大和伝(やまとでん)は、活躍の場が政治の中心地・大和国(やまとのくに:現在の奈良県)だったことにより、常に都の政治の影響を受け盛衰してきました。「大和鍛冶」(やまとかじ)として名が残っている「大和五派」(やまとごは)には、千手院派(せんじゅいんは)・当麻派(たいまは/たえまは)・尻懸派(しっかけは)・手掻派(てがいは)・保昌派(ほうしょうは)があります。ここでは各派の特徴や代表的な刀工をご紹介します。
大和鍛冶の歴史はとても古く、日本の初代天皇とされている「神武天皇」(じんむてんのう)の即位以来、長きにわたって皇室お抱えの刀鍛冶として仕えてきたとする説もありますが、大和鍛冶のことが実際に文献などに現れ始めたのは、飛鳥時代の大宝律令(701年)以降です。
大和国は「五箇伝」(ごかでん:名工を輩出した5つの主生産地)の中で最も古い歴史を持ちます。「飛鳥京」・「藤原京」・「平城京」など、都が奈良にあったことに起因し、奈良時代から平安時代に御用鍛冶として栄えました。その後、「桓武天皇」(かんむてんのう)が都を「平安京」(へいあんきょう:現在の京都府)へ遷都をしたことにより、奈良は「南都」と称されるようになり衰退。補助金などの不足により、大和国での制作は困難になったため、日本刀の主な生産地域が奈良から京都に移っていきました。
しかしその後、平安時代末期、当時の実権を握っていた藤原氏の仏教振興政策により、大和国は全国の仏教の中心地に。その影響を受け、大和国は各寺院の勢力を増大させる動きを見せ、仏法保護の名の下に僧兵と言う戦闘に従事する僧が登場しました。これにより、僧兵が使用するための大量の刀が必要とされたため、寺院に所属する刀鍛冶として大和鍛冶が再度、盛んになっていったのです。
この大和鍛冶の盛衰は、常に所属先の影響を大いに受けており、「千手院派」は東大寺の子院(しいん)である「千手院」、「手掻派」は東大寺の「輾磑門」前に住んだため「東大寺」、「当麻派」は興福寺の荘内で発生したため「興福寺」などと、それぞれの所属先の寺院・荘園、ひいては取り仕切った武士達の動向に左右されてきました。
「大和物」(やまともの)の作風は、「輪反り」(わぞり:中間で反る)が付いた姿で、鎬(しのぎ)が高く、「鎬幅」(しのぎはば)も広いという特徴を持っています。地鉄(じがね)は「柾目肌」(まさめはだ)に「地沸」(じにえ)が厚く付き、刃文は「直刃」(すぐは)調。また、豊かな「働き」(はたらき:沸出来[にえでき]や匂出来[においでき]の中に時折現れる様々な動き)が見られ、多彩な変化を楽しむことができます。
千手院派(せんじゅいんは)は、大和国で平安時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工一派です。千手院派は大和五派の中で最も古い流派で、東大寺の子院(しいん:本寺に属する寺院)である千手院に従属し、日本刀の作刀を行ないました。
また、一般的に、平安時代末期から鎌倉時代初期頃までの千手院派を「古千手院派」(こせんじゅいんは)、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての千手院派を「中千手院派」(ちゅうせんじゅいんは)と呼びます。
当麻派(たいまは・たえまは)は、大和国で鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍しました。当麻派は、僧兵の刀を作る刀工として、大和国にある当麻寺に所属していたとされています。書き字は「當麻」・「当磨」・「當磨」。古い読みは「たぎま」・「たえま」。
全体として銘を切る物がとても少ないのが特徴です。太刀姿は、大和物の中で最もしっかりとした姿とされ、鎌倉時代中期に好まれた姿のいわゆる「身幅」が広くしっかりとした姿で「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)の物が見られます。
刃文は焼幅の狭い沸出来に「直刃丁子乱」(すぐはちょうじみだれ)や「小互の目乱」(こぐのめみだれ)。大和物の中で最も働きが多く、二重刃や「食い違い刃」などが見られるのが特徴です。
地鉄は「板目肌」(いためはだ)が刃の方に向かうにつれ柾目肌へと流れていくようになっており、これは「当麻肌」(たいまはだ)と呼ばれています。
※無銘の物が多く確定が困難なため、銘のある物だけ数えています。
「尻懸派」(しっかけは)は、大和国で鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて活躍した刀工一派です。尻懸派の「尻懸」は、奈良の東大寺の裏側にあたる土地の名称「尻懸」(しりかけ)に起因しており、これが訛って「しっかけ」と呼ばれるようになりました。尻懸の地名の由来は、この土地で東大寺の祭礼が行なわれた際に、神輿(みこし)を担ぐ者が順番に腰を下ろして休んだことによります。
「掃き掛け」(はきがけ:箒で掃いたような模様)か焼き詰め。
※「則長」は同名で複数代続いており、識別が困難なため、「則長」銘の作刀全体で数えています。
手掻派(てがいは)は、大和国で鎌倉時代末期の正応頃(1288年頃)から室町時代中期末の寛正頃(1460年頃)に活躍しました。手掻派は東大寺に従属し、「輾磑門」(てんがいもん)と言う境内西方の門前に居を構え、日本刀を作刀しました。この経緯から「輾磑門」の「てんがい」が訛り、「手掻」と称するようになったと言います。書き字は「手掻」・「輾磑」・「天蓋」など。
同銘が何代も続いたため、大和物の中で最も作品が多く、大和物を代表的する一門です。皆「包」の字を名に付けました。
「保昌派」(ほうしょうは)は、大和国の「高市郡」(たけちぐん)と言う土地で、鎌倉時代後期に活躍した一派です。保昌派は手掻派とともに室町時代にかけて残りました。有力な寺社に従属していたと思われますが、実際にどの寺社に従属したのかは定かではありません。