鎌倉9代将軍

9代将軍/守邦親王
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9代将軍/守邦親王 9代将軍/守邦親王
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9代鎌倉将軍「守邦親王」(もりくにしんのう)は8代「久明親王」(ひさあきしんのう)の子。守邦親王が在位した期間は、鎌倉幕府が滅亡に向かって突き進んでいた時期でした。鎌倉の幕府内では北条氏の力が衰えるにしたがって「御家人」(ごけにん:幕府から領地の所有を保証される代わりに、幕府への忠誠を誓った武士団)が力を持ち始めます。また都の朝廷でも2つの派閥が激しく競い合っていました。地方には「悪党」(あくとう)と呼ばれる勢力が登場し、世の中は大混乱。こうした状況の中で将軍となった守邦親王は、歴史的な実績はほとんど残していません。1333年(元弘3年)、鎌倉幕府の滅亡の日に将軍職を辞して出家(しゅっけ:仏僧となること)し、3ヵ月後に亡くなったことだけが記録に残されています。

混乱する幕府

執権のたらい回し

守邦親王

守邦親王

鎌倉幕府の将軍は、初代の「源頼朝」を含めた全員が北条氏によってその地位に就いたと言っても過言ではありません。北条氏は自ら将軍にならず、「お飾り」の将軍を立て自分は「執権」(しっけん:将軍を補佐する役職)として政治の実権を握り続けました。

その中でも最も力を持っていたのが、執権を世襲する「得宗」(とくそう)と呼ばれる一族。1301年(正安3年)、得宗の9代執権・「北条貞時」(ほうじょうさだとき)は執権の座を従兄弟の「北条師時」(ほうじょうもろとき)に譲ります。しかし、そのあとも北条貞時は得宗の権威を用いて政治を動かし続けました。

1311年(応長元年)に北条師時が死亡。このとき、北条貞時には嫡子(ちゃくし:跡継ぎの男子)北条高時がいました。しかし北条高時はまだ7歳。そこで一門の「北条宗宣」(ほうじょうむねのぶ)が11代に就任。

同年、「北条煕時」(ほうじょうひろとき)が12代となり、1315年(正和4年)には「北条基時」(ほうじょうもととき)が13代というように、執権の座は北条一門の中で短期間ごとにたらい回しにされました。つまり、これはすべて北条高時が成長するまでのお飾りの執権に過ぎませんでした。

権力を握る新興の御家人達

将軍はお飾り、執権もお飾りという状況の中で、幕府でめきめきと力を伸ばしてきたのが、新興の御家人達です。その代表格が「内管領」(ないかんれい:北条得宗の執事)の「長崎高綱」(ながさきたかつな)でした。長崎高綱は北条高時の「後見」(うしろみ:補佐する役割)を託されてから、その子「長崎高資」(ながさきたかすけ)とともに幕府内での権力を増し始めます。

そして長崎父子は得宗の財政・行政を掌握しただけでなく、「侍所」(さむらいどころ:幕府の軍事・警察権を握る役所)や「寄合衆」(よりあいしゅう:幕府の政策決定機関)までも支配下に収めてしまいました。つまり、この頃の鎌倉幕府は長崎父子が北条氏を支配し、北条氏が将軍を支配するという二重構造になっていたのです。

家臣に決められた執権

北条守時

北条守時

1316年(正和5年)、誰もが待ち焦がれた得宗の北条高時が12歳で14代の執権に就任。しかし、この頃にはもう執権に実質的な権力はありませんでした。

もともと病弱だった北条高時が1326年(嘉暦元年)に出家すると、次の執権をめぐって長崎父子と古くからの有力御家人であった安達氏が対立。折衷案として、長崎父子は一門の「北条貞顕」(ほうじょうさだあき)を15代執権に選任します。

しかし北条氏内部から反対論が噴出したため、北条貞顕はわずか10日で執権を辞退。そして一門の「北条守時」(ほうじょうもりとき)が16代の、そして最後の執権に就任しました。

後醍醐天皇の討幕

両統迭立の状態に

当時、幕府以上に朝廷も混乱していました。13世紀終盤、朝廷は89代「後深草上皇」(持明院統)と90代「亀山天皇」(大覚寺統)の両派が交互に天皇を立てる「両統迭立」(りょうとうてつりつ)の状態にありました。

両統迭立と鎌倉将軍

両統迭立と鎌倉将軍

どちらも相手方を陥れるための情報を探り、何かを見付けるとすぐ幕府に報告。自分達に有利になるよう取り計らってもらおうとしたのです。

そのため都から鎌倉に頻繁に使者が派遣され、その様子はまるで「比べ馬」のようだと人々から噂されたほどでした。鎌倉将軍の守邦親王は天皇になる可能性はありませんでしたが、後深草天皇の孫にあたるため、持明院統のひとりと言えます。

後醍醐天皇の決意

後醍醐天皇

後醍醐天皇

さらに時代が進むと、大覚寺統の中でも権力争いが勃発し始めました。1318年(文保2年)に大覚寺統の「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が96代天皇に即位したとき、幕府は同じ大覚寺統でありながら、「邦良親王」(くによししんのう:94代・後二条天皇[ごにじょうてんのう]の子)を「立太子」(次の天皇)に決定。

これによって後醍醐天皇の皇子が天皇になる道が絶たれたのです。納得できない後醍醐天皇は、1324年(正中元年)、邦良親王に近い「多治見国長」(たじみくになが)らを殺害。これを「正中の変」(しょうちゅうのへん)と言います。

1327年(嘉暦2年)に邦良親王が亡くなると、後醍醐天皇は今度こそ自分の皇子を立太子にするよう幕府に要請しますが、幕府はこれを拒否。しかも後醍醐天皇に天皇位を辞するよう求めてきました。本来、朝廷の臣下であったはずの幕府によって皇位が左右されるという状況に耐え切れず、後醍醐天皇はついに倒幕を決意します。

立ち上がる全国の悪党達

1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は近隣の武士達に「六波羅探題」(ろくはらたんだい:幕府が都の警固と朝廷の監視のために置いた機関)を攻撃せよと命令。そして都を脱出して笠置山(かさぎやま:京都府相楽郡)の山頂に陣を敷き、諸国の武将に決起を促し続けます。

これに対し、幕府は75,000の大軍で笠置山を包囲。後醍醐天皇軍は必死に抵抗しましたが、捕まって隠岐島(おきのしま:島根県)に流されました。しかしその頃、後醍醐天皇の呼びかけに応じた勢力が全国で挙兵し始めます。

そのひとりが河内(かわち:大阪府南部)の悪党の「楠木正成」(くすのきまさしげ)です。悪党とは、幕府の統制に従わなかった地方の武士の総称で、土着の武士や農民を率いて年貢や土地を奪ったりしていました。後醍醐天皇の呼びかけを受けた楠木正成は、奇襲によって幕府軍を翻弄。この活躍を見て全国の悪党達も次々と挙兵し始めます。後醍醐天皇も隠岐を脱出し、倒幕軍はますます勢いづきました。

鎌倉幕府滅亡

後醍醐天皇軍を討つため、北条高時は「足利高氏」(あしかがたかうじ:のちの室町幕府初代将軍[足利尊氏])を都に遣わします。

しかし足利高氏は「八幡太郎義家」(はちまんたろうよしいえ:源義家[みなもとのよしいえ]源頼朝の曽祖父)から続く、れっきとした「清和源氏」(せいわげんじ:清和天皇[せいわてんのう]の子から始まる家系)の末裔。最初から後醍醐天皇と通じていた足利高氏は、都に到着すると六波羅探題を攻め落とします。

一方、同じ清和源氏の血を引く「新田義貞」(にったよしさだ)も「上野」(こうずけ:群馬県)で挙兵し、鎌倉幕府を背後から攻撃。1333年(元弘3年)の5月22日、北条高時をはじめ幕府の要人は全員が自害し、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。

最後の将軍の最期

消えた鎌倉9代将軍

朝廷が発した討幕の命令書では、「敵は北条高時」と明記してあり、そこに「将軍・守邦親王」の名はありません。もしかしたら北条氏のお飾り将軍であったことが配慮されたのか、あるいは同じ皇族であったために討伐の対象から外された可能性もあります。記録には鎌倉幕府が滅んだ日に将軍職を辞して出家し、3ヵ月後に他界したことが記されているだけです。

当時守邦親王は32歳でしたから天寿を全うしたとは考えられず、また誰かに殺されたとも書かれていないため、死因も墓所も不明です。もしかしたら幕府の滅亡と、敵対する大覚寺統の後醍醐天皇が勝利したことの両方がショックで心を病んだのかも知れません。いずれにせよ、幕府滅亡の騒乱の中で、最後の鎌倉将軍はひっそりと歴史から姿を消しました。

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名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
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初代将軍/源頼朝

初代将軍/源頼朝
日本で初めて武家による政権を打ち立てた源頼朝(みなもとのよりとも)ですが、もともと「源」姓は天皇の子供達が皇族を離れるときに下賜(かし:天皇からいただくこと)された姓でした。「平」姓も同じで、どちらもルーツをたどれば皇族です。源頼朝も最初から武士だったわけではなく、少年時代は宮中に仕え、第78代「二条天皇」(にじょうてんのう)の「蔵人」(くろうど:秘書)をしていました。これは朝廷における出世コースで、このままいけば源頼朝は朝廷の役人になっていたと思われます。しかし、父である「源義朝」(みなもとのよしとも)が平氏と戦って負けたため罪人として捕らえられ、子供だった源頼朝は、殺される代わりに伊豆に流されることに。ここから、武人としての源頼朝の物語が始まります。

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2代将軍/源頼家

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鎌倉幕府における9人の将軍の中で、「源頼家」(みなもとのよりいえ)はある意味で最も悲運な将軍です。父「源頼朝」(みなもとのよりとも)が急死したとき、源頼家はまだ18歳の若者。18歳は立派な大人とは言え、苦節の時代を乗り越えた父と違い、苦労知らずで育ってきた源頼家にいきなり東国武士団のトップの重責を任せるのは無理がありました。しかも源頼朝亡き今は、有力御家人(ごけにん:幕府から土地の所有を保証され、その代わりに幕府への忠誠を誓った武士)にとっては勢力を拡大するまたとないチャンス。こうして源頼家は、自分の意志とは関係なく御家人達の権力闘争の渦に巻き込まれていったのです。

2代将軍/源頼家

3代将軍/源実朝

3代将軍/源実朝
「源実朝」(みなもとのさねとも)は鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟。兄である源頼家は父に倣って政治にかかわろうとして北条氏に殺されました。兄の殺害現場にいた源実朝は、決して政治にかかわろうとはしませんでした。その代わり朝廷文化に憧れ、特に和歌には尋常ではないほど傾倒しています。自分の和歌を都の「藤原定家」(ふじわらのさだいえ:平安末期から鎌倉時代にかけての歌人。日本の歌道を代表する歌人のひとり)に送って品評をお願いしたり、自分の和歌集を編纂したり、さらには謀反の罪で捕らえられた家来の和歌に感じ入り、罪を許したという話もあるほど。また源実朝は、貴族の官位を渇望していました。そして待望の「右大臣」(うだいじん)の官位授与を祝う儀式の最中、親族によって暗殺されてしまいます。

3代将軍/源実朝

4代将軍/藤原頼経

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「藤原頼経」(ふじわらよりつね)は、3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられました。しかし当時はまだ2歳で、政治を行う能力はゼロ。つまりお飾りに過ぎなかったのです。一方、御家人の内部では激しい権力争いが続いていました。やがて藤原頼経が元服(げんぷく:成人になる儀式)して正式に将軍職につくと、その権威を利用して政治の実権を握ろうとする御家人が次々と登場します。こうして藤原頼経はその権力闘争の渦に巻き込まれていきました。

4代将軍/藤原頼経

5代将軍/藤原頼嗣

5代将軍/藤原頼嗣
鎌倉幕府5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)は、先代の「藤原頼経」(ふじわらよりつね)の子。先代が都で生まれたのに対し、藤原頼嗣は純粋に鎌倉生まれの鎌倉育ち。6歳で元服(げんぷく:成人になったことを示す儀式)し、5代将軍となります。年齢が幼く、また将軍在任期間も8年と短かったため、将軍としての藤原頼嗣の活動はほとんど記録が残っていません。その代わり、藤原頼嗣の将軍在任期間は、父である藤原頼経と北条氏が激しく権力争いを繰り広げた時期でもありました。その2つの勢力の間で、何も知らない藤原頼嗣はただ翻弄されるしかなかったのです。

5代将軍/藤原頼嗣

6代将軍/宗尊親王

6代将軍/宗尊親王
鎌倉幕府の6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)は88代「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)の子。朝廷から皇族を将軍として迎えることは、鎌倉幕府誕生の立役者である「北条時政」(ほうじょうときまさ:源頼朝[みなもとのよりとも]の義父)の時代からの念願でした。源氏の将軍が3代続き、「摂家」(せっけ:藤原氏の中でも摂政を出してきた格式の高い家柄)将軍が2代続いたあと、いよいよ念願の「宮将軍」(みやしょうぐん:皇族から迎えた将軍)の登場となります。宗尊親王は将軍となっても政治に介入しようとはせず、和歌に親しみながら穏やかな日々を送りました。しかし他の将軍と同様に、最終的には北条氏の都合で将軍職を解かれ、都に送り返されるという運命をたどります。

6代将軍/宗尊親王

7代将軍/惟康親王

7代将軍/惟康親王
鎌倉幕府の「惟康親王」(これやすしんのう)は6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)の子。将軍就任時はわずか3歳ですから政治能力はありません。これは当時の幕府で政権を握っていた北条氏の戦略で、自らは将軍にならず、「執権」(しっけん:将軍をサポートする役割。実質上の幕府の最高権力者)として幕政を自由にコントロールしていたのです。将軍が成人して万が一にも北条氏と敵対する勢力と手を組んでしまわないよう、将軍が成人するたびに都へ戻し、新たに幼い将軍を「お飾り」として立てていました。惟康親王も、そんな北条氏の思惑に翻弄され続けたひとりだったのです。

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8代将軍/久明親王

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「久明親王」(ひさあきしんのう)は、初代将軍「源頼朝」亡きあとに鎌倉幕府を支配した北条氏によって擁立された8代目の鎌倉将軍です。北条氏は、自らは将軍にならず、幼い将軍を擁立し、自分達は「執権」(しっけん:将軍を補佐する役職)として幕府を思い通りに動かし続けてきました。しかし時代が進むうちに、「得宗」(とくそう:北条氏の中でも執権を世襲した、最も有力な一族)とそれ以外の北条氏や御家人との間で権力をめぐって激しい対立が起こり始めます。また当時、朝廷の内部でも2つの勢力が天皇の座をめぐって対立していました。そんな混とんとした状況の中で、押し出されるように鎌倉幕府8代将軍になったのが久明親王だったのです。

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