インドをはじめとする南アジアは、刀装具をはじめとする装飾が豪華な刀剣を作っていました。しかし、そんな中でも剣身の実用性は研究され、その結果として、独特な形の刀剣へと進化したのです。ここでは、南アジア特有の刀剣の歴史について見ていきましょう。
インドでは、紀元前1500年頃、中央アジアから古代民族・アーリア人がやってきたことで、ヴェーダ時代が始まっています。ヴェーダとは、アーリア人の聖典を意味する宗教文書で、のちのカースト制度やインドの思想に大きな影響を及ぼすことになります。
インド武術の古典である「ダヌル・ヴェーダ」もその1つで、古代インドでは刀剣は武器としてではなく、弓術の道具として位置づけられていたため、紀元前500年頃まで武器となる鉄製の刀剣は登場しませんでした。
これにはインドの宗教的な信仰が関係していたのかもしれませんが、それでも中世から後世になるにつれて、インドでも刀剣が生産されるようになっていきました。
インドでも中世になると広く刀剣が使われるようになっていますが、一般的に使われていたのが「タルワール」という剣です。タルワール=talwarのwarは「一撃を加える」という意味で、この剣の起源は7世紀から13世紀のラージプート時代までさかのぼります。
ラージプートとはサンスクリット語で王子を意味する単語です。古代インドの王族階級を名乗るカースト集団がラージプートと呼ばれており、この外来民族が北インドに複数の王朝を建て、各地で権力抗争が巻き起こっていました。このとき、外部から持ち込まれたペルシア(現在のイラン)製の剣がインドの部族に伝わり、その後タルワールが作られたと言われています。
タルワールは、ヒルト(柄)部分の造形が特徴的な剣で、円盤状のポンメル(柄頭)と、うねりのあるナックルガード(護挙)、十字形の鍔(つば)であるクロスガードが付けられています。
趣向を凝らしたヒルトも多く、複雑な彫刻や金箔打ち、複雑な象眼などの装飾技法が施されている物も。また、権力者などの身分が高い人々が持つタルワールのヒルトは、美しいエナメル細工や宝石で装飾されています。
さらに、驚くべき点は華やかな装飾がされているのはヒルトだけでなく、湾曲した両刃の剣身にも、美しい彫刻や、シリア発祥のダマスク織のような象眼の装飾がされているところです。
中世のインドでは、自国で剣身を鍛えず、ペルシア製の剣身が使われていました。当時、ペルシアの鍛冶職人は非常に高い技術を持っていて、剣身を加工する達人と言われていたほど。彼らが行なっていたのは「模様溶接」と言われる加工方法で、槌打ち、ねじり、折り重ねを繰り返しながら、硬く頑丈な剣身を鍛え、さらに剣身の表面に美しい質感と模様を浮かび上がらせる芸術的な技法でした。
なかには、無数の装飾的な縞模様が浮かび上がった剣身などもつくられています。このような高度なテクニックは、ペルシアなどのイスラム美術の世界では古くから用いられてきたようです。しかし16世紀になると、タルワールにある変化が起こります。
16世紀になると、インドの刀剣はある問題を抱えることとなります。タルワールをはじめとするインド刀剣の制作を支えてきたペルシアなどのイスラム諸国から、なんと剣身の輸入が途絶えてしまったのです。これまで剣身は輸入に頼ってきたインドの鍛冶職人ですが、ここに来て突如、自国で生産しなくてはいけない状況に立たされてしまいました。
しかし、この危機的状況を救う「資源」が、インドにはありました。鋼の原料となる鉄鉱石にインド産の物を使ったところ、以前の物より硬度の高い鋼を作ることができたのです。これを利用して、古代インドから伝わるウーツ鋼と呼ばれる木目模様の鋼(日本の木目金と同じ)を製造し、剣身に用いることで、インド製の美しく強い剣身のタルワールの制作が可能になりました。
ハイクオリティな剣身を用いたタルワールには、ヒルト(柄)の下のフォルト(鍔の近く)部分に、額縁状の装飾モチーフ「カルトゥーシュ」とともに制作者のマークが入っています。これは日本刀で言うところの名刀に刻まれる銘だと思うのですが、インド製はさらに幸運を運ぶモチーフや、イスラム教の祈りの言葉が記されています。
また、錫(すず)を主成分として作られる合金・ピューターと銀を掛け合わせた「ビドリー」と呼ばれる細工も、インド刀剣の装飾の定番とされています。インドの名剣には、見えないところにも、ありとあらゆる装飾が施されているのですね。
タルワールは、中央アジアから移住し、インドで一時代を築いたラージプートの文化においても、重要なシンボルとして機能していました。彼らにとってタルワールは名声と名誉の象徴であり、儀式には欠かせない伝統的な剣で、結婚式などでもその役目を担っていました。
また、ラージプートの戦士たちはタルワールの名誉にかけて戦うと言った誓いを立てるなど、ラージプートにとってタルワールという剣は、日本の武士にとっての日本刀のような存在だったのかもしれません。
ムガル帝国時代(1526〜1858年)にタルワールは最盛期を迎え、インドの北に位置するアフガニスタンにまで、その影響は広がりました。アフガンの戦士がタルワールの形状を模して作ったのが「プルワー」という湾曲した剣で、ラージプートと何年も領土争いをしていたアフガン人は、敵の剣を見本に新しい剣を作ったと言うことになります。
また、プルワーはアフガニスタンで暮らすイラン系民族・パシュトゥーン人の伝統的な剣として後世まで受け継がれました。
このような歴史から見ても、タルワールはインドのみならず、多種多様な民族から愛される特別な剣だったと言えるでしょう。
インドでは中世の壁画に、プラティラーハ朝をはじめとするラージプート諸王朝の君主たちが剣を持った姿が描かれています。
この剣はサンスクリット語で「刀剣」を意味する「カンダ」という剣で、インドを代表する剣・タルワールと同様にラージプートの戦士たちに重宝された武器でした。
カンダは、古代インドから伝わる製錬技術でつくられたウーツ鋼(木目状の模様の鋼)の剣身で、しなやかで軽く、柔軟性に優れています。身幅が広く真っ直ぐな直剣で、一般的な剣の形状とは反対に、切先に向かうほど太くなっています。
また、剣身のエッジや両面部分に補強材が付けられている物が多く、これによって薄く軽い剣身でも折れにくく耐久性のある剣に強化することができました。カンダのヒルトにはポンメル(柄頭)と大きな円盤状のクロスガード(十字形の鍔)、ナックルガード(護拳)がついており、なかにはバスケットヒルトと呼ばれる西洋の剣に見られる籠型のヒルトに近い物が付けられた物もあります。
さらに、特徴的なスパイク(傾いた釘のような物)がポンメルの中央が突出している物もあり、これは両手用のグリップとして使われていたようです。
カンダは基本的に歩兵の戦闘武器として活躍していましたが、騎馬兵がいざという時に使う「奥の手」としても有効な武器でした。幅広の剣身はたたき斬ることに優れていたため、ラージプートの騎馬兵は落馬して敵陣に囲まれた際に、両手でカンダを持ちながら頭上で力強く振り回して抵抗したと言います。
その威力は、革やチェインメイル(鎖帷子)の鎧を斬り裂くほど強力で、この武器のおかげで馬上の騎兵相手にも立ち向かうことができました。
グプタ朝(320〜550年)の彫刻に、カンダのような刀剣が見られることから、カンダの起源となった刀剣がこの時代につくられたと考えられています。カンダはこのような歴史的な彫刻や絵画によく登場しており、宗教芸術の分野においても神様の象徴的な武器として描かれてきました。
また、ヒンドゥー教徒で形成される戦士民族・マラーターの剣としても有名で、現在もインドで1年に1度、10日間かけて行なわれている「ダサラ」というヒンドゥーの教の祭典で、カンダは神聖な武器として崇拝されているようです。
先述のカンダを愛剣としていた戦士民族・マラーターは、インド中~南部にヒンドゥー王朝としてマラーター王国(1674〜1849年)を建国していました。初代君主のシヴァージー・ボーンスレーがカンダ以外に愛用していた剣「パタ」は、インド刀剣の中でも非常に珍しい物です。せっかくなのでここでパタについても触れてみましょう。
パタは、カンダのように西洋的な見た目をした両刃の直剣です。全長130cm以上もある細長の剣で、最も特徴的なのが、ガントレット(西洋の籠手)のような手を覆う形状のヒルトが付いていること。この籠手は手首が包み込まれるほど大きく、中に隠されたグリップをしっかりと握ってパタを振り回せば、歩兵から騎兵までまとめてなぎ倒すことができたと言います。
ムガル帝国とマラーター王国の間で長期に渡って繰り広げられた領土戦争でも、このパタが将軍たちの手に握られていたそうです。
インドの刀剣は華やかで高度な技術を駆使した物が多いですが、インド北部に面した「ネパール」や、インド洋に浮かぶ南の島「スリランカ」においても、豪華で個性的な刀剣が作られてきました。
インドでは、17世紀後半からヨーロッパとの貿易が盛んになり、刀剣にもその影響が及びました。しかし、主に輸入品が使われたのは技術的な面を支える剣身であり、芸術的な面においてはインド特有の「装飾的刀剣」に変化は見られませんでした。
デカン高原を中心とした地域を支配していたヒンドゥー教徒のマラーター王国(1674〜1849年)は、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパから剣身を輸入して刀剣を鍛えていました。特にドイツやイタリアで作られていた細く真っ直ぐな剣身が人気で、このような輸入品の剣身に装飾を施した刀剣に「フィランギ」と言う物があります。フィランギと言う言葉は「外来の物」と言う意味で、フィランギに国内で制作した剣身を付けた物は「スケーラ」と呼ばれ、マラーター王国のあるデカン高原では「ドゥープ」と呼ばれていました。
マラーターの王や戦士が使っていたカンダと同じように、フィランギの剣身にもエッジ部分に補強材が付いていて、ポンメル(柄頭)には両手用の長いスパイクが付いています。ヒルト(柄)はコフガリと呼ばれるダマスカス(シリア)発祥の金工象眼で飾られており、この金工技術は弥生時代(紀元前3〜3世紀頃)にシルクロードを渡って日本へも伝えられていました。
12世紀にペルシア(現在のイラン)で誕生した剣「シャムシール」は、16世紀初頭に近隣国へ伝わり、インドの剣・タルワールにも影響を与えました。シャムシールとは、ペルシア語で「ライオンの爪(のように湾曲した)」と言う意味を持っており、古代から「剣」を意味する単語として使われていました。
また、18世紀にインドで制作されていたシャムシールは、インド刀剣のなかでも極めて豪華な剣で、動物の頭を象ったエナメル細工のポンメルや、ヒルトや鞘には象眼装飾に色とりどりのエナメルが贅沢に盛り込まれている物も作られています。
ネパールの有名な武器に「ククリ」という大きく湾曲したナイフがありますが、このククリと同様に、ネパールを代表する武器が「コラ」です。コラはラージプートから影響を受けた刀剣と考えられており、ネパールからインド北部にかけて居住しているグルカ族は、このコラを伝統的な武器として使用し、狩猟や儀式にも用いられていました。
コラの剣身は非常に特徴的な形状で、深く湾曲した先端部分は大きく外へ広がっています。ククリは現在もネパールで使用されていますが、コラはその独特な形状が扱いにくいためか、ほとんど姿を見せなくなってしまったようです。
スリランカの代表的な武器「カスターネ」は、なんと言ってもヒルトやポンメル、鞘にいたるまで豪華な装飾が施されていることに圧倒される刀剣です。特に17世紀から18世紀につくられたカスターネは、ポンメルからヒルト全体にかけて、神話の怪物などの空想上の生き物が象られており、そこにさらに金銀を使って輝かせ、木製の鞘には気が遠くなるような複雑な彫刻があしらわれています。これだけ迫力のある剣ですから、きっと権力の象徴や宝物として扱われていたのでしょう。