鎌倉9代将軍

4代将軍/藤原頼経
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4代将軍/藤原頼経 4代将軍/藤原頼経
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「藤原頼経」(ふじわらよりつね)は、3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられました。しかし当時はまだ2歳で、政治を行う能力はゼロ。つまりお飾りに過ぎなかったのです。一方、御家人の内部では激しい権力争いが続いていました。やがて藤原頼経が元服(げんぷく:成人になる儀式)して正式に将軍職につくと、その権威を利用して政治の実権を握ろうとする御家人が次々と登場します。こうして藤原頼経はその権力闘争の渦に巻き込まれていきました。

幕府と朝廷の全面戦争

朝廷の権威を利用した幕府

藤原頼経

藤原頼経

鎌倉幕府における最大の有力者である北条氏は、源実朝の次の将軍には朝廷から親王(しんのう:天皇の子)を迎えたいと希望していました。親王を利用し、幕府の権威を高めようとしたのです。

しかし1219年(承久元年)に源実朝が暗殺されたことを見て、当時の「治天の君」(ちてんのきみ:朝廷における最大の権力者)であった「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は北条氏の依頼を拒否。

北条氏は代替案として摂関家(せっかんけ:藤原氏の中でも、天皇を補佐する摂政関白を輩出した格式の高い家柄)から藤原頼経(幼名は三寅[みとら])を迎えたいと希望してきました。三寅は源頼朝の同母妹のひ孫に当たるため、わずかながら源氏の血を引いています。

それまで断ると全面戦争になりかねないため、後鳥羽上皇もしぶしぶ承諾せざるを得ませんでした。三寅が鎌倉に来てから数年間は、「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼朝の妻)が後見人として将軍の代行を務めました。

このように、あくまでも北条氏は幕府トップの将軍にはならず、「執権」(しっけん:御家人の代表として将軍を補佐する役職)として政治の実権を握り続けるという戦略を取りました。最初に執権になったのは、源頼朝とともに平氏を討つために挙兵した「北条時政」(ほうじょうときまさ)でした。

19万の御家人が結束した承久の変

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

朝廷を使って幕府を権威付けしようとする北条氏のやり方に、後鳥羽上皇は非常な憎しみを抱いていました。そして朝廷に味方する武士や僧兵に声をかけ、着々と倒幕の準備を続けます。

集められた兵は2万数千。その中には幕府の有力御家人であった「三浦胤義」(みうらたねよし)ら多くの御家人も加わっていました。

1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は幕府追討の命令を発し、都の「守護」(しゅご:幕府が国を治めるために置いた官僚)であった「伊賀光季」(いがみつすえ)を殺害。ついに全面戦争です。

当時はまだ朝廷の権威は大きく、御家人の中には朝廷と戦うことを躊躇していた者も多かったのです。それを見た北条政子が「あなた方は頼朝公のご恩を忘れたのですか!」と涙ながらの演説を行い、全軍の気持ちをひとつにまとめたのは有名な話。全国から鎌倉に集まった幕府軍は190,000。2代目執権を継いだ「北条義時」(ほうじょうよしとき:北条政子の弟)に率いられた幕府軍は朝廷軍を次々と撃破し、朝廷軍を壊滅させます。

そして後鳥羽上皇を隠岐島(おきのしま:現在の島根県隠岐郡)に流したのをはじめ、多くの皇族や御家人に過酷な処罰を与えました。これが「承久の乱」(じょうきゅうのらん)です。

日本の歴史上、天皇家以外の者が上皇を流罪にしたのはこれが初めてのことでした。承久の乱のあと、北条義時は都を監視するために「六波羅探題」(ろくはらたんだい)を設置。幕府からの政権奪回を目的とした後鳥羽上皇の目論見は見事に裏目に出て、逆に幕府の基礎固めが進む結果となりました。

3代目執権・北条泰時の政治改革

消えていく幕府の重鎮達

1224年(元仁元年)、北条義時が死去。3代目の執権には、北条義時の子「北条泰時」(ほうじょうやすとき)が就任しました。北条泰時は幼い頃から曲がったことが大嫌いで、政治を行わず蹴鞠(けまり)に熱中する「源頼家」(みなもとのよりいえ:鎌倉2代将軍)を子供ながらに注意し、一時謹慎させられたほど。

北条泰時が執権になった翌年、源頼朝の側近として幕府に仕えてきた有力御家人の「大江広元」(おおえひろもと)が死去し、翌月には北条政子もあとを追うように亡くなります。こうして源頼朝時代からの実力者のほとんどがいなくなり、北条泰時が自由に手腕を振るうことができる環境が整ったのです。

武家政権の基礎をつくる

1225年(嘉禄元年)、北条泰時は三寅の元服に合わせて藤原頼経と改名させ、4代将軍に付けました。とは言え9歳の将軍ですから、飾り物であることに変わりはありません。次に北条泰時は幕府の政治機構の改革に着手。

有力御家人の「三浦義村」(みうらよしむら:三浦胤義の兄)ら11名による「評定衆」(ひょうじょうしゅう)を設置し、ここでの合議によって政策を決定することにしました。今で言う内閣です。

また北条時政以来、どんどん枝分かれしてきた北条家の中での権力争いを防ぐため、自分がいる本家を「得宗」(とくそう:北条義時の法名)と称し、この先、執権は基本的に得宗家からしか出せないことを決めました。

このとき、将軍よりも北条氏の権限が強く、北条氏の中でも得宗家の権限が最も強いという鎌倉時代の大原則が確定したのです。また1232年(貞永元年)、北条泰時は51条に及ぶ「御成敗式目」(ごせいばいしきもく:[貞永式目]とも)を作成。

これは朝廷の「律令」(りつりょう:奈良時代に誕生した、国の基本法)に代わって、武士が武士のためにつくった初の憲法です。御成敗式目はそのあとも室町幕府江戸幕府まで受け継がれ、武家政権の背骨を支える法的・精神的な基礎となりました。

翻弄され続けた4代目将軍

これで北条得宗の政権基盤は盤石になったかに見えましたが、実際には北条氏の中にもこれを快く思わない勢力がいました。特に「北条朝時」(ほうじょうともとき:北条義時の次男・北条泰時の弟)を中心とする反得宗集団が藤原頼経に接近。

藤原頼経はその勢力に取り込まれていきます。1242年(仁治3年)に北条泰時は59歳で死去。北条泰時の子である「北条時氏」(ほうじょうときうじ)はすでに他界していたため、孫の「北条経時」(ほうじょうつねとき)が4代目の執権に就任します。

そして2年後の1244年(寛元2年)、いきなり北条経時は藤原頼経の将軍職を解任しました。「吾妻鏡」(あづまかがみ:鎌倉時代後期に成立した、鎌倉時代の歴史書)には、「天変地異があったために突然の譲位を思いついた」とありますが、実際には反得宗勢力と結びついた藤原頼経の勢力を早めに摘んでしまおうという得宗側の方策でした。

大殿として権威を持ち続ける

5代将軍には、藤原頼経の子の「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)が就任。藤原頼経は将軍職を解かれたあとも「大殿」(おおとの)として幕府に残り、元将軍としての権威を保ち続けましたが、1245年(寛元3年)には出家させられています。

これも吾妻鏡には「星座に異変が起きたため」と理由が書かれていますが、実際には大殿としてなおも権威を保ち続けようとした藤原頼経を仏門にとじこめ、幕政にこれ以上かかわらせないための得宗側の措置だったと考えられます。

そして1246年(寛元4年)、北条氏の一族でありながら反得宗側の御家人であった「名越光時」(なごえみつとき:北条泰時の甥)の反乱が未然に制圧されると、首謀者として藤原頼経は都に送り返されました。そのあとも反得宗グループと組んで鎌倉復帰を画策し続けた藤原頼経でしたが、1256年(康元元年)に死去。最初から最後まで鎌倉幕府に翻弄され続けた39年の人生でした。

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初代将軍/源頼朝

初代将軍/源頼朝
日本で初めて武家による政権を打ち立てた源頼朝(みなもとのよりとも)ですが、もともと「源」姓は天皇の子供達が皇族を離れるときに下賜(かし:天皇からいただくこと)された姓でした。「平」姓も同じで、どちらもルーツをたどれば皇族です。源頼朝も最初から武士だったわけではなく、少年時代は宮中に仕え、第78代「二条天皇」(にじょうてんのう)の「蔵人」(くろうど:秘書)をしていました。これは朝廷における出世コースで、このままいけば源頼朝は朝廷の役人になっていたと思われます。しかし、父である「源義朝」(みなもとのよしとも)が平氏と戦って負けたため罪人として捕らえられ、子供だった源頼朝は、殺される代わりに伊豆に流されることに。ここから、武人としての源頼朝の物語が始まります。

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2代将軍/源頼家

2代将軍/源頼家
鎌倉幕府における9人の将軍の中で、「源頼家」(みなもとのよりいえ)はある意味で最も悲運な将軍です。父「源頼朝」(みなもとのよりとも)が急死したとき、源頼家はまだ18歳の若者。18歳は立派な大人とは言え、苦節の時代を乗り越えた父と違い、苦労知らずで育ってきた源頼家にいきなり東国武士団のトップの重責を任せるのは無理がありました。しかも源頼朝亡き今は、有力御家人(ごけにん:幕府から土地の所有を保証され、その代わりに幕府への忠誠を誓った武士)にとっては勢力を拡大するまたとないチャンス。こうして源頼家は、自分の意志とは関係なく御家人達の権力闘争の渦に巻き込まれていったのです。

2代将軍/源頼家

3代将軍/源実朝

3代将軍/源実朝
「源実朝」(みなもとのさねとも)は鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟。兄である源頼家は父に倣って政治にかかわろうとして北条氏に殺されました。兄の殺害現場にいた源実朝は、決して政治にかかわろうとはしませんでした。その代わり朝廷文化に憧れ、特に和歌には尋常ではないほど傾倒しています。自分の和歌を都の「藤原定家」(ふじわらのさだいえ:平安末期から鎌倉時代にかけての歌人。日本の歌道を代表する歌人のひとり)に送って品評をお願いしたり、自分の和歌集を編纂したり、さらには謀反の罪で捕らえられた家来の和歌に感じ入り、罪を許したという話もあるほど。また源実朝は、貴族の官位を渇望していました。そして待望の「右大臣」(うだいじん)の官位授与を祝う儀式の最中、親族によって暗殺されてしまいます。

3代将軍/源実朝

5代将軍/藤原頼嗣

5代将軍/藤原頼嗣
鎌倉幕府5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)は、先代の「藤原頼経」(ふじわらよりつね)の子。先代が都で生まれたのに対し、藤原頼嗣は純粋に鎌倉生まれの鎌倉育ち。6歳で元服(げんぷく:成人になったことを示す儀式)し、5代将軍となります。年齢が幼く、また将軍在任期間も8年と短かったため、将軍としての藤原頼嗣の活動はほとんど記録が残っていません。その代わり、藤原頼嗣の将軍在任期間は、父である藤原頼経と北条氏が激しく権力争いを繰り広げた時期でもありました。その2つの勢力の間で、何も知らない藤原頼嗣はただ翻弄されるしかなかったのです。

5代将軍/藤原頼嗣

6代将軍/宗尊親王

6代将軍/宗尊親王
鎌倉幕府の6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)は88代「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)の子。朝廷から皇族を将軍として迎えることは、鎌倉幕府誕生の立役者である「北条時政」(ほうじょうときまさ:源頼朝[みなもとのよりとも]の義父)の時代からの念願でした。源氏の将軍が3代続き、「摂家」(せっけ:藤原氏の中でも摂政を出してきた格式の高い家柄)将軍が2代続いたあと、いよいよ念願の「宮将軍」(みやしょうぐん:皇族から迎えた将軍)の登場となります。宗尊親王は将軍となっても政治に介入しようとはせず、和歌に親しみながら穏やかな日々を送りました。しかし他の将軍と同様に、最終的には北条氏の都合で将軍職を解かれ、都に送り返されるという運命をたどります。

6代将軍/宗尊親王

7代将軍/惟康親王

7代将軍/惟康親王
鎌倉幕府の「惟康親王」(これやすしんのう)は6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)の子。将軍就任時はわずか3歳ですから政治能力はありません。これは当時の幕府で政権を握っていた北条氏の戦略で、自らは将軍にならず、「執権」(しっけん:将軍をサポートする役割。実質上の幕府の最高権力者)として幕政を自由にコントロールしていたのです。将軍が成人して万が一にも北条氏と敵対する勢力と手を組んでしまわないよう、将軍が成人するたびに都へ戻し、新たに幼い将軍を「お飾り」として立てていました。惟康親王も、そんな北条氏の思惑に翻弄され続けたひとりだったのです。

7代将軍/惟康親王

8代将軍/久明親王

8代将軍/久明親王
「久明親王」(ひさあきしんのう)は、初代将軍「源頼朝」亡きあとに鎌倉幕府を支配した北条氏によって擁立された8代目の鎌倉将軍です。北条氏は、自らは将軍にならず、幼い将軍を擁立し、自分達は「執権」(しっけん:将軍を補佐する役職)として幕府を思い通りに動かし続けてきました。しかし時代が進むうちに、「得宗」(とくそう:北条氏の中でも執権を世襲した、最も有力な一族)とそれ以外の北条氏や御家人との間で権力をめぐって激しい対立が起こり始めます。また当時、朝廷の内部でも2つの勢力が天皇の座をめぐって対立していました。そんな混とんとした状況の中で、押し出されるように鎌倉幕府8代将軍になったのが久明親王だったのです。

8代将軍/久明親王

9代将軍/守邦親王

9代将軍/守邦親王
9代鎌倉将軍「守邦親王」(もりくにしんのう)は8代「久明親王」(ひさあきしんのう)の子。守邦親王が在位した期間は、鎌倉幕府が滅亡に向かって突き進んでいた時期でした。鎌倉の幕府内では北条氏の力が衰えるにしたがって「御家人」(ごけにん:幕府から領地の所有を保証される代わりに、幕府への忠誠を誓った武士団)が力を持ち始めます。また都の朝廷でも2つの派閥が激しく競い合っていました。地方には「悪党」(あくとう)と呼ばれる勢力が登場し、世の中は大混乱。こうした状況の中で将軍となった守邦親王は、歴史的な実績はほとんど残していません。1333年(元弘3年)、鎌倉幕府の滅亡の日に将軍職を辞して出家(しゅっけ:仏僧となること)し、3ヵ月後に亡くなったことだけが記録に残されています。

9代将軍/守邦親王

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