「直江兼続」(なおえかねつぐ)は、戦国時代の越後(現在の新潟県)及び会津(現在の福島県)の大名であり、のちに米沢(現在の山形県)の藩主となった上杉家の家老です。戦国屈指の武将で、内政にも長けていた上杉謙信亡き後の上杉家を支え、発展させた名家老として知られています。
1578年(天正6年)に上杉謙信が亡くなると、上杉家では立て続けに乱が起きます。まず、実子のいない謙信が、跡継ぎを指名しないまま急死したため、兼続の主君の景勝と北条氏康の実子である上杉景虎との間で家督争いに。その結果、景勝が勝利し、上杉家の17代目当主となりました。
1581年(天正9年)、家老の直江信綱が殺害されてしまったため、兼続は景勝の命で、直江家の娘で信綱の未亡人・船(せん)と結婚します。直江家を継いで家老となり、越後の執政を担うことになったのです。
その後、上杉家臣の新発田重家(しばたしげいえ)が、伊達氏や蘆名氏(あしなし)の支援を受けて独立を画策します。それに乗じて織田信長勢の攻撃も始まり、上杉家は敵に囲まれ、絶体絶命の窮地に。
1582年(天正10年)6月3日、柴田勝家軍に攻められた魚津城が陥落し、ついに上杉家の命運も尽きたかと思われたそのとき、驚くべき知らせが舞い込みます。
その前日(6月2日)に、「本能寺の変」が起きて信長が自害したと言うのです。知らせを聞いた織田勢は大混乱の中、一気に退却。上杉家は九死に一生を得たのです。しかし、この乱の鎮圧には6~7年ほどかかったため、越後の財政は傾き、すっかり疲弊してしまいました。
1600年(慶長5年)、会津では城下町造りのため、新たに築城を始めますが、軍事目的であると怪しんだ家康に詰問されます。このとき兼続が家康に送った書状が有名な「直江状」です。
これを読んだ家康は激怒し、さらに景勝が上洛を拒否したため、家康は「会津征伐」を決意します。実はこの直江状は、「関ヶ原の戦い」の遠因となったと言われているのです。
ただこの直江状には諸説あり、家康に対して真っ向から反論したその文章は、非常に痛快であるとして評価される一方で、現在残る物は、後世に大幅に改竄(かいざん)された、あるいは捏造(ねつぞう)であるとする説もあり、本当のところは分かっていません。
家康が会津征伐に向けて進軍中、石田三成が挙兵したため、家康は矛先を上杉から三成に変更、美濃で関ヶ原の戦いが始まりました。兼続率いる上杉軍は、家康方である出羽の最上領に向けて大軍を侵攻させますが、最上・伊達連合軍を相手に苦戦します。
この戦いは「慶長出羽合戦」と言い「東の関ヶ原」とも呼ばれますが、本戦が大敗したのを機に、兼続も撤退を決めます。このときの上杉家撤退の様子はそれは見事で、兼続はのちに敵であった最上義光や家康にも賞賛を受けたと言われるほどです。
1601年(慶長6年)、景勝とともに上洛して家康に謝罪し、家の存続は許されますが、上杉家は出羽米沢30万石へと減移封となってしまいます。
兼続は会津城下にいた多くの家臣達を、ひとり残らず米沢へ連れて行ったので、小さな城下町である米沢は大混乱に陥り、大急ぎで町造りが進められました。城下の人々は貧しい生活を強いられますが、それでも家臣達は上杉家に仕えることを誇りに思い、自ら離れる者はなかったと伝えられています。
兼続は家老として米沢藩の基礎を築き、1619年(元和5年)12月19日、主君の景勝に先立って60歳で亡くなります。仲むつまじかったとされる妻のお船との間の嫡子も、婿養子を迎えた娘も早世していたため、直江家は兼続の代で断絶してしまいました。「上杉家の減移封を招いた責任」を感じて、兼続自らあえて断絶させたとする説もありますが、前述の通り直江状にも諸説あるので、本当のところは分かっていません。
水神切兼光(すいじんぎりかねみつ)は、その生涯を上杉家に捧げた忠臣である兼続らしい逸話のある打刀です。兼続は、上杉家に伝わるこの日本刀を景勝より拝領し、愛用したと言われています。
上杉家の家老として、領国の経営を任されていた兼続が、あるとき洪水で決壊しそうになっていた川に行き、水神を斬ったために洪水が収まった、という伝説が残る名刀。実際には水神を斬ったのではなく、かざして祈願したとも伝わります。
刀剣好きの謙信の集めた錚々たる刀剣の中から景勝が選んだ名刀リスト「上杉家御手選三十五腰」の1振。所蔵していた上杉家が国宝指定を断ったため、重要美術品認定を受けたと伝わっています。
銘 | ランク | 刃長 | 所蔵・伝来 |
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備州長船住兼光 | 重要美術品 | 2尺 | 法人 |