13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

牧の方
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「牧の方」(まきのかた)は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した人物。2022年(令和4年)放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、主人公「北条義時」の父である「北条時政」の後妻(うわなり)として登場することから注目を集めています。そして、牧の方は同時代に活躍した「北条政子」と並び、「鎌倉時代の悪女」として有名です。牧の方の生涯と、牧の方が関与したとされる2つの事件「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)と「牧氏事件」(牧氏の変)について、分かりやすくご紹介します。

北条時政の若き後妻

牧の方

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「牧の方」は、駿河国大岡牧(現在の静岡県沼津市)の下級貴族「牧宗親」(まきむねちか)の娘、または妹とされる人物です。

鎌倉時代初期に書かれた史論書「愚管抄」(ぐかんしょう)や、鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ)にその名が登場しますが、牧氏のもとから北条氏へ嫁いだため牧の方と呼ばれている以外、詳しい本名は不明となっています。牧の方と「北条時政」は20歳以上も年齢差がありました。

結婚した当時、牧の方は北条時政の娘北条政子とほとんど変わらない年齢だったと見られていますが、年齢差があっても牧の方と北条時政の仲は睦まじく、5人以上の子宝に恵まれます。

牧の方が引き起こした「後妻打ち」騒動

牧の方と北条政子は、年齢差がほとんどなかったとされていますが、牧の方は北条政子の継母にあたる存在となりました。そして、2人は年齢が近いため、たびたび交流があったと推測されており、その交流のひとつがある事件の引き金となります。1182年(寿永元年)11月のこと。

牧の方が北条政子に、鎌倉幕府初代将軍で北条政子の夫である「源頼朝」が、「亀の前」と呼ばれる女性を寵愛している、と言う話を伝えました。源頼朝が亀の前を寵愛していた時期は、じつは北条政子が妊娠・出産をしていた時期。

通説では、牧の方は騒動を大きくしようとして北条政子へ告げ口をしたと言われていますが、異説として「牧の方は、北条政子の身を心配したためにわざわざ伝えたのではないか」とする説も存在。いずれにしても、北条政子はこの話を聴いて激怒します。怒りのままに牧の方の父(または兄)である牧宗親に命じて、亀の前の家を破壊させました。

現代では考えられないことですが、一夫多妻が当然とされていた当時は、先妻(こなみ)が後妻の邸宅を襲わせる「後妻打ち」(うわなりうち)が風習として根付いていたのです。しかし、この出来事を聴いた源頼朝も黙ってはいません。

実行犯となった牧宗親の髻(もとどり:まげ)を人前で切り落とすと言う、武士にとっての最大の屈辱を与えました。激怒の連鎖はこれで留まることなく、この報告を聴いた北条時政は怒り、一族郎党をしたがえて、本拠地である伊豆へと引き揚げてしまうのです。

牧の方が関与した事件

①畠山重忠の乱

畠山重忠像(畠山重忠公史跡公園[埼玉県深谷市]内)

畠山重忠像(畠山重忠公史跡公園)

後妻打ちは、牧の方が発端となった騒動として有名ですが、牧の方はこれよりもさらに大きな事件を引き起こしていました。それが、「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)です。

畠山重忠の乱とは、鎌倉時代初期の1205年(元久2年)6月に起きた、鎌倉幕府内部の政争のこと。

鎌倉時代初期と言えば、初代将軍・源頼朝没後、執権に着任した北条氏が自らの権力を強めるために、幕府内部にいた有力御家人を次々と排除しようと策略を巡らせていた時期です。

畠山重忠の乱もまた、北条氏による策略のひとつとして知られていますが、じつはこの発端を作り出したのが牧の方とされています。「畠山重忠」は、武勇に優れた坂東武者(ばんどうむしゃ:関東生まれの武士)であったため、「坂東武士の鑑」と称された武将です。

鎌倉幕府が開かれる前から源頼朝に仕え、源氏と平家最後の戦いとされる「源平合戦」(治承・寿永の乱)をはじめ、数々の戦で功績を残していました。そんな畠山重忠が、なぜ牧の方に目を付けられたのでしょうか。ことの発端は、1204年(元久元年)11月にまで遡ります。

この日、牧の方の娘婿である「平賀朝雅」(ひらがともまさ)は、3代将軍「源実朝」の御台所(みだいどころ:将軍の妻)を京都から迎えるために、朝廷や公家との交渉役を務めていました。そして、このときに開かれた酒宴で、平賀朝雅は畠山重忠の息子「畠山重保」(はたけやましげやす)と揉め事を起こしてしまうのです。

騒動はこの場では収まりますが、翌年になってから急展開を見せることになります。平賀朝雅と畠山重保が口論となった翌年の1205年(元久2年)6月、酒宴の騒動を聞いた牧の方は激怒し、「畠山氏が謀反を企てている」と言う嘘の情報を北条時政へ報告。

北条義時

北条義時

このとき、北条時政は牧の方の報告を信じておらず、息子の「北条義時」や「北条時房」などにも相談をしたと言われています。

北条義時達ははじめ、厚い信頼を寄せていた畠山氏が謀反を企んでいるとは思っていなかったため反対していましたが、最終的に畠山重保の討伐に同意。

畠山重保を討ったあと、北条軍はさらに畠山重保の父・畠山重忠にも謀反の疑いをかけて軍勢を押し寄せました。

何千と押し寄せる北条軍に対して、畠山重忠はわずかな手勢でしたが、「ここで逃げては、謀反を認めることになる。最期のときまで背を向けず、武士として散ってみせよう」と言い、決して逃げることなく最後まで戦ったと言います。

②牧氏事件(牧氏の変)

牧氏事件(牧氏の変)は、畠山重忠の乱の直後、1205年(元久2年)7月に起こった政変です。牧の方はこの事件にも関与しており、結果的に夫・北条時政を失脚させる原因を作り出しました。1205年(元久2年)7月、牧の方は「3代将軍・源実朝を滅ぼし、娘婿の平賀朝雅を将軍に担ぎ上げる」という新たな計画を構想。

この計画に、夫・北条時政も賛成していましたが、一説によると北条時政はこの計画には後ろ向きで、張り切っていたのは牧の方だけだったと言われています。しかし、北条時政と牧の方は、御家人達から厚い信頼を寄せられていた畠山氏達を滅ぼした張本人です。

2人が企てた計画は、実行に移される前に北条政子や北条義時らによって阻止され、北条時政はそのまま失脚。2つの事件の原因を作り出した牧の方もまた、北条時政の出家に伴って伊豆国へ追放されていますが、のちに北条時政と離縁し、京都の藤原家へ再嫁した娘を頼って京都へ移住。以後、牧の方はそこで贅沢に暮らしたと言われています。

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