中国刀剣史において最も古くからある「中国剣」は、古代中国の神話伝説で戦の神と言われた怪神「蚩尤」(しゆう)が発明した物だと語られています。中国では刀が一般的に使われるようになってからも剣(けん・つるぎ)はその伝統を守り続け、現在も武術で扱う短兵器の1つとされており、非常に歴史が深い物です。今回は、中国剣の基本的な特徴と、逸話をご紹介していきましょう。
発見されている最古の剣は、商(殷・紀元前1600〜紀元前1046年頃)に作られた青銅製の剣で、両刃の剣身が約35cmの短い直剣でした。
剣の材質は、戦国時代(紀元前5〜紀元前3世紀)までに青銅から鉄や鋼鉄となり、現在の浙江省(せっこうしょう)や江蘇省(こうそしょう)に位置する東シナ海沿岸の地域で剣の製造が盛んになりました。この地域は、鉄鉱石などの原料が豊富で、海に面している交通の便が良いエリアだったため、高品質な剣身の中国剣を大量に生産することができたのです。
しかし、漢(紀元前206〜220年)以降は軍隊で使用する武器の主流は刀に移行していったため、次第に剣は戦場から姿を消すことに。その後、剣は儀式や武術で用いられるようになり、政府の官僚たちが儀杖用の剣を身に付ける風習が残りました。
中国剣の「剣身」は、剣格に近い根元部分と中央部分と剣先の3つのポイントがあり、戦いにおいてそれぞれ別の機能を持っています。
まず、剣格に近い「剣根」は、敵の剣を受け止めるために使います。次に中央部分の「中刃」は、大きく斬り裂いたり、敵の剣を払うために使います。最後に剣身の先端「剣鋒」は、槍の穂先と同じような役割で、尖った部分で突き刺したり、素早く斬り付けて攻撃をします。
中国剣の「剣柄」には、木製や角製の物が一般的で、握りやすくするためにひもや乾燥させた鮫皮を巻いた物もあります。日本刀でも古くから鮫皮は柄の巻物として使われていますが、鮫皮の素材は実は鮫ではなくエイの皮を使用しています。表面がざらざらとしているため、握りの滑り止めに適しているのです。
また、柄の両端には幅広の金輪(日本刀のはばき)が付き、さらに全体のバランスを取るために大きな剣首(柄頭)が付いている物がほとんどです。剣首は時代によって少しずつ変化し、武器として使われなくなった明(1368〜1644年)では、剣首の穴に房飾りを付けるようになり、清(1644〜1912年)の時代になると、房飾りの穴が握りの部分に開けられるようになりました。
剣柄の制作は、一体成形の他に、別々に鋳造した剣格(鍔)と剣首を接合して作る方法があります。さらに、竜や幾何学模様など中国の伝統的なモチーフが刻まれた薄い金属板を剣柄に巻いて装飾を施した物も作られました。
中国剣は2本の剣を左右の手に1本ずつ持って操る戦術があり、この2本の剣を1セットとした武器を「双剣」(そうけん)と言います。
双剣は清の時代に考案された武器で、剣身と柄は中国剣の伝統を引き継いだ形状でつくられていました。2本の剣で戦う姿から別名「胡蝶剣」(こちょうけん)と呼ばれています。1本の鞘から2本の剣を素早く抜き出して、敵に1本の剣だと思わせる戦法で使われていたようです。
刀においても全く同じ種類の「双刀」(そうとう)があり、中国の南派武術で短兵器として使用されていました。双剣や双刀はカンフー映画などで見かけることも多いため、中国特有の刀剣としてよく知られているのではないでしょうか。
中国ではほとんどの武器に対して、特別な意味や価値を見出すことはありませんでした。ただし、剣は「宝剣」と呼ばれていたように、皇帝の権力を象徴する物として刀などの他の武器とは差別化されていたようです。名剣は古くから名前が付けられ、伝説的なエピソードとともに受け継がれてきました。
基本編でもご紹介したように、クオリティの高い剣が大量に生産されていた浙江省や江蘇省の地域では、伝説的な名剣を生み出した工匠の名が多く残っています。
特に後漢(25〜220年)に書かれた歴史書「呉越春秋」(ごえつしゅんじゅう)には、春秋時代(紀元前8〜紀元前5世紀)に呉越(ごえつ・現在の浙江省と江蘇省)地域で活躍した工匠が詳しく記されており、呉で名剣を制作していた夫婦「干将・莫耶」(かんしょう・ばくや)や、5つの宝剣を作り天下一の名工と称えられていた欧治子(おうやし)が代表的な工匠として記録されています。
また、この時代の偉大な覇者である呉王・夫差(ふさ)や越王・勾践(こうせん)などの銘が入った剣も発見されています。
戦国時代(紀元前403〜紀元前221年)の思想家の著書「列子」(れっし)には、かつて殷(商・紀元前1600〜紀元前1046年頃)の帝王が所持していたと言われている含光(がんこう)、承影(しょうえい)、宵練(しょうれん)の3本の名剣にまつわる奇妙な伝説が記されています。
1つ目の伝説の剣:含光は、刃に触れることも見ることもできないと言われている剣で、斬った本人でさえ全く手応えがなく、相手にいたっては斬られたことを永遠に感じることがないと言う剣。
2つ目の伝説の剣:承影は、夜明けと夕暮れに北を向いてかざすと、ぼんやりとその姿を感じるがはっきりとは分からず、何かに剣が触れると、かすかに音を立てるだけで、斬られた相手は痛みに気づくことがないと言う剣。
3つ目の伝説の剣:宵練は、昼はその姿は影に包まれ、夜になると今度は光を放ち見えなくなるという剣で、斬ると確かな手応えを感じられるが、斬られた傷口はみるみるうちに塞がっていき、殺すことができない剣と言われています。これらの、目に見えない3本の名剣の不思議な伝説は、中国で代々語り継がれています。
剣は軍事的な武器として扱われなくなってからも、武術の世界においては剣法の流派ができるなど最も重要な武器となりました。
しかし、明(1368〜1616年)末期の軍学者・茅元儀(ぼうげんぎ)は「武備志」(ぶびし)という兵法書で中国剣について驚愕の事実を伝えています。実は、茅元儀がいた当時の中国では、剣が長らく実戦に使われていなかったため、剣が廃れてしまい、使用法も忘れ去られてしまっていました。そこで当時、もともと中国剣を起源として朝鮮に伝わっていた剣術を茅元儀が「朝鮮勢法」(ちょうせんせいほう)として中国に逆輸入したことによって中国剣術が復活したと記されていたのです。今では中国において剣術は欠かせない武術となっているだけに、当時の中国が本当に剣術を忘れてしまっていたとしたら、中国刀剣史に残る衝撃的な出来事だと言えるでしょう。