鎌倉幕府の執権 関連情報

執権と連署の違い
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執権と連署の違い 執権と連署の違い
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鎌倉幕府において、武家政権のトップが「将軍」です。将軍「源頼朝」の下には、将軍直属の家臣である「御家人」(ごけにん)がいて、将軍に忠誠義務を尽くす代わりに、所領安堵(しょりょうあんど:土地の権利などを承認・保証する行為)・新恩給与(しんおんきゅうよ:新しく所領・所職を与えること)などの保護を受けていました。御家人のなかで最も有力だったのが、源頼朝の妻「北条政子」の親族である北条氏一族です。やがて北条氏一族は、将軍を補佐するナンバー2として、「執権」(しっけん)や「連署」(れんしょ)など、鎌倉幕府の重職を世襲しました。武家政権や執権と連署の違いについて詳しくご紹介します。

武家政権とは

源頼朝時代の初期組織

源頼朝」は、鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で鎌倉幕府を開くと、我が国初となる武士による政権、武家政権を開始しました。

鎌倉幕府初期の組織図

鎌倉幕府初期の組織図

それは、「将軍」をトップとして、中央機関に、「侍所」(さむらいどころ:御家人[ごけにん]を統制し、軍事・警備を行う機関。初代長官は和田義盛[わだよしもり])、「政所」(まんどころ:一般政務や財務をつかさどる機関。当初の名称は公文所[くもんじょ]。初代別当は大江広元[おおえのひろもと])、「問注所」(もんちゅうじょ:裁判事務を担当する機関。初代執事は三善康信[みよしのやすのぶ])を設置した政権。

また地方には、「京都守護」(京都の御家人を統率する機関。初代は北条時政[ほうじょうときまさ])、「鎮西奉行」(ちんぜいぶぎょう:九州の御家人を統率する機関。初代は天野遠景[あまのとおかげ])、「奥州総奉行」(おうしゅうそうぶぎょう:奥州合戦の戦後処理のための臨時職。初代は葛西清重[かさいきよしげ])を設置して、各国にひとり「守護」(しゅご:治安の維持、警察権の行使にあたる機関)と「地頭」(じとう:年貢の徴収や現地の管理、治安の維持)を任命したのです。

源頼朝

源頼朝

なお、源頼朝は組織作りの天才と言われた人物。戦時において御家人は、源頼朝のために命をかけて戦い、源頼朝は活躍した有力御家人ひとりひとりを熟知して、地頭などの要職に適材適所、任命しました。

将軍と御家人は御恩と奉公という主従関係で結ばれ、全国に配備した守護・地頭を通じて、治安の維持が保たれたのです。

なお、源頼朝が考案した武家政権の組織は、「徳川家康」が江戸幕府の組織を構築する際にも手本にしたほど、優れていたと言われています。

執権とは

1199年(建久10年)源頼朝は、これからというときに落馬して死去。征夷大将軍に任命されてから、わずか7年後のことでした。

これにより、1202年(建仁2年)、「源頼家」(みなもとのよりいえ:源頼朝と北条政子の長男)が、20歳にして、鎌倉幕府2代将軍に就任。しかし、能力を否定され、実権は北条政子の実父・北条時政を含む「13人の合議制」へと移されたのです。悔しい源頼家は「比企能員」(ひきよしかず)と組んで、北条氏を排除しようとしましたが、失敗して殺害されました。

そこで、1203年(建仁3年)、3代将軍に「源実朝」(みなもとのさねとも:源頼朝と北条政子の次男)が、11歳にして就任します。北条時政は源実朝を補佐し、政所の別当ともなって幕府の実権を掌握。自らの地位を「執権」(しっけん)と称するようになったのです。

しかし、北条時政は、嫡男「北条義時」(ほうじょうよしとき)と対立して失脚。1205年(元久2年)に2代執権となった北条義時は、1213年(建暦3年/建保元年)、侍所の長官・和田義盛を滅ぼし、侍所も兼任するようになるのです。以降、強大化した執権の地位は、北条氏一族で世襲されることになりました。

そののち、1219年(建保7年/承久元年)に源実朝が「公卿」(くぎょう:源頼家の遺児)に暗殺される大事件が起きます。これを機会に「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は鎌倉幕府の討幕を試み、1221年(承久3年)に「承久の乱」(じょうきゅうのらん)を起こすのです。しかし、結果は鎌倉幕府が勝利。朝廷よりも鎌倉幕府、特に北条一族が強いということが明るみとなり、北条一族の地位は揺るぎないものとなるのです。

連署とは

3代執権・北条泰時の頃の組織図

3代執権・北条泰時の頃の組織図

1224年(貞応3年/元仁元年)、北条義時が62歳で急死したため、北条義時の嫡男「北条泰時」(ほうじょうやすとき)が3代執権に就任しました。

そこで、1226年(嘉禄2年)北条泰時は、4代将軍として源頼朝の遠縁に当たる摂関家出身の「藤原頼経」(ふじわらよりつね)を迎えることにしたのです。

しかし、4代将軍・藤原頼経は当時8歳と幼く、実権は3代執権・北条泰時が掌握しました。

「連署」(れんしょ)ができたのは、この時代。連署とは、将軍に実権がなく、執権がトップ権力の時代に誕生した執権を補佐する、執権に次ぐ役職のこと。連署という名前は、幕府が発布する公文書に執権とともに署判する重職を務めたことが由来となっています。その責任の重さから、副執権または両執権とも呼ばれたのです。なお、初代連署には北条泰時の叔父「北条時房」(ほうじょうときふさ)が選ばれ、そのあとも北条氏一族中の有力者が就任しました。

また、その次に有力な御家人や政務に優れた人は「評定衆」(ひょうじょうしゅう:14名から15名で構成)に選ばれ、合議制に基づいて政治が行われたのです。

したがって、執権と連署の違いとは、執権が将軍を補佐する役職で、連署は執権を補佐する役職ということ。このように、執権が幕府の実権を掌握した政治体制を「執権政治」と言い、執権政治は3代執権・北条泰時の時代に確立されたのです。

鎌倉幕府の連署一覧
代数 氏名 在職期間
初代 北条時房 1225年(嘉禄元年)~1240年(延応2年)
2代 北条重時
(ほうじょうしげとき)
1247年(宝治元年)~1256年(康元元年)
3代 北条政村
(ほうじょうまさむら)
1256年(康元元年)~1264年(文永元年)
4代 北条時宗
(ほうじょうときむね)
1264年(文永元年)~1268年(文永5年)
5代 北条政村(再任) 1268年(文永5年)~1273年(文永10年)
6代 北条義政
(ほうじょうよしまさ)
1273年(文永10年)~1277年(建治3年)
7代 北条業時
(ほうじょうなりとき)
1283年(弘安6年)~1287年(弘安10年)
8代 北条宣時
(ほうじょうのぶとき)
1287年(弘安10年)~1301年(正安3年)
9代 北条時村
(ほうじょうときむら)
1301年(正安3年)~1305年(嘉元3年)
10代 北条宗宣
(ほうじょうむねのぶ)
1305年(嘉元3年)~1311年(応長元年)
11代 北条煕時
(ほうじょうひろとき)
1311年(応長元年)~1312年(正和元年)
12代 北条貞顕
(ほうじょうさだあき)
1312年(正和元年)~1315年(正和4年)
13代 北条維貞
(ほうじょうこれさだ)
1326年(嘉暦元年)~1327年(嘉暦2年)
14代 北条茂時
(ほうじょうしげとき)
1330年(元徳2年)~1333年(元弘3年)

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