鎌倉幕府の執権職を務めた北条一族。そのひとりである「北条貞時」(ほうじょうさだとき)は得宗(とくそう:北条一族の惣領)の家に生まれ、9代執権に就任。その政治はどのようなものだったのでしょうか。北条貞時の生涯と、執権政治についてご紹介します。
北条貞時の執権在職期間は、1284~1301年(弘安7年~正安3年)の17年間。
北条貞時の時代に、得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ:北条氏の惣領である得宗に鎌倉幕府の権力が集中して行われた政治)が確立したと言われています。
しかし、得宗専制政治を進めていく中でいくつもの争いが勃発。北条貞時の執権期間は、激動の時代でもありました。
ここからは、北条貞時の執権政治や時代の流れについて、詳しく見ていきます。
北条貞時が平頼綱から実権を取り戻した争いが、「平禅門の乱」(へいぜんもんのらん)です。北条貞時は1293年(永仁元年)に発生した鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じ、平頼綱を討伐。そののち、北条貞時は父である北条時宗時代の政治体制へ回帰するため、得宗専制政治を推し進めました。
北条貞時は、「北条時頼」(ほうじょうときより)が1249年(建長元年)に設置した引付(ひきつけ:御家人の所領争いの裁判を迅速化させるために設けられた機関)を、1293年(永仁元年)に廃止。そのあと、引付の代わりとなる執奏(しっそう:訴訟判決に必要な資料や意見を取り次ぎ、北条貞時に奏上する職)を設置しました。
執奏に任命されたのは「北条時村」(ほうじょうときむら)、「北条公時」(ほうじょうきみとき)、「北条師時」(ほうじょうもろとき)、「北条顕時」(ほうじょうあきとき)、「北条宗宣」(ほうじょうむねのぶ)、「宇都宮景綱」(うつのみやかげつな)、「長井宗秀」(ながいむねひで)です。
ほぼ北条一族が独占していることからも、北条貞時の得宗専制政治への並々ならぬ熱意がうかがえます。しかし、数多くの訴訟を北条貞時ひとりでさばくことはできず、1295年(永仁3年)には引付が復活しました。
引付の復活に対し、多くの御家人が反発。そこで北条貞時は、元寇の影響で窮乏する御家人の保護や訴訟の迅速化を目的に、質入売買や金銭貸借に関する訴訟の停止を定めた「永仁の徳政令」(えいにんのとくせいれい)を1297年(永仁5年)に発布します。しかし、かえって御家人の不満が高まってしまったため、翌1298年(永仁6年)に撤回されました。
北条貞時は1301年(正安3年)9月、31歳のときに出家。次の執権には従兄弟で娘婿にあたる北条師時が就任。しかし、北条師時はまだ若かったため、実権は北条貞時が掌握していたと言われています。
「嘉元の乱」が起きたのは1305年(嘉元3年)のこと。嘉元の乱については様々な説がありますが、得宗家と北条氏諸家の権力闘争であったと言われています。この乱をきっかけに北条貞時は政治から遠ざかるようになり、得宗専制政治も徐々に崩壊。次第に北条貞時は酒に溺れるようになり、1311年(応長元年)10月26日に41歳で生涯を閉じました。