剣聖「上泉信綱」(かみいずみのぶつな)の門下において、「柳生宗厳」(やぎゅうむねよし)と並ぶ双璧と呼ばれた「丸目長恵」(まるめながよし)。師匠からは「西国一」と称され、やがて独自の流派「タイ捨流」(たいしゃりゅう)を創始。その名を全国にとどろかせます。武将としても故郷の肥後国(現在の熊本県)を治める「相良氏」(さがらし)から厚遇を受け、剣術の指南役に抜擢。しかし、合戦の場で痛恨の失態を犯し挫折を経験します。剣豪として名誉を得た一方で、凡将の烙印を押された丸目長恵。その波瀾万丈の生涯をたどりつつ強さの秘密に迫ります。
「丸目長恵」(まるめながよし)は1540年(天文9年)、肥後国の八代郡(現在の熊本県八代市)で生まれました。
父は相良氏(さがらし)の家臣「山本与左衛門」(やまもとよざえもん)。4人兄弟の長男で、幼い頃から熱心に剣術修行に励んでいたと言います。
最初に丸目長恵が名を馳せたのは1555年(弘治元年)、16歳のときです。薩摩国(現在の鹿児島県西部)を治める「島津氏」が攻め寄せた「大畑合戦」(おおはたかっせん)の際、初陣にもかかわらず父とともに奮戦。見事島津氏の撃退に成功します。これにより、主君「相良晴広」(さがらはるひろ)から「丸目」の姓を賜ることとなりました。
実際の戦闘で自分の剣術が通用することを悟った丸目長恵は、1556年(弘治2年)に最初の武者修行へ。剣豪としても名高かった、天草(現在の熊本県天草市)の「天草伊豆守」(あまくさいずのかみ)のもとを訪れ、約2年間の剣術修行に励んだのです。ここで剣術の頭角を現した丸目長恵は、早くも九州で一目置かれる存在となり、さらなる高みを目指して上洛(京都に入ること)を決意。そこで「新陰流」の開祖である「上泉信綱」(かみいずみのぶつな)と出会うのです。
上泉信綱の弟子となった丸目長恵は、天性の資質もあってメキメキと上達。新陰流の合理的な兵法を吸収し、入門5年後には「柳生宗厳」(やぎゅうむねよし)や「疋田文五郎」(ひきたぶんごろう)らの高弟達と肩を並べる「四天王」に数えられるほどに成長します。
その技量は師匠からも一目置かれ、1562年(永禄5年)に室町幕府13代将軍・足利義輝から上覧演武を所望されたとき、大役に抜擢されました。上泉信綱による新陰流の型演武において、打太刀(うちたち:相手役)に選ばれたのです。
新陰流の型演武は、打太刀をいかにして切り返すかを披露する型。打太刀側の技に冴えがあってこそ、切り返す側の技も冴えるのです。このときの丸目長恵の技量はすばらしく、上覧した足利義輝から「丸目打太刀天下の重宝」と記された感状を下賜されるほどでした。この感状は現在も、丸目家に秘蔵されています。
足利義輝は、「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)から秘剣「一之太刀」(ひとつのたち)を伝授されたほどの剣豪。当代一流の剣豪の目から見ても「天下の重宝」と呼ぶべき技の冴えだったのです。
上泉信綱門下で名実ともに第一人者となった丸目長恵は、5年の修行を経て肥前国へ帰郷。天下に鳴り響く剣豪だけに、すぐさま主君「相良義陽」(さがらよしひ)から声がかかり、剣術指南役に任命。確固たる地位を築くことに成功しました。
しかし、強い者と戦いたいという欲求は絶ちがたく、1566年(永禄9年)には相良義陽に暇をいただき、再び上洛の途についたのです。このとき丸目長恵は、「清水寺」(京都市東山区)などに「兵法天下一」の高札を掲げ、京都中の武芸者に真剣勝負を求めました。ところが最後まで挑戦者は現れず、そのまま帰郷。
この件を知った上泉信綱は、後日「殺人刀太刀」と「活人剣太刀」の印可状を与えて、事実上、兵法天下一を認めます。ただし、活人剣は秘中の奥義のため、むやみに教授しないようにとの制限が付いていました。
当初、丸目長恵の任務は剣術指南役と「忍び狩り」でした。忍び狩りとは領内に潜入してきたスパイを見付け出し、始末する仕事です。「相良文書」によれば、丸目長恵が斬った忍びの数は17人に及ぶとされています。
免許皆伝を得て帰郷したあとは、さらに「大口城」(鹿児島県伊佐市)の守備も任せられ、徐々に剣豪武将として活躍の場を広げていました。しかし、1569年(永禄12年)、「島津家久」(しまづいえひさ)が大口城へ侵攻を開始すると、丸目長恵は痛恨の失敗を招いてしまいます。籠城策を推す諸将を退け、強硬に城外での戦闘を主張したのです。島津家久は「釣り野伏せ」(つりのぶせ)と呼ばれるおびき寄せ作戦が極めて得意な武将。丸目長恵の策に従い城外へ出た相良軍は島津軍の術中にはまり、大敗北を喫したのです。
この失態を聞いた相良義陽は激怒し、丸目長恵に逼塞(ひっそく:昼間の外出を禁じ、出仕も停止)を厳命。完全に武将としての未来は閉ざされてしまったのです。
武将としての道を絶たれた丸目長恵にとって、心の支えは「上泉信綱門下第一」という自負のみでした。
そこへ同門の柳生宗厳の後継ぎである「柳生宗矩」(やぎゅうむねのり)が、徳川家の兵法指南役に任じられたことを知ります。
丸目長恵は早速江戸へ向かい、柳生宗矩に立ち合いを志願。自身を差し置いて、柳生宗矩が師匠の新陰流を継承したことに納得がいかなかったのです。
この申込みに対し、急いで使者を上泉信綱のもとへ送った柳生宗矩。上泉信綱の返書は「柳生宗矩は東国一、丸目長恵は西国一ということで良いでないか」という内容でした。立ち会えばどちらかは敗れます。天下に2人のみの達人をひとりたりとも失いたくないという師弟の愛情が込められていました。この名裁断には、丸目長恵も納得する他なく、大人しく引き下がったと伝えられています。
晩年、丸目長恵はいよいよ生涯で培ってきた剣技の集大成を試みました。上泉信綱から授かった新陰流に、自らの経験や知見を加えた独自流派の創造です。
着目したのは数々の合戦での体験でした。甲冑武士を倒すには戦場特有の刀法が必要。そこに、上泉信綱から伝授された「裏太刀」つまり忍法を取り入れ、総合武術とも言うべき実戦剣術を編み出しました。
その名は「タイ捨流」(たいしゃりゅう)。最大の特徴は構えです。袈裟斬り(けさぎり)が基本のため、右半開にはじまり左半開に終わります。
なお、当初は「新陰タイ捨流」を称していましたが、ほどなく「新陰」の2字を外し、タイ捨流となりました。
「タイ」がカタカナ表記なのは、漢字にすると技術や精神が文字に縛られるためであると、「タイ捨流の序」に書かれています。
老境に差しかかると「徹斎」(てっさい)と号して晴耕雨読の生活に入った丸目長恵ですが、この頃、「宮本武蔵」(みやもとむさし)が訪れたという言い伝えもあります。丸目長恵と宮本武蔵の年の差は45歳。詳しい史料などは残っていませんが、老いた丸目長恵のもとを壮年の宮本武蔵が訪問した可能性は否定できません。
一説によれば、このとき丸目長恵がタイ捨流の「二刀の型」を伝授したとも言われており、歴史ファンの間では根強い人気を誇っています。