「北条政村」(ほうじょうまさむら)は、鎌倉幕府2代執権であった「北条義時」(ほうじょうよしとき)を父に持つ、鎌倉幕府7代執権。評定衆(ひょうじょうしゅう:幕府の最高政務機関となる役職)や連署(れんしょ:副執権)などの職を経て、1264年(文永元年)に執権となりました。北条政村が執権となった経緯や執権政治内容、その評価についてご紹介します。
「北条政村」(ほうじょうまさむら)は1205年(元久2年)に生まれ、鎌倉幕府7代執権を務めた鎌倉時代前期の武将。
父は2代執権の「北条義時」(ほうじょうよしとき)、母は継室だった「伊賀の方」(伊賀朝光[いがともみつ]の娘)です。
1224年(元仁元年)に北条義時が死去すると、伊賀の方は兄弟である「伊賀光宗」(いがみつむね)とともに鎌倉幕府4代将軍の「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)を廃して、娘婿の「一条実雅」(いちじょうさねまさ)を将軍に擁立。北条政村を次の執権にしようと画策したのです。しかし、藤原頼経の後見人である「北条政子」(ほうじょうまさこ)がその企てを阻止し、「北条泰時」(ほうじょうやすとき)を執権に任命。伊賀の方らは謀反人として処罰されました。これが「伊賀氏の変」です。
伊賀の方は伊豆の北条荘へと追放されましたが、3代執権である北条泰時の計らいもあり、北条政村は連座を免れてのちに評定衆(ひょうじょうしゅう:幕府の最高政務機関となる役職)へと出世。1256年(建長8年)3月に兄の「北条重時」(ほうじょうしげとき)が出家すると、北条政村は兄の代役として連署(れんしょ:副執権)に就任しました。
次の執権として就任する予定である「北条時宗」(ほうじょうときむね)がまだ幼かったことから、中継ぎとして6代執権を務めていた「北条長時」(ほうじょうながとき)が1264年(文永元年)に、病気を理由に出家。このとき、北条時宗はまだ14歳だったため、さらなる中継ぎとして北条政村が7代執権を務めることとなったのです。
このような経緯で暫定的に執権となった北条政村ですが、評定衆や連署といった重要職にも併せて就いていたため、鎌倉幕府では中枢人物のひとりとして幕府内の人事や重要事項の決定などに携わり、「宗尊親王」(むねたかしんのう:鎌倉幕府6代将軍であり初の皇族出身征夷大将軍)の京都更迭などの決定に関与します。
京都更迭とは、宗尊親王に謀反の疑いがかけられ、執権の北条政村らによって京都へ送還が決定された事件のこと。1266年(文永3年)に、宗尊親王の正室である「近衛宰子」(このえさいし)が密通事件を起こしたのを口実として、将軍を更迭したのです。
1268年(文永5年)1月、蒙古(もうこ:モンゴル)が襲来すると、難しい局面を乗り切るために権力の一元化を図り、北条政村は執権職を北条時宗に譲ります。北条政村は再び執権を補佐する役割を担い、連署を務めました。
1272年(文永9年)2月に起きた「二月騒動」においても、北条政村は北条時宗とともに主体となって行動。二月騒動とは、蒙古襲来の危機が迫っていた鎌倉と、京で発生した北条氏一門の内紛のことです。謀反を企てたとして「北条時章」(ほうじょうときあき)と「北条教時」(ほうじょうのりとき)、「北条時輔」(ほうじょうときすけ)などの反抗勢力を粛清しました。
若い頃、伊賀氏の変で謀反人と疑われた経験を持つ北条政村。そのためか、慎重で思慮深い性格に育ったと言います。また、高い教養を持ち合わせており、執権のサポートや後継者の育成などの任務に適していました。
また、北条政村は公武(武士と公家)の関係維持にも貢献。京都から幕府へ出仕していた「飛鳥井教定」(あすかいのりさだ)や「花山院長雅」(かざんいんながまさ)などの公卿と交流し、公武間に人脈を作ってきたのです。
実際に、明治時代の歴史学者「田口卯吉」(たぐちうきち)は、元寇の際に日蒙間の交渉は北条政村が主導権を握っていたと主張。
人脈や年齢などを考慮すると、北条時宗の功績ではなく北条政村が行ったと考えられたためです。
北条政村は鎌倉幕府の7代執権ではありますが、晩年の様子や墓などは明らかになっていません。関連史跡としては、神奈川県鎌倉市常盤に「北条氏常盤亭跡」(ほうじょうしときわていあと)があり、北条政村の邸宅とされ、鎌倉警護の要地だったと推測されています。
政治家というイメージの高い北条政村ですが、文化人としても優れていました。「新勅撰和歌集」(しんちょくせんわかしゅう)には40首も残しており、これは北条一門の中で最多。当時の代表的な武家歌人と評されています。