鎌倉幕府5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)は、先代の「藤原頼経」(ふじわらよりつね)の子。先代が都で生まれたのに対し、藤原頼嗣は純粋に鎌倉生まれの鎌倉育ち。6歳で元服(げんぷく:成人になったことを示す儀式)し、5代将軍となります。年齢が幼く、また将軍在任期間も8年と短かったため、将軍としての藤原頼嗣の活動はほとんど記録が残っていません。その代わり、藤原頼嗣の将軍在任期間は、父である藤原頼経と北条氏が激しく権力争いを繰り広げた時期でもありました。その2つの勢力の間で、何も知らない藤原頼嗣はただ翻弄されるしかなかったのです。
父の藤原頼経が4代将軍になるために都から鎌倉に下ったのは1219年(承久元年)。3代将軍「源実朝」が暗殺されたあとのことでした。
当時、初代「執権」(しっけん:御家人の代表として将軍を補佐する役職)であった「北条時政」(ほうじょうときまさ)は、幕府の権威を高めるため、本当なら親王(しんのう:天皇の子)を将軍に迎えたいと望んでいたのです。
しかし「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)に反対され、仕方なく公家の中でも最も格式が高い「摂関家」(せっかんけ:藤原氏の中でも、天皇を補佐した摂政・関白を代々出してきた家柄)から、源頼朝の血を引く藤原頼経が選ばれたという経緯がありました。
このときの確執が、のちの「承久の乱」(じょうきゅうのらん)の原因になっています。
当時、幕府最大の実力者であった北条氏でしたが、なかでも3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)が定めた執権を出す家柄である「得宗」(とくそう:北条氏惣領の家系)家が最も権力を持っていました。
そのため、同じ北条氏でも他の家柄の人達は得宗家をつぶすために様々な工作を行っています。そのような勢力が頼ったのが藤原頼経でした。
いくら北条氏によって据えられたお飾りの将軍と言っても、将軍の権威は十分に利用価値があったのです。
そんな状況の中、1242年(仁治3年)、北条泰時が死去。代わって4代執権になったのは、北条泰時の孫、当時まだ19歳の「北条経時」(ほうじょうつねとき)でした。
実は北条氏の中には北条経時の他にも執権にふさわしい実績・経験を持つ男性はたくさんいました。他の執権就任時を考えると、このときも若くて経験に乏しい北条経時を押しのけて自分が執権になろうとした者がいたという可能性は十分にあります。
しかし「吾妻鏡」(あづまかがみ:鎌倉時代後期に成立した、鎌倉時代の歴史書)ではなぜかこの年の記事が抜け落ちているため、詳しいことは分かりません。
もしかしたら、反得宗グループの中に、藤原頼経を利用して執権に就こうとした者がいた可能性もあります。2年後の1244年(寛元2年)、藤原頼経が将軍の座を6歳の藤原頼嗣に譲ったことは、反得宗派と結びつこうとした藤原頼経が、無理やり将軍職を下ろされた状況証拠と言えるかもしれません。
そのあとも藤原頼経は「大殿」(おおとの)として鎌倉に残り、幕府内で勢力を保ち続けましたが、1245年(寛元3年)には出家(しゅっけ:仏僧となること)して「行賀」(ぎょうが)と名乗っています。これも、将軍から距離を置かせることで幕府への影響力を弱めようとした北条氏の計略でした。しかしこの頃から北条経時は病に倒れます。
北条経時には2人の子がいましたが、まだ若いため、1246年(寛元4年)には執権の座を弟の「北条時頼」に譲って出家。直後に北条経時が死去すると、北条氏の中でも得宗になれなかった「名越光時」(なごえみつとき:北条泰時の甥)が、藤原頼経と組んで執権の座を奪うための挙兵を計画。
しかし事前に北条時頼に知られ、計画は失敗。名越光時は出家させられた上で流刑に処されました。これを「宮騒動」(みやそうどう)と言います。この件によって、これ以上藤原頼経を鎌倉に置いておくのは危険だと判断した北条時頼は、藤原頼経を都へと送り返しました。しかし藤原頼経と、藤原頼経に味方する勢力は諦めていませんでした。
「三浦泰村」(みうらやすむら)は、源頼朝の時代から幕府を支えてきた有力御家人「三浦義村」(みうらよしむら)の子。ライバルを次々と蹴落としてきた北条氏から見れば、最後の有力御家人です。しかも前年の宮騒動の背後には三浦泰村がいたと噂されていました。
1247年(宝治元年)には鎌倉に羽蟻の大軍が押し寄せたり、北条氏の屋敷の上を光る物体が飛行したり、海が真っ赤に染まったりという怪異現象が頻発します。人々は、これは北条氏と三浦泰村との間で合戦が起きる予兆に違いないと大パニックに。
この騒ぎを収めるため、北条時頼は三浦氏に対して敵意がないことを示しています。ところが、そんな北条時頼の弱腰を快く思っていなかったのが北条時頼の外祖父(がいそふ:母方の祖父)「安達景盛」(あだちかげもり)でした。
安達景盛は北条時頼の意向を無視して三浦泰村宅を襲撃。すると三浦氏の一族が集まってこれに反撃。その中には、藤原頼経に味方していた御家人衆も多数含まれていました。巻き込まれる形になった北条時頼も挙兵せざるを得ず、ついに幕府内を2つに分ける大騒動に発展。
最後、周囲から火をかけられて逃げ場を失った三浦泰村は「これは、我が父の三浦義村が多くの人を殺してきた報いである。もはや北条殿に恨みはない」と言い残し、一族とともに自刃して果てました。これを「宝治合戦」(ほうじがっせん)、あるいは「三浦氏の乱」(みうらしのらん)と呼びます。
こうして幕府内に、北条氏と敵対する力を持つ御家人はいなくなりました。しかし、藤原頼経の影響力をこのまま幕府に残しておくのは危険だと判断した北条時頼は、5代将軍・藤原頼嗣までも更迭することを決意。
そして、2代続いた摂関家からではなく、新たな、より権威のある親王を将軍として招くことにしたのです。これは以前、初代執権・北条時政が熱望していたことでもありました。
1252年(建長4年)、6代将軍となる「宗尊親王」(むねたかしんのう:後嵯峨上皇[ごさがじょうこう]の皇子)が鎌倉に到着した翌日、まだ14歳の藤原頼嗣は将軍としての仕事を何もできないまま都に戻されました。戻るといっても、藤原頼嗣は鎌倉生まれの鎌倉育ち。
生活の基盤は鎌倉にありました。さらに実家と言うべき藤原氏九条家(ふじわらしくじょうけ)は、父の藤原頼経が幕府と激しく対立したおかげで没落寸前に追い込まれており、せっかく都に戻っても、決して幸福ではなかったと思われます。
そして4年後の1256年(康元元年)に父の藤原頼経が死去。その翌月、藤原頼嗣もこの世を去りました。どのような死にざまであったかは分かっていません。