「足利義輝」(あしかがよしてる)は、室町幕府13代将軍を務めた人物です。伝説の剣豪「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)に剣を学び、奥義を授けられるほどの達人でしたが、室町幕府再興に奔走するなか、非業の最期を遂げました。また、当代きっての刀剣収集家としての側面を持っていたことでも知られています。「天下五剣」(てんがごけん)と称される日本刀最高峰の5振のうち、なんと4振も所有。そこには並々ならぬ刀剣への執着がうかがえます。征夷大将軍という地位にありつつ剣の道を究め、また刀剣収集に没頭した足利義輝。「剣豪将軍」と呼ばれた生涯を紐解き、武人としての素顔に迫ります。
「足利義輝」(あしかがよしてる)は、1536年(天文5年)に室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)と公家「近衛尚通」(このえひさみち)の娘との間に生まれました。
のちに室町幕府最後の将軍となる「足利義昭」(あしかがよしあき)は1歳下の実弟です。
足利義輝が生まれた頃、足利将軍はすでに権威や求心力をすっかり失っていました。幕臣間の権力抗争が激化し、政情が乱れれば京都から逃れ、収束すれば帰還することを繰り返していたのです。将軍家は形式的な存在に過ぎず、もはや有力な大名の庇護なくしては立ちゆかない状況でした。
そんな折、足利義輝は1546年(天文15年)に近江国(現在の滋賀県)で元服し、同時に征夷大将軍に就任します。しかし、京都への帰還はなかなか叶いません。畿内最大の実力者「三好長慶」(みよしながよし)との攻防が続いていたことが原因でした。実現したのは1558年(永禄元年)のこと。三好長慶との和睦が成立し、近衛家から正室を迎えることで、ようやく京都に腰をすえて幕府再建に着手できる状況が整ったのです。
一時的に室町幕府が安定したことで、足利義輝は二条御所の造営に着手します。これまで京都内の寺院を仮御所としていましたが、1560年(永禄3年)に新御所へ移転。足利義輝が移り住んで以降も造営は継続され、新御所は最終的には石垣と大堀を周囲に巡らせた城のような建物となりました。
幕府の権威が高まったことで、二条御所には諸国からの献上品などがあふれかえっていました。特に武具の収集具合は群を抜いており、さながら武具集積センターといった様相です。当時最先端の武器である鉄砲が、国産・舶来を問わず集まり、城内の厩(うまや:馬小屋)には各地の戦国大名衆から献上された名馬がずらり。さらに足利義輝が大の鷹狩り好きだったため、全国から鷹も集められていました。
こうした収集物の中で、とりわけ足利義輝が執着していたのが日本刀です。例えば、備前国(現在の岡山県東南部)の刀工が打った「荒波」(あらなみ)という名刀は、安芸国(現在の広島県西部)の「厳島神社」(いつくしまじんじゃ:広島県廿日市市)が秘蔵していた1振。それを徴収したことが「厳島神社文書」から分かっています。
足利義輝が日本刀に強い執着を見せた背景には、自身の剣の腕前が極めて高かったことと関係していると言われています。しかし、足利義輝がいつ剣技を磨いていたのかはくわしく分かっていません。ただ、全国から武具を収集していた頃、たびたび各地の剣豪を招いて指南を受けていました。
特に親交が深く、師匠筋にあたるのが「新当流」(しんとうりゅう)の「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)です。塚原卜伝が3度目の廻国修行で上洛した際、手ほどきを受けました。足利義輝は当時21歳。美男の誉れが高く、身長も180cm近くある若武者でした。とりわけ動体視力と体さばきは非凡で、飛来してくる弓矢もかわすことができたと言われています。塚原卜伝もその素養を一目で見抜き、秘剣「一之太刀」(ひとつのたち)を伝授しています。
ちなみに一之太刀はごく一部の高弟にしか伝授しておらず、現在もどういう技だったのか判明していません。分かっているのは、斬りかかる相手を一瞬で倒せる技だったということのみ。判明している範囲では、足利義輝の他、伊勢国(現在の三重県北中部)の国司「北畠具教」(きたばたけとものり)や丹後国(現在の京都府北部)の大名「細川藤孝」(ほそかわふじたか)らが奥義を受け継ぎました。
当時から、足利義輝の剣豪ぶりは知れ渡り、いつの間にか人々は、足利義輝を「剣豪将軍」と呼ぶようになりました。なお、江戸時代に「柳生新陰流」(やぎゅうしんかげりゅう)を広めた「柳生宗矩」(やぎゅうむねのり)は、「天下に5、6人もいない兵法家」として足利義輝の名前を挙げています。
1564年(永禄7年)に三好長慶が没して以降、足利氏と三好氏による政治体制は崩れ、再び京都は戦乱のるつぼと化しました。三好氏の一派にとって、足利義輝は邪魔な存在となり、武力衝突は避けられない事態にまで関係は悪化します。
事件が起きたのは、1565年(永禄8年)。三好氏の一派が突如、足利義輝が住む二条御所を襲撃したのです。三好軍は約10,000、足利軍はわずか200のみ。最期を悟った足利義輝は主だった家臣と別れの盃を交わして家臣を労うと、「五月雨は 露か 涙か ほととぎす わが名をあげよ 雲の上まで」という辞世の句を詠み、最期の抵抗に挑んだのでした。