「今村長賀」(いまむらながよし)は、日本の刀剣鑑定家。刀剣界では「いまむらちょうが」の愛称で知られており、明治維新後は名刀を救うために奔走したことから「日本刀復興の祖」とも称されました。刀剣鑑定家・今村長賀とは、どのような人物だったのか。今村長賀の生涯とともに、今村長賀の愛刀「刀 銘 兼延」(かたな めい かねのぶ)についてご紹介します。
「今村長賀」(いまむらながよし)は、1837年(天保8年)5月に、土佐国土佐郡新町(現在の高知県高知市)で誕生。父は高知藩(のちの土佐藩)藩士「今村長修」(読み方は不詳)。
幼少期や少年時代の記録は残されていないため不明ですが、明治時代に突入する頃から今村長賀は表舞台で活躍します。
1868年(慶応4年/明治元年)から1869年(明治2年)にかけて勃発した「戊辰戦争」の際は、奥羽(おうう:現在の東北地方)各地で参戦。1871年(明治4年)には、それまでの功績が認められて陸軍少尉に着任。同年の12月には中尉へ昇格します。
1874年(明治7年)2月、陸軍会計官吏に着任。それから3年後の1877年(明治10年)に起きた「西南戦争」では、「別働第二旅団被服陣営課長」として功績を挙げ、「勲五等」(くんごとう:正五位[しょうごい]相当)に叙せられました。
1881年(明治14年)に宮内省(現在の宮内庁)の「御用掛」(ごようがかり:宮内省などの命を受けて用務を行う職)を拝命。5年後の1886年(明治19年)には「靖国神社」(東京都千代田区)に併設された宝物館「遊就館」(ゆうしゅうかん)で武器・甲冑の整理・識別を行う「遊就館取締」(ゆうしゅうかんとりしまり)となります。
1889年(明治22年)になると、「臨時全国宝物取調鑑査掛」を任じられ、「東京帝室博物館」(現在の東京国立博物館:東京都台東区)や「奈良帝室博物館」(現在の奈良国立博物館:奈良県奈良市)に陳列される刀剣の鑑定に従事した他、全国の有名な社寺・旧家の古武器を調査しました。
以後も、今村長賀は博覧会の審査官に任じられたり、帝室博物館臨時監査員となったり、刀をはじめとする美術品に数多く携わります。
刀剣界における今村長賀の活躍は、「竹帛社」(ちくはくしゃ)から出版された「近代名士之面影」(きんだいめいしのおもかげ)と言う著書にも記述が存在。本書によると、今村長賀は明治維新後の廃刀令によって、失われかけていた多くの刀を救うために国中を行脚した他、「御物」(ぎょぶつ:皇室の私有品)をはじめ、東京や奈良の帝室博物館に展示されていた刀をすべて鑑査したと記されています。
1897年(明治30年)には、元軍人で政治家の「谷干城」(たにたてき/たにかんじょう)を会長として刀剣界を発足。1,000余名の会員を集め、今村長賀は自らその審査長となって、明治維新後に廃絶されかけていた日本刀剣の保存・鑑定に大いに貢献します。こうした点から、今村長賀は「日本刀復興の祖」とも称されました。
なお、今村長賀は自身も愛刀家として数千振の刀を所有しており、なかでも「今村兼光」(いまむらかねみつ)と言う号が付けられた「備前長船」(びぜんおさふね)の刀工「兼光」(かねみつ)が作刀した刀を気に入っていたと言われています。
1910年(明治43年)12月28日、今村長賀は病により自邸で死去。享年74。なお、生前から愛刀仲間として交流があったとされる「明治天皇」は、今村長賀が危篤となったことを知ると、今村長賀の位を1級進め、「正六位」(しょうろくい)に叙したと言われています。
今村長賀は、各地で刀を鑑定した際に「押形」(おしがた)を一緒に収集していました。押形とは、刀の姿(すがた)を墨で写し取った資料のこと。
刀は金属でできているため、手入れを怠れば錆(さ)びてしまう美術品です。また、様々な人のもとへ渡るうちに行方不明になったり、破損したりすることがあります。そういった場合でも、刀の押形があればどのような姿をしていたのか分かるため、押形は大変貴重な資料と言えるのです。
今村長賀が写し取った押形は、「今村押形」(いまむらおしがた)の通称で知られています。
今村押形は、茎(なかご:柄[つか]に収める部位)や鋒/切先(きっさき)に焦点を当てて、刃文(はもん)や銘(めい:茎に入れられる、作刀者や所有者などの情報)、刀身彫刻などが細かく描写してある他、各刀には今村長賀の所見がびっしりと書かれているのが特徴。
今村長賀は、史料と照らし合わせた学問的な鑑定方法を行っていたことでも知られており、本押形に書き込まれた所見は、そうした鑑定を行っていた今村長賀の貴重な研究資料となっています。
今村長賀の正宗抹殺論は、新聞で発表されたことで、当時は長期に亘って新聞紙面上で議論が行われるほど大騒ぎになったと言います。今村長賀の提唱した論に対して、反対意見を示したのが刀剣界の重鎮達。なかでも、今村長賀とは旧知の仲だった第29代内閣総理大臣「犬養毅」(いぬかいつよし)は、「瑠璃山人」(るりさんじん)や「無名堂主人」(むめいどうしゅじん)と言う偽名を使って、以下の反論を投稿しました。
今村長賀が提唱した正宗抹殺論は、のちに正宗の在銘刀が複数発見されたことや、豊臣秀吉が正宗を重宝する以前の時代から、その名が文献に記されるほど人気があったことなどが判明したことで、現在では完全に否定されています。
なお、正宗抹殺論に関する顛末は「本間薫山」(ほんまくんざん)の愛称で知られる刀剣学者「本間順治」(ほんまじゅんじ)の著書「日本刀」(出版・株式会社岩波書店)に詳しく記されているため、興味がある方はぜひ読んでみて下さい。
「刀 銘 兼延」(かたな めい かねのぶ)は、今村押形にも掲載されている今村長賀の愛刀。
本刀の作刀者は、室町時代中期に尾張国志賀(現在の愛知県名古屋市北区志賀町付近)で活躍した刀工「兼延」(かねのぶ)。兼延は、美濃国(現在の岐阜県南部)の直江村(なおえむら)で作刀していた刀工一派「直江志津」(なおえしづ)のなかでも名工と称された刀工です。
同名で数代存在し、初代は直江村で作刀を行い、室町時代中期の明応年間(1492~1501年)に2代目の兼延が尾張国志賀へ移住したとされています。移住した一派は、「志賀関」(しがせき)や「山田関」などと呼ばれるようになり、「尾張鍛冶」の礎を築きました。
歴代兼延のなかでも、最も上手なのは2代目兼延と言われており、本刀も2代目兼延が手掛けた刀と推測されています。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 今村押形