「山城伝」(やましろでん)とは、平安時代後期以降に「山城国」(やましろのくに:現在の京都府)で輩出された刀工やその一派による日本刀の制作法です。794年(延暦13年)の「平安京」遷都(せんと:都を他の地に移すこと)によって政治の中心地となった山城国では天皇や宮中に向けた日本刀の制作が行なわれ、数々の名工や名門一派が輩出されました。
「三条派」(さんじょうは)は、京都の三条で平安時代に活躍した刀工一派で、「山城国」(やましろのくに)の刀工一派の中で最も古い流派として有名です。この一門の日本刀を注文した得意先は藤原時代の公卿達で、三条派は彼らから、宮門を守る衛士が用いるための儀礼的な太刀(たち)の注文を受けていました。
実戦に使用する目的ではなく、儀式用としての太刀を制作していたため、三条派の制作した日本刀は、いずれも細身で反りの深い、優美で気品あふれる姿をしているのが特徴です。京都は政治の中心地であったため度重なる戦禍を受け、三条派の刀もその影響を受けてきました。
公卿の子息だった宗近は、公務の余暇として日本刀の制作をしていたため、専門的な刀匠ではありませんでしたが、その腕前の確かさから三条小鍛冶宗近と称されるようになったのです。当時の帝・一条天皇の命により、宝刀「小狐丸」(こぎつねまる)を制作したことで知られており、いつしかそのエピソードが、「能」の演目で語り継がれるようになりました。そこから派生して「長唄」や「歌舞伎」の題材にもなっていったのです。
刃文は「直刃」(すぐは)仕立ての「焼幅」(やきはば)の狭い「小乱刃」(こみだれば)で、「金筋」(きんすじ)・「稲妻」(いなづま)・「二重刃」(にじゅうば)などの「働き」(はたらき:沸出来[にえでき]や匂出来[においでき]の中に時折現れる様々な動き)が見られるのが特徴です。この性質により実戦には向かず、実戦で使用すると刃こぼれしやすく、研げば刃文の焼刃が潰れてしまうため、美しさの分、繊細な作風となりました。
能「小鍛冶」は、一条天皇の命を受け、太刀の制作に取り掛かろうとした宗近は、帝に献上する日本刀を制作するのにふさわしい「相槌」(あいづち:刀を鍛える際に槌で鉄を叩く補助をする役割の者)がいないことを思い悩み、神頼みの思いで氏神である「稲荷明神」(いなりみょうじん)に向かいます。そこで美しい童子から啓示を受け、神話の剣である「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を打つよう促された宗近は、明神の使いの相槌を得て無事宝刀・小狐丸を完成させる、というストーリー。
この一条天皇が統治した時代は、年期が記されている刀は皆無であるため、実話かどうかの確証はありませんが、このエピソードで制作されたと言う小狐丸の美しさは高い評価を受けており、人々に親しまれ続けています。
「粟田口派」(あわたぐちは)と言えば、古くから日本刀の制作が行なわれていた山城国(やましろのくに:現在の京都府)で、「来派」(らいは)一門と並んで2大流派として名高い刀匠の一派です。鎌倉時代初期から中期、京都・東山(ひがしやま)の粟田口という土地で、地鉄(じがね)が全時代・全流派の中で最も澄んで美しいと絶賛され、名声を得ました。
また、地鉄の美しさは格別で、小さな円形の文様が見られる「小杢目」(こもくめ)鍛えと言う、最高級の鉄を使用した、ごく少数の刀工にしか見られない文様が見られるのが特徴です。小杢目鍛えが良く詰んでいる地鉄のことを「梨子地肌」(なしじはだ)と呼びます。刃文は、小沸本位(こにえほんい:細かな沸が主になる匂口)で焼幅の狭い直刃と、直刃仕立てに小乱の交じる物で、これらに地肌(じはだ)の奥から湧き出るような白金色のよく冴えた地沸が特徴です。
「源平合戦」(げんぺいがっせん)の終結のあと、政治の中心がまだ京都から鎌倉に移りきっていない時代において、日本刀を好んだ後鳥羽上皇は、「御番鍛冶」(ごばんかじ)と称して月代わりで刀工を抱え、院内で太刀を制作するように命じました。
この御番鍛冶に、鎌倉時代初期の代表的な流派であった京の粟田口派、備前の「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)、備中の「青江派」(あおえは)の3派が選ばれたのです。粟田口派からは国安・国友などが選ばれました。
鎌倉時代は日本史上初の武家政権が誕生した時代であり、日本刀にとっての黄金期であったため、美術的に優れた名刀が次々と作られ、その美しさは現代に至ってもコレクター達の垂涎の的となっているのです。
京から鎌倉山に移住し、「北条時頼」(ほうじょうときより)のため「天下五剣」のひとつである「鬼丸」を制作。「足利義輝」(あしかがよしてる)が特に国綱を愛好したため、献上された日本刀には国綱の偽名が切られたとされており、当時の人気が窺えます。生没年不詳。
「来一派」(らいいっぱ)と言えば、古くから日本刀の制作が行なわれていた山城国(やましろのくに:現在の京都府)で「粟田口派」(あわたぐちは)一門と並んで2大流派として名高い刀匠の一派です。鎌倉時代初期から中期に、京都・東山で名声を上げた粟田口派に代わり、鎌倉時代中期以降に京都の名刀一派として台頭しました。
刃文は、湾れ刃(のたれば)・直刃・小乱刃・丁子刃などが見られ、いずれにしても沸本位で、粗めの沸が付きます。また、小板目肌がよく詰み、細かな地沸が一面に付く「来肌」(らいはだ)という地鉄が見られ、「来映り」(らいうつり)と呼ばれる映りが地肌に見られるのが特徴です。
2字と3字の国俊の違いとして、2字銘は太刀がほとんどで、短刀は1振だけであるのに対し、3字銘には短刀も多く見られることも、別人説を裏付けています。しかし諸説あり、「別人説」、「同人説」、「兄弟説」、二字国俊を来国俊(3字の国俊)の父親とする「父子説」と、現在においても様々な議論が続いています。
国俊の活躍した時代は、蒙古襲来の「文永の役」をきっかけに、次の来襲に備えるため、鎌倉武士たちがより強靭な日本刀を必要としたため、身幅の広い、猪首切先の豪壮な姿の刀が好まれました。
「孫」の字を冠することから「来太郎」と名乗った国行の孫、二字国俊の子なのではないかという「父子説」や、国行の子で二字国俊の兄弟という「兄弟説」、二字国俊自身なのではないかという「同人説」など様々な憶測があり、現在も議論が続いています。生没年不詳。
1301年(正安3年)62歳から「来源国俊」と銘を切るようになり、1320年(元応2年)81歳から「源来国俊」と銘を切ったことから推察すると、かなりの長寿を保ったことが窺えます。また、1288~1324年(正応1年~正中1年)に至る銘があることから、その間2代に亘って来国俊が存在したという説もあり、疑惑の多い人物です。
来国俊の子とされていますが、出生には諸説あり、国行の子、来国俊の子、孫、弟など様々な説があります。来一門の正系を継いで、次世代を背負って活躍しました。同銘が2代続き、初代は元徳・建武頃、2代目は観応・康永頃とする説も。生没年不詳。
また作域が広く、乱れ刃主体で沸の強い物と、直刃主体で小沸出来の物があり、前者は相州伝の「正宗」(まさむね)の影響を受けた物。後者の京物らしい作はあまり多く見られません。
最大の特徴は、来系にはほとんど見られない二重刃や喰い違いが見られることと、地肌に潤いが少なく、小杢目肌が沈み、大肌が交じる点です。
「長谷部一派」(はせべいっぱ)は、「山城国」(やましろのくに:現在の京都府)で南北朝時代から室町時代にかけて活躍した刀工一派です。同国で鎌倉時代に栄華を極めた「来派」(らいは)や「粟田口派」(あわたぐちは)に代わり、「信国派」(のぶくには)とともに名声を上げました。開祖の「国重」(くにしげ)は、「正宗十哲」(まさむねじってつ:名工である正宗に学んだ門下生の中でも、とりわけ優れた技術を持ったとされる10人の名工)のひとりに数えられた名工で、織田信長の愛刀「へし切長谷部」(へしきりはせべ)を制作したことで有名です。
短刀の作風は、師である正宗が興した相州伝の作風の影響を強く受けており、長寸で先反りの、身幅が広く、重ねの薄い姿。刃文は皆焼の「乱刃」(みだれば)を焼きます。砂流し、金筋などの働きが見られ、沸が山城物の中で最も強いのが特徴です。
さらに、地鉄に「大板目肌」(おおいためはだ)と「大柾目肌」(おおまさめはだ)が交じるのが最大の特徴で、「素剣」(すけん)や「梵字」(ぼんじ)、樋などの刀身彫刻が見られます。先述した地鉄の肌合いは、国重の他には「新刀」(しんとう:1596年[慶長元年]以降に制作された日本刀)の刀工「野田繁慶」(のだはんけい)にしか見られない物です。
※「国重」は同名で複数代続いており、識別が困難なため「国重」銘の作刀全体で数えています。
大きくのたれ込み、返りは浅い。