「最強の剣豪は誰?」という話題になると、真っ先に名前が挙がる人物がいます。戦国時代、剣聖(けんせい)と呼ばれた「上泉信綱」(かみいずみのぶつな)です。「将軍や天皇から天下一と認められた」、「立ち会えばどんな達人も刀を取られてしまう」など伝説は数知れず。弟子にも戦国時代を代表する剣豪「柳生宗厳」(やぎゅうそうげん)をはじめ、そうそうたる名前が並びます。しかし、強さの秘密は謎だらけ。もとは上野国(現在の群馬県)の「上泉城」(かみいずみじょう:群馬県前橋市)で城主を務めた戦国武将でしたが、主君の滅亡によって一転。剣を究める放浪の旅へ出たことで、その神がかった剣技が広く知られるようになりました。上泉信綱は、いったいどのようにして最強の剣豪へ上り詰めたのでしょう。生涯をたどりながら強さの秘密を紐解いていきます。
「上泉信綱」(かみいずみのぶつな:別名・秀綱)は、上泉城(かみいずみじょう:群馬県前橋市)城主「上泉秀継」(かみいずみひでつぐ)の次男です。いわゆる地方豪族生まれですが、長男が早くに亡くなったことで、21歳で後継ぎになりました。
このとき、上泉信綱は朝廷から従五位下伊勢守(じゅうごいのげいせのかみ)に任命されました。この官位は、「武田信玄」の元服時や「織田信長」の三男「織田信孝」(おだのぶたか)らと同じ。勢力は小規模ながら、家の格式はかなり高かったことが分かります。
家格以外にも、上泉家には特別な事情がありました。じつは、家族が剣術の達人揃いだったのです。祖父の「上泉時秀」(かみいずみときひで)は下総国(現在の千葉県北部・茨城県南西部)で「天真正伝香取神道流」(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を修め、父・上泉秀継も「鹿島新當流」(かしましんとうりゅう)を修得。つまり上泉信綱は、剣術一家のサラブレットと言える存在でした。
さらに異質だったのは上泉信綱の生まれ育った環境。城内に設けられた剣術道場は、達人が営む「剣術の聖地」として、各地から腕自慢が集いました。祖父と父に剣術をたたき込まれただけでなく、日々全国の武芸者と稽古を積んでいた上泉信綱。幼い頃から剣豪への英才教育が行われたことで、その剣技は20代前半ですでに他の追随を許さないレベルに達していたと言われています。
上泉信綱の才能を物語るできごととして、「愛州久忠」(あいすひさただ)との逸話があります。愛州久忠は、兵法三大源流のひとつに数えられる「陰流」(かげりゅう)の開祖で、当代一流の剣豪です。
あるとき、剣友だった祖父・上泉時秀に会うためふらりと上泉城へ立ち寄ったのですが、上泉信綱の剣技を見るなり「陰流を伝えるべきはこの男!」と直感。ひと目惚れに近いかたちで陰流のすべてを教え、秘巻(ひかん)・伝書・太刀1振なども上泉信綱に託したのでした。
しかし、ここからが上泉信綱の真骨頂。ただ陰流を継承するだけでは満足せず、さらに理想の剣技を追求します。剣術の稽古と聞くと、つい体や太刀筋などを鍛えることを連想しがちですが、上泉信綱の稽古はまったく異質。体だけでなく頭脳も使い、まるで学問を修めるように剣の理想型を組み立てはじめたのです。兵法を合理的に分析し、そこから理論を確立するという稽古方法は、当時画期的でした。
そして約5年の歳月を経たある夜、悟りを開きます。「諸流の奥源を極め、陰流において別の奇妙を抽出し、新陰流と称す」。刀の切れ味に頼らず、自分の心を敵の心に重ねることで相手を制するという「新陰流」の誕生です。このとき上泉信綱は28歳頃。真偽は諸説ありますが、瞑想から流派を生み出すあたり、天才の所業としか言いようがありません。
1561年(永禄4年)に長野業正が没すると、武田信玄は満を持して約20,000の軍勢で箕輪城への総攻撃を開始します。あとを継いだ「長野業盛」(ながのなりもり)は抵抗むなしく自刃。城の裏手を守っていた上泉信綱も死を覚悟し、玉砕覚悟の突撃を決意せざるを得ませんでした。
しかし、間一髪のところで武田信玄の特使「穴山梅雪」(あなやまばいせつ)が駆け付け、降伏を説得。武田信玄は上泉信綱の武将としての能力を高く評価し、かねてから召し抱えたいと望んでいたのです。
ところが上泉信綱は、降伏に応じたものの「お暇を賜りたい」とかたくなに臣下になることを拒絶します。じつは上泉信綱の悲願は、武将としての名誉ではなく「新陰流の普及」だったのです。その真意を知った武田信玄は快諾。「他家へは絶対に仕官するな」という条件付きで、諸国流浪の旅へ送り出しました。
武田信玄は、よほど上泉信綱を気に入っていたのでしょう。旅立つ前に、自らの名前から「信」の文字を与え、改名を促したのでした。じつは上泉信綱の「信」は、武田信玄が由来。このときまで「上泉秀綱」(かみいずみひでつな)と名乗っており、流浪の旅を機に、現在広く知られる上泉信綱の名前が使われるようになったのです。
上泉信綱は全国各地の剣豪を訪ねて、求められるまま新陰流の秘奥を披露しました。伊勢国(現在の三重県北中部)の国主でありながら「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)から「一之太刀」(ひとつのたち)の印可(いんか:力量を得た者に師が与える証明)を与えられた「北畠具教」(きたばたけとものり)、「宝蔵院流槍術」(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の開祖「覚禅坊胤栄」(かくぜんぼういんえい)など。しかし、誰もが上泉信綱の剣技を見ると、あまりのレベルの違いに立ち会うことすらできなかったと言います。
数少ない立ち会いのひとつが、大和国(現在の奈良県)で武芸者として知られていた「柳生宗厳」(やぎゅうむねよし)です。結果は散々。向かい合ってすぐ「その構えなら刀を取りますぞ」と上泉信綱が告げると、次の瞬間には本当に柳生宗厳の手から刀が奪い取られていたのです。これが世に言う「無刀取り」(むとうどり)。あまりの実力差に感服した柳生宗厳は、ただちに門下へ加わりました。
やがて京都へ招かれた上泉信綱は、剣豪将軍と呼ばれた室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)の前で新陰流を披露して「古今比類なし」と絶賛され、さらに1571年(元亀2年)には「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)に招かれて、異例の天覧演武まで行います。
すると、従四位下(じゅしいのげ)の官位を授かっただけでなく、天皇ご愛用の御前机まで与えられたのでした。天皇と将軍双方から「天下一」と認められた剣豪は、先にもあとにも上泉信綱ただひとりです。
そのあとの上泉信綱の足跡は、ようとして知れません。「刀に頼らない」という境地に達した人物だけに、愛刀が存在したのかどうかも不明です。
しかし新陰流は、門弟である柳生宗厳とその一族に受け継がれ、「天下一の兵法」として徳川家の「将軍家御流儀」に認められます。上泉信綱の悲願は、見事門弟達の手によって叶えられたのです。