「北条基時」(ほうじょうもととき)は、1315年(正和4年)から約1年間、鎌倉幕府13代執権を務めた人です。父である「北条時兼」(ほうじょうときかね)は普恩寺流(ふおんじりゅう:7代連署の北条業時[ほうじょうなりとき]を祖とする)の当主で、北条基時が11歳の頃に死去しました。10代の頃から幕府の要職に就き、鎌倉幕府を支えた北条基時とはどのような人物だったのでしょうか。北条基時の生涯と執権政治についてご紹介します。
「北条基時」(ほうじょうもととき)は14歳の頃から幕府の要職に就き、鎌倉幕府の政治運営に関与。ここでは、北条基時が歴任した役職について詳しくご紹介します。
北条基時が最初に就いた役職は、従五位下左馬助(じゅごいのげさまのすけ:律令制における官司のひとつ)。
2年後の1301年(正安3年)、北条基時が16歳のときには「北条宗方」(ほうじょうむねかた)の後任として六波羅探題北方(ろくはらたんだいきたかた:京都の六波羅に設置された幕府の機関)に就任しました。
1303年(嘉元元年)、18歳のときに六波羅探題北方を退任。鎌倉に戻った翌1304年(嘉元2年)には越後守(えちごのかみ)に就任します。
そののち、13代執権に任命されるまでの期間、三番引付頭人(さんばんひきつけとうにん:訴訟審理を行う職の上から2番目の位)や讃岐守(さぬきのかみ)、評定衆(ひょうじょうしゅう:御家人とともに政務及び訴訟を行う職)などを歴任しました。
1315年(正和4年)、北条基時は12代執権の「北条煕時」(ほうじょうひろとき)に代わり執権に就任。北条基時の執権政治はどのような内容だったのでしょうか。
北条基時が13代執権に就任したのは、1315年(正和4年)30歳の頃です。連署(れんしょ:執権を補佐する仕事)には、「北条貞顕」(ほうじょうさだあき)が就任。北条基時は第9代執権である「北条貞時」(ほうじょうさだとき)の三男「北条高時」(ほうじょうたかとき)が成長するまでの中継ぎとして執権に任命されたため、実際に政治を行うことはありませんでした。
なお、この時期に幕府の実権を握っていたのは、内管領(ないかんれい/うちのかんれい:得宗[とくそう:北条氏嫡流の当主]の家臣における筆頭)の「長崎高資」(ながさきたかすけ)です。
1316年(正和5年)に北条高時が執権に就任することが決まり、北条基時は執権を譲り渡して出家します。
北条基時は「元弘の乱」(げんこうのらん)の際、自害に追い込まれこの世を去りました。元弘の乱とはどのような争いだったのでしょうか。北条基時の動きとともにご紹介します。