鎌倉幕府は、日本初となる、武士によって運営された武家政権です。鎌倉幕府の政治機構は、従来の天皇や公家を中心とする政治機構とは異なり、武士を中心とした固有の組織体制を持っていました。鎌倉幕府将軍を中心とする鎌倉幕府の組織図と、政治体制がどのようなものだったのか、鎌倉幕府の政治において重要な役目を果たした役職を共に見ていきましょう。
鎌倉幕府の組織体制がはじめて形作られるようになったのは、「源頼朝」が平家打倒の兵を挙げた1180年(治承4年)のこと。
源頼朝が父「源義朝」が治めていた地・鎌倉に入ると、関東を拠点としていた坂東武者達をまとめて、幕府の家臣となる「御家人」を組織。鎌倉幕府の事績を記す歴史書「吾妻鏡」によると、同年12月には幕府の組織体制の原型を作り上げていました。
そのあと、源頼朝が征夷大将軍となったことで地方の統治権を獲得しますが、当初は幕府のあった関東一帯のみが支配域で、西国を統治する朝廷の政権とは分離していたのです。
しかし、「承久の乱」が起こったことで幕府の支配域は全国に広がり、朝廷にも介入するようになりました。鎌倉幕府の組織体制において、中央と地方は、鎌倉に常駐する将軍によって統轄されていました。
鎌倉時代当初は、中央政権(鎌倉)に「侍所」(さむらいどころ)、「政所」(まんどころ)、「問注所」(もんちゅうじょ)を置き、地方の統轄のために「守護」と「地頭」を置いています。
そのあと、幕府の支配が全国に及ぶようになったことで「連署」(れんしょ)や「引付衆」(ひきつけしゅう)、「鎮西探題」(ちんぜいたんだい)などの役職が追加されたのです。
「将軍」とは、もともと「征夷大将軍」のことを示す言葉です。
本来の征夷大将軍は天皇の軍事代行としての役割を持つ役職でしたが、鎌倉幕府においては、武門の棟梁として鎌倉幕府を統轄するための役職とされました。
しかし、鎌倉幕府を開いた源頼朝が征夷大将軍に任命されたのは1192年(建久3年)のこと。
そのため、配下である御家人の棟梁として鎌倉幕府を統轄する主宰者のことを、もともとは「鎌倉殿」と呼んでいました。鎌倉時代初期における将軍、及び鎌倉殿の支配域は、あくまで東国が中心。しかし、1221年(承久3年)に起こった承久の乱以降、朝廷に代わり全国の政権を主導していくようになりました。
問注所は、鎌倉幕府において訴訟事務を担当する機関のこと。
もともとは公文所が訴訟も取り扱っていましたが、政所ができたときに訴訟事務の専門として分かれました。
動産物権や債権、幕府の恩賞である所領についてを取り沙汰する組織でしたが、1249年(建長元年)に「引付」(ひきつけ)が設置されると、所領に関する訴訟は引付に引き継がれています。
問注所の長官は「執事」(しつじ)と呼ばれ、初代執事には京の下級貴族である「三善康信」(みよしのやすのぶ)が任ぜられました。
連署とは、執権の補佐役で、幕府内では執権に次ぐ権力を持った役職です。幕府の公文書に執権と連名で署名をしたことから、連署という名が付けられています。
承久の乱後に中央に設置されており、3代執権・北条泰時の代に、叔父の「北条時房」(ほうじょうときふさ)が初代に就任。当初は連署という役職ではなく執権として扱われており、「両執権」や「両後見」などとも呼ばれていました。
「評定衆」(ひょうじょうしゅう)とは、鎌倉幕府における重要な政務や訴訟などを、執権や連署と共に合議して決定するために設置された組織で、行政・司法・立法のすべてを司った幕府の最高政務機関です。
1199年(建久10年)に発足された「13人の合議制」を原型とする組織で、1225年(嘉禄元年)に制度化されています。評定衆は北条氏一門の他にも有力御家人によって構成されており、将軍は合議には参加せず、評定衆の決定を閲覧するのみでした。
引付衆とは、訴訟の専門機関・引付に所属する幕府の職員で、1249年(建長元年)、評定衆の下に置かれた、御家人の領地訴訟裁判を担当する役職のことです。
裁判の公正を期し、効率よく審理にあたるために問注所から独立させた役職で、引付は頭人(とうにん:長官のこと)、引付衆、引付奉行で構成されています。
1266年(文永3年)に一度廃止となりましたが、その3年後、元(現在のモンゴル)からの国書が届いた直後に復活させられ、引付衆の定員は従来の3人から5人に拡張されました。
「守護」とは、国ごとに設置され、地方の軍事行政を統轄した役職で、源頼朝が1180年(治承4年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)と遠江国(現在の静岡県西部)に置いたことがはじまりとされています。
律令制において警察・軍事を担当した「追捕使」(ついぶし)を原型とした役職であるため、当初は「惣追捕使」(そうついぶし)と呼ばれており、兵糧の徴収や兵士の動員などを行っていました。
1185年(元暦2年)には「源義経」追討を目的に関東から西国一帯に至るまで国ごとに設置。主に、大番催促(おおばんさいそく:各国の御家人に対し、京都での警備を行うように催促する権限)と謀反人の逮捕、殺害人の逮捕という3つの役割「大犯三箇条」(だいぼんさんかじょう)を職務としていました。
地頭とは、荘園や公領ごとに設置されており、土地の管理と兵糧米の徴収を担当した役職です。鎌倉時代後期になると、年貢の徴収なども職務のうちに入りました。
鎌倉幕府の御家人に対する恩賞である所領の分配は、領地支配を保証する「本領安堵」と、新たに与える「新恩給与」で成り立っています。この2つはいずれも地頭への補任によってなされていました。
「京都守護」は、1185年(元暦2年)に京都に設置された役職です。京都における御家人の統率と、洛中の警備・裁判などの政務の他、幕府・朝廷間の連絡係を行っていました。初代京都守護は、初代執権である北条時政が任命されています。
「鎮西奉行」(ちんぜいぶぎょう)とは、1185年(元暦2年)、九州の御家人を統轄するために設置された役職のこと。当初は平家の残党や源義経に与していた武士達を追捕するために置かれたとされています。大宰府を拠点として九州全域の御家人の統率を職務としていましたが、九州においても守護や地頭が機能するようになったことで鎮西奉行の活動は縮小しました。
「鎮西探題」(ちんぜいたんだい)は、「元寇」(蒙古襲来)のあとに、鎮西奉行に代わって設置された役職です。
元からの侵略に備えて九州の軍備を強化する目的で創始されますが、鎮西奉行において行っていた九州の御家人の統率や行政、訴訟なども職務のひとつ。
六波羅探題と同様に、独自の評定衆や引付衆を持っていました。
「奥州総奉行」は、「奥州合戦」で奥州藤原氏を攻め落としたのちに、奥州の御家人を統轄する目的で設置された幕府の出先機関です。平泉を拠点とし、守護が配備されていなかった陸奥国(現在の東北地方北西部)においては、守護の役割と似た業務を担当していました。