日本全国に数多ある古戦場のうち、特に歴史上重要な戦いが起こった地として知られているのが「日本三大古戦場」です。「関ケ原古戦場」(岐阜県不破郡関ケ原町)と「桶狭間古戦場公園」(愛知県名古屋市)、そして「壇ノ浦古戦場跡」(山口県下関市)の3ヵ所を指します。「三大」に選ばれた明確な定義はありませんが、いずれも共通しているのは時代の転換点になった戦いであること。それぞれの戦いの経緯とともに、現在の古戦場に何が残され、何が見られるのかをご紹介します。
現在、広く知られている「日本三大古戦場」ですが、誰が言いはじめたのかは分かっていません。歴史ファンの間で広まり、いつしか一般化した名称です。ただし、その源流は江戸時代に見ることができます。
歴史家「頼山陽」(らいさんよう)が「日本外史」(にほんがいし)を執筆した際、戦国時代に起こった3つの奇襲戦を紹介。「河越城の戦い」(現在の埼玉県川越市)と「厳島の戦い」(現在の広島県廿日市市)、「桶狭間の戦い」(現在の愛知県名古屋市、豊明市)を「日本三大奇襲」と名付けたのです。これ以降、歴史上の重要な戦いや史跡などを「三大」というくくりでまとめる風潮が生まれました。
日本三大古戦場と言われる「関ケ原古戦場」(岐阜県不破郡関ケ原町)、「桶狭間古戦場公園」(愛知県名古屋市)、「壇ノ浦古戦場跡」(山口県下関市)で起こった戦いは、それぞれ時代が異なります。
ただし、いずれも次の時代を切り拓く端緒となった戦いです。関ヶ原の戦いは江戸時代がはじまるきっかけとなり、桶狭間の戦いは安土桃山時代の起源に紐付き、そして壇ノ浦の戦いは、新たな武士の世としての鎌倉時代の到来を告げました。つまり日本三大古戦場は、「歴史のターニングポイントになった3つの土地」とも言い換えられるのです。
それではそれぞれの古戦場について見ていきましょう。
天下統一を果たした「豊臣秀吉」が死去したことで、日本は真二つに分かれました。当時最大の実力者だった「徳川家康」と、豊臣恩顧の家臣を代表する「石田三成」の二大勢力が対立。両者が雌雄を決した地こそ「関ケ原」なのです。
1600年(慶長5年)、徳川家康率いる東軍が「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)討伐のため北上を開始すると、石田三成が挙兵。総大将は大坂城(現在の大阪城)を守る「毛利輝元」(もうりてるもと)」に任せ、自ら総勢約80,000の西軍を率いて東進を開始しました。これを知った徳川家康は上杉軍討伐を断念し、急遽反転。約74,000の兵力で西上を開始します。こうして両者は関ケ原で激突したのです。
序盤こそ西軍が優勢でしたが、豊臣秀吉の養子「小早川秀秋」(こばやかわひであき)が東軍へと寝返ったことがきっかけとなり西軍は総崩れ。石田三成は北国街道を落ち延び、わずか1日で徳川軍が勝利しました。これにより豊臣政権は崩壊。関ヶ原の戦いは事実上、戦国時代に終止符を打った戦いになりました。
関ケ原は狭い盆地であり、戦いは互いの本陣が目視できるほどの距離で行われました。
現在、石田三成が本陣を置いた笹尾山のふもとには馬防柵(ばぼうさく:騎馬隊などの侵攻を阻止するために築いた丸太組みの柵)が復元され、山頂には「石田三成陣跡」の石碑が建てられています。ここから「徳川家康最後陣跡」までは約600m。
また、東軍の「黒田長政」(くろだながまさ)が陣を敷いた「岡山烽火場跡」や西軍の「島津義弘」(しまづよしひろ)の陣跡などの石碑もあり、一帯を散策すれば各陣の距離感も把握できます。
アクセスはJR関ケ原駅から歩いて約20分。付近には「岐阜関ケ原古戦場記念館」(岐阜県不破郡関ケ原町)もあり、パネル展示による戦いの紹介や、シアターでの戦場没入体験などが楽しめます。より深く関ケ原の戦いを知るなら、先に岐阜関ケ原古戦場記念館を訪れて知識を得てから、実際の史跡へ足を運ぶのがおすすめです。
戦いのきっかけは「今川義元」(いまがわよしもと)の上洛でした。1560年(永禄3年)、兵力約25,000で織田家の殲滅に着手。対する「織田信長」の兵力はわずか3,000です。今川軍は織田方の砦を次々と落とし、織田家の本拠である清洲城(愛知県清須市)へと迫ります。しかし、織田信長は沈黙。突如動きを見せたのは、今川軍の本隊が今川義元の本陣から遠く離れて砦を攻撃しはじめたという情報を入手したときです。
織田信長はわずか5騎を従えて清洲城を飛び出し、「熱田神宮」(現在の愛知県名古屋市)で味方の合流を待つと、一路桶狭間へ向かったのでした。当日は豪雨で馬や兵の足音がかき消されたことも、奇襲成功の要因になったと言われています。
この戦いで今川義元は戦死。今川家が没落の一途をたどる一方、織田信長はその名を天下にとどろかせ、一躍天下を狙う大大名へと飛躍を遂げました。
桶狭間の戦い最大の激戦地は、今川義元の本陣が置かれた地です。
現在は公園として整備され、織田信長と今川義元の銅像が立つ他、「今川義元の墓」や「駿公墓碣」(すんこうぼけつ:今川義元の墓を示す石碑。頭部が丸い形状をしている物)などが見られます。
当時の名残を留める史跡が数多く残っているのも特徴で、「義元首洗いの泉」や今川義元が馬を繋いだ「馬つなぎの社松」なども公園内に点在。これだけ多くの史跡が1ヵ所に集まっているのは全国でも稀です。
アクセスは名鉄中京競馬場前駅を起点にするのが良いでしょう。駅のそばに「桶狭間古戦場伝説地」という史跡があり、敷地内に「七石表」と呼ばれる今川軍を偲ぶ石碑が立っています。ここに立ち寄ってから桶狭間古戦場公園に向かうのがおすすめです。
実は桶狭間の戦いの舞台は諸説あり、近隣に伝説地が点在しています。より深く知りたいときは、桶狭間古戦場公園内にある観光案内所を訪れましょう。無料のガイドツアーも開催しています。
平安時代後期に起こった源平争乱で最後の戦いとなったのが壇ノ浦の戦いです。源氏の棟梁は伊豆の国(現在の静岡県伊豆半島)に流されていた「源頼朝」でしたが、実質的には弟の「源義経」が源氏軍を束ねていました。平氏はこの頃かつての勢いを失い、源氏に押されるかたちで京を脱出。勢力基盤である西国で軍備を整え、源氏との全面対決に備えていました。
しかし、「一ノ谷の戦い」や「屋島の戦い」で源義経の奇襲作戦に敗れると、平氏は一気に窮地へ追い込まれます。残されたのは平氏が得意とする水軍での戦いでした。総大将も棟梁「平宗盛」(たいらのむねもり)から、知将「平知盛」(たいらのとももり)に替わり、背水の陣の様相です。
壇ノ浦の戦いが行われたのは1185年(元暦2年/寿永4年)。序盤は、潮の流れを知り尽くした平氏が優勢でした。しかし、一説によれば源義経が船の漕ぎ手を攻撃するという禁じ手を使ったことで、戦況が一変。潮流の変化も加わり源氏軍が圧倒し、勝敗が決したのです。
この戦いにより平氏は滅亡。そののち、源頼朝は鎌倉幕府を開くという政治手法で、武士が世を治める新時代を生み出すのです。