。自顕流の「自然との融合」と「初太刀による一刀両断を尊ぶ」気風とは、大いに重なる部分があるのです。
いっさいの雑念を捨てて初太刀に全身全霊を注ぐという示現流は、こうして生まれました。
東郷重位が没したのは1643年(寛永20年)。
数多くの弟子を抱えていたため、東郷重位の死後も示現流は多くの薩摩武士に伝授されるようになりました。
特に「五高弟」のひとり「薬丸兼陳」(やくまるかねのぶ)は、さらに実践的な「薬丸自顕流」(やくまるじげんりゅう)を考案。主に薩摩藩の下級武士に好まれるようになりました。
幕末期に京都で猛威を振るい、新選組局長「近藤勇」(こんどういさみ)に「薩摩者と対峙するときは初太刀を外せ」と言わしめた剣術は、この薬丸自顕流です。
ちなみに示現流は、藩外秘の御留流儀(おとめりゅうぎ)となり、薩摩藩のみで稽古が行われていました。初太刀が命のため、どういう流派なのか認知されると都合が悪かったのです。
東郷重位は生涯に19名を真剣で斬っています。すべて主君が命じた上意討ち。いずれも頭部ならば縦割り、胴体ならば両断し、剣の鋭さは群を抜いていました。このとき用いていたのが、愛刀として知られる「同田貫」(どうだぬき)です。
戦国時代中期、肥後国(現在の熊本県)に興った刀匠集団の手によるもので、元幅(もとはば)広く重ね(かさね)も厚い刀身(とうしん)は頑健を誇り、切れ味も抜群。初太刀に全身全霊を賭ける示現流には、うってつけの作例です。また、同田貫を収める「薩摩拵」(さつまこしらえ)は、鞘(さや)ごと腰から抜いて敵を討つことができました。平時はむやみに日本刀を抜かないという示現流の教えを反映したことで生まれた構造です。