鎌倉幕府において執権に就いた17名一覧

鎌倉幕府12代執権/北条煕時
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鎌倉幕府12代執権/北条煕時 鎌倉幕府12代執権/北条煕時
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「北条煕時」(ほうじょうひろとき)は、1312~1315年(正和元年~正和4年)の間、鎌倉幕府12代執権を務めました。父は「北条為時」(ほうじょうためとき)、母は9代執権「北条貞時」(ほうじょうさだとき)の娘。また、祖父は連署(れんしょ:執権を補佐して政務を総括する重職)や六波羅探題北方(ろくはらたんだいきたかた:京都の六波羅に設置された幕府の機関)などを歴任した「北条時村」(ほうじょうときむら)です。歌人としても活躍した北条煕時の生涯と執権政治についてご紹介します。

北条煕時が執権となる前

北条煕時

北条煕時

「北条煕時」(ほうじょうひろとき)は、1279年(弘安2年)に「北条為時」(ほうじょうためとき)の子として誕生。

しかし、北条為時が若くして亡くなってしまったため、祖父の「北条時村」(ほうじょうときむら)によって育てられたと言われています。

1295年(永仁3年)17歳のときには、引付衆(ひきつけしゅう:訴訟審理を行う職)に就任。

1301年(正安3年)23歳のときには、評定衆(ひょうじょうしゅう:御家人とともに政務、及び訴訟を行う職)に任命されました。同年に祖父の北条時村が連署(れんしょ:執権を補佐して政務を総括する重職)に就いたことから、北条煕時は評定衆に任命された2日後に4番引付頭人(よんばんひきつけとうにん:引付の上から4番目の位)に昇格します。

間一髪で難を逃れた「嘉元の乱」

1305年(嘉元3年)に、「北条宗方」(ほうじょうむねかた)が北条時村を殺害した「嘉元の乱」(かげんのらん)が発生。その際に北条熙時も命を狙われますが、間一髪で難を逃れた北条煕時は、嘉元の乱後に北条時村を引き継ぎ、長門国(現在の山口県北西部)の守護職に就任します。

そのあとは、「北条貞顕」(ほうじょうさだあき)とともに寄合衆(よりあいしゅう:北条氏私邸に集まって国政について話し合う人々)に加入。鎌倉幕府を主導するトップとして活躍するようになりました。

北条煕時の執権政治

1311年(応長元年)に10代執権である「北条師時」(ほうじょうもろとき)が亡くなると、11代執権に「北条宗宣」(ほうじょうむねのぶ)が任命されます。同年、北条煕時は連署に任命されますが、実際に執務にあたっていたのは兄弟関係にある「北条時仲」(ほうじょうときなか)でした。

翌1312年(正和元年)に北条宗宣が出家すると、第9代執権の「北条貞時」(ほうじょうさだとき)の三男「北条高時」(ほうじょうたかとき)が執権になるまでの中継ぎとして北条煕時が執権に就任。しかし、実権は内管領(ないかんれい/うちのかんれい:得宗[とくそう:北条氏嫡流の当主]の家臣における筆頭)の「長崎円喜」(ながさきえんき)と得宗家外戚の「安達時顕」(あだちときあき)が握っていたため、実際に政治活動を行うことはありませんでした。

北条基時

北条基時

北条煕時が執権に在職したのは3年間。自らの執権在任中に連署を置かなかったり、一番引付頭人だった「北条基時」(ほうじょうもととき)を更迭したりするなど、わずかながら指導力を見せようとしたこともありました。

北条煕時は1315年(正和4年)に出家。執権を北条基時に譲りました。そして、執権を譲った1週間後に37歳の若さで生涯を閉じたのです。

また、歌人でもあった北条煕時は、「玉葉和歌集」(ぎょくようわかしゅう)「新後撰和歌集」(しんごせんわかしゅう)に詠歌を遺しています。

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