日本で初めて武家による政権を打ち立てた源頼朝(みなもとのよりとも)ですが、もともと「源」姓は天皇の子供達が皇族を離れるときに下賜(かし:天皇からいただくこと)された姓でした。「平」姓も同じで、どちらもルーツをたどれば皇族です。源頼朝も最初から武士だったわけではなく、少年時代は宮中に仕え、第78代「二条天皇」(にじょうてんのう)の「蔵人」(くろうど:秘書)をしていました。これは朝廷における出世コースで、このままいけば源頼朝は朝廷の役人になっていたと思われます。しかし、父である「源義朝」(みなもとのよしとも)が平氏と戦って負けたため罪人として捕らえられ、子供だった源頼朝は、殺される代わりに伊豆に流されることに。ここから、武人としての源頼朝の物語が始まります。
伊豆に流された源頼朝は、平氏方の「北条時政」(ほうじょうときまさ)や「伊東祐親」(いとうすけちか)らに監視されて過ごしました。とは言え、大人しくしていたわけではなく、伊東祐親の娘に手を出し、子供をつくってしまいます。
「流人の子を宿したことが知れれば平氏からにらまれてしまう!」と伊東祐親は源頼朝を殺そうとします。源頼朝は慌てて北条時政の屋敷に逃げ込み、命拾いしました。
しかし元気が有り余る源頼朝は、北条時政の娘「北条政子」(ほうじょうまさこ)とも深い仲に。英雄色を好むとはよく言ったもの。このことが北条時政に知られ、源頼朝は北条政子と一緒にかけおちを決行。北条時政はやむなく2人の結婚を認めました。
1180年(治承4年)、平氏の横暴ぶりに耐えきれず、「以仁王」(もちひとおう:後白河天皇[ごしらかわてんのう]の第三皇子)が、全国の源氏に対して「平氏を倒せ」という命令を発します。
源頼朝も挙兵したいと思いましたが、罪人のため協力してくれる仲間がいません。ところが義父の北条時政が、平氏打倒のために一緒に戦うことを申し出てくれました。北条時政は、自分の娘婿だからという以上に、武人としての源頼朝を高く評価していたのです。
しかし、一歩間違えば北条氏一族の命を失いかねない、とても大きな賭けでした。挙兵した源頼朝は周囲の豪族を従えて勢力を増していきました。弟の「源義経」(みなもとのよしつね)が、奥州平泉(おうしゅうひらいずみ:現在の岩手県平泉町)からはるばる兄の援軍として参加したのもこの頃。そして頼朝軍は、父の時代から源氏にゆかりの深い鎌倉に入ります。鎌倉は交通の要所であると同時に、三方を山、一方を海に囲まれていたため防御も容易で、陣を敷くのには最適の場所でした。
源頼朝にとって幸運だったのは、その頃、木曽の「源義仲」(みなもとのよしなか:源頼朝の従兄弟)が先に都に入り、巧みな戦法で平家を都から追放してくれたことでした。その間に、源頼朝は鎌倉の町づくりを進め、政治拠点としての機能を整備していきました。
例えば「御家人」(源頼朝から土地の所有を保証され、その代わりに源頼朝への忠誠を誓った武士)を管理するために「侍所」(さむらいどころ:軍事・警察を担う組織)を設置。しかし御家人が増えるにつれて政治・経済などの問題を処理する必要が出てきました。
そこで1184年(元暦元年)には「公文所」(くもんじょ:政治を行う組織)と「問注所」(もんちゅうじょ:裁判を行う組織)を設置。また源氏ゆかりの「鶴岡八幡宮」(つるがおかはちまんぐう)から由比ガ浜まで一直線に伸びる若宮大路を整備しました。これは800年以上が経過した今も鎌倉のメインストリートとして残っています。
一方の都では、あまりに都のルールを知らなかったために朝廷からの評判が悪かった源義仲を、源義経と「源範頼」(みなもとのよりのり:源頼朝の弟)が協力して討ち、その勢いのまま平氏を西へと追いつめていきました。
そして「壇ノ浦」(だんのうら:現在の山口県下関市)で平氏は滅亡。しかし最大の功労者であった源義経が朝廷から勝手に官位を受けたことで源頼朝と源義経の仲が急速に悪化。ついに源頼朝から源義経討伐の命令が出される事態になります。
さらに源頼朝は、この原因をつくった朝廷に対して前代未聞の要求を出します。「謀反人の源義経を捜索するために、全国に守護(しゅご)と地頭(じとう)を置かせてほしい」。地頭は地域を、守護は地域をまとめた国を治める役職で、支配者の権利である年貢の徴収も行います。
つまり、これは源義経の捜索に見せかけて、朝廷から政権を奪取する作戦でした。その目的は分かっていても、朝廷に断る力はなく、1185年(文治元年)に源頼朝は守護・地頭を置く権利を獲得。近年、この年が実質的な鎌倉幕府の成立年だと言われています。
1189年(文治5年)に源義経を自害に追い込んでライバルを消すと、1192年(建久3年)には朝廷より「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん:蝦夷[えみし:平安時代、朝廷に従わなかった東北の人々]を討伐する軍の大将)の官位を受け、源頼朝は名実ともに東国の武家政権のトップに登りつめました。
しかし力が衰えたとは言え都には朝廷があり、東国に誕生した新たな政権を快く思っていないことは確かです。また武家政権と言っても、そこには北条時政らの有力御家人が勢力争いを繰り広げており、決して盤石の基盤ではありませんでした。
「吾妻鏡」(あづまかがみ:鎌倉時代前期について書かれた日本の歴史書)によれば、源頼朝は1199年(建久10年)1月、落馬が原因で命を落としました。人々は、源義経だけでなくこれまで無慈悲に殺してきた人々の亡霊に取り殺されたのだと噂しました。
源頼朝の女癖の悪さはかなりのものでしたが、その妻・北条政子の気性の激しさも負けていませんでした。北条政子が妊娠している期間に、源頼朝は昔なじみの「亀の前」という女性を鎌倉に呼び寄せます。
そして家臣の「伏見広綱」(ふしみひろつな)の屋敷にこっそりと住まわせ、そこに通って逢瀬を楽しみました。出産後にこれを知った北条政子は激怒。祖父の「牧宗親」(まきむねちか)に命じて伏見広綱の屋敷を破壊してしまいます。すると、今度は源頼朝が激怒。
しかし怒りの矛先は北条政子ではなく、義理の祖父へ。源頼朝は牧宗親の髷を切って辱めを与えるというひどい仕返しをします。それを知った北条時政が激怒して一族で伊豆に引き上げるという大騒動に。
この話の決着は吾妻鏡が欠本しているため不明ですが、その後も源頼朝は亀の前を寵愛し続け、北条政子は伏見広綱を遠国に流罪にしています。
源頼朝は女癖が悪いうえにワンマンな独裁者でした。源義経を自害に追いやっただけでなく、源義経とともに平氏を討った弟の源範頼も同じ運命をたどります。1193年(建久4年)、富士の裾野で源頼朝が狩りをしていたとき、突然少年が現れて家臣のひとりを殺害。
この情報が間違って「源頼朝が討たれた」となって北条政子に伝えられました。泣き崩れる北条政子に、源範頼が「ご安心なされよ。私がいる限り源氏は安泰です」と慰めます。それをあとで聞いた源頼朝は、源範頼が謀反を起こそうとしていると言って処刑してしまいます。
また源義仲の子と自分の娘を政略結婚させようとしていましたが、源義仲が源義経に討たれるともうその子に利用価値はないと判断し、殺害してしまいました。こうして身内を容赦なく排除したことが周囲の不評を買い、やがて北条家による幕府乗っ取りへとつながっていくのです。
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