「北条経時」(ほうじょうつねとき)は「北条時氏」(ほうじょうときうじ)の長男で、鎌倉幕府3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)の孫にあたります。在職期間は1242~1246年(仁治3年~寛元4年)のわずか4年。初代執権の「北条時政」(ほうじょうときまさ)や2代執権の「北条義時」(ほうじょうよしとき)、3代執権で祖父でもある北条泰時に比べると、あまり詳細が知られていない人物です。そんな北条経時の一生をご紹介します。
「北条経時」(ほうじょうつねとき)の父は「北条時氏」(ほうじょうときうじ)、母親は賢母として知られている「松下禅尼」(まつしたぜんに)で、その長男として誕生しました。
1230年(寛喜2年)に父の北条時氏が若くして逝去したため、わずか7歳で父の跡を継ぎ、若狭守護職(わかさのくにしゅごしき:現在の福井県での軍事指揮官・行政官)に就任。
そののち、1234年(天福2年)に11歳で元服し、同年には小侍所別当(こざむらいどころべっとう:将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理して将軍及び、その御所の警備を統括する長)に任命されました。
1241年(仁治2年)、死期を悟った「北条泰時」(ほうじょうやすとき)より、評定衆(ひょうじょうしゅう:執権のもとで裁判、政務を合議する役職)に列せられます。北条泰時は北条経時へ、泰平を尊重するために文治に励み、何事も2代執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)の孫である「北条実時」(ほうじょうさねとき)と相談して協力せよと諭しました。また同時に、政務についても訓戒。有力御家人の前で後継者として指名しました。
翌1242年(仁治3年)に北条泰時が死去すると、北条経時はわずか19歳で執権に就任。カリスマ的存在であった北条泰時の死と、若年の北条経時が執権に就いたことで波乱が巻き起こります。北条氏が実権を握ることをよしとしない三浦氏をはじめとする御家人や、叔父の「北条光時」(ほうじょうみつとき)を筆頭とする傍流北条氏など2つの勢力が登場し、反執権勢力が誕生したのです。
19歳で執権となった北条経時は、1245年(寛元3年)前後から体調を崩してしまいます。5月には黄疸の症状が見られ、そのあと一時的に回復へと向かったものの、症状は悪化。7月には祈祷が行われました。
さらに不幸は続き、9月には正室である「宇都宮泰綱」(うつのみややすつな)の娘が、15歳の若さでこの世を去ってしまいます。そののち北条経時は病気が再発し、一時は意識を失うほど悪化。鎌倉は大騒ぎとなるのです。
体調不良が続いていた北条経時は、異母弟の「北条時頼」(ほうじょうときより)を名代(みょうだい:代理を務めること)としました。
翌1246年(寛元4年)、妹で鎌倉幕府5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらのよりつぐ)の正室でもある「檜皮姫」(ひわだひめ)が病に伏せてしまい、心労が重なった北条経時は再び体調を崩してしまいます。
3月には、北条経時の願いにより、執権職は異母弟の北条時頼に譲渡。北条経時は出家して仏門に入りますが、入門して10日後にはこの世を去ってしまいました。
北条経時の死後、5代執権の北条時頼ら北条氏得宗家(ほうじょうしとくそうけ:北条一族の嫡流家のこと)と、得宗家に不満を持つ傍流の北条家や御家人との間に再び争いが起こります。
北条経時の執権職への在位はわずか4年ほど。「承久の乱」(じょうきゅうのらん:後鳥羽上皇[ごとばじょうこう]が鎌倉幕府打倒のために起こした兵乱)を制した北条義時や、御成敗式目(ごせいばいしきもく:武家政権のための法令)を定めた祖父・北条泰時のように華やかではありませんでした。しかし、民衆の生活レベル向上を目指し内政に注力しており、決して凡庸な政治家ではなかったと言えます。
北条経時は同じ北条一族の重鎮である「北条重時」(ほうじょうしげとき)らに支えられ、1243年(寛元元年)には訴訟制度の改革を断行。裁判の迅速化と正確さを期するために評定衆を3つのグループに分け、裁決の下知状(げじじょう:裁判の判決など、下に決定を伝える文書)を作成する手続きを簡潔化したのです。
また、征夷大将軍「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)の側近に反執権派の北条光時や「三浦泰村」(みうらやすむら)などが仕えていたため、藤原頼経を将軍から解任し、1244年(寛元2年)には、藤原頼経の息子である藤原頼嗣を元服させて将軍の座に就かせました。
さらに、北条経時の妹である檜皮姫を藤原頼嗣に嫁がせたことで将軍の外戚となった北条経時は政治的影響力を持ち、将軍の後見役として反執権派を一時的に抑え込むことに成功。こうして見ると、短い在位ではありましたが、北条経時は戦略的な考えを持つ有能な政治家だったとされています。
北条経時は23歳でこの世を去り、4年という短い在位であることから執権職の中ではあまり実績が残っていません。しかし、北条経時の死後すぐに、反執権派が巻き返して「宝治合戦」(ほうじがっせん:北条氏が三浦氏を破った合戦)が勃発。泰平を尊重した北条経時が、このような争いを抑えていたとも言われています。