第77代「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)は、わずか3年という短い在位のあと、30余年にわたる長い院政(天皇が譲位後に政治を行うこと)を敷いた天皇です。その治世は藤原氏との争い、平氏と源氏の戦乱という混沌の時代で、後白河天皇自身も幽閉されるなど、戦いにまみれた波乱の生涯を送っています。しかし、後白河天皇は戦乱の世に臆することなく、時代の流れを察知して源平両勢力の間を渡り歩き、強大な権力を築きました。藤原氏の衰退、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立という激動の時代を生きた後白河天皇についてご紹介します。
「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)は、1127年(大治2年)に第74代「鳥羽天皇」(とばてんのう)と「藤原璋子」(ふじわらのしょうし)の第4皇子として誕生しました。
母である藤原璋子は、権代納言「藤原公実」(ふじわらのきんざね)の娘で、幼少期に父を亡くしたことから、鳥羽天皇の祖父「白河天皇」(しらかわてんのう)のもとで養育された人物です。鳥羽天皇の中宮となってから、後白河天皇を含め5人もの皇子を出産しました。
後白河天皇の諱(いみな:生前の実名)は「雅仁」(まさひと)と言い、追号(ついごう:死後に生前の功績をたたえておくる称号)の「後白河」は、第72代・白河天皇の系統であることを意味しています。
後白河天皇だけでなく、歴代天皇の追号によく見られる「後〇〇」というのは、「加後号」(かごごう)と呼ばれるもの。これは、天皇が生前に暮らした御所の所在地が同一だった場合などに、地名の前に「後」を付けて区別するために用いられた方法です。まれに、天皇自身が生前に追号を決める場合もあり、後白河天皇や「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の場合は、白河天皇と「醍醐天皇」(だいごてんのう)の意志を継いでいるということを表すために、自身で定めたと言われています。
後白河天皇は第4皇子ということもあって、もともと皇位継承する立場にはありませんでした。しかし、父である鳥羽上皇が即位させようと図った「近衛天皇」(このえてんのう)が17歳で急死。すると先代の「崇徳天皇」(すとくてんのう)の皇子を即位させたくない鳥羽上皇は、雅仁親王(のちの後白河天皇)を擁立します。つまり、鳥羽上皇と関白「藤原忠通」(ふじわらのただみち)の画策によって、1155年(久寿2年)に後白河天皇は即位したのです。
後白河天皇の即位は、自身の第1皇子である「守仁親王」(もりひとしんのう)のちの「二条天皇」(にじょうてんのう)が即位するまでの中継ぎ的意味合いを持っていました。しかしこの皇位継承に対して、先代の崇徳上皇は自身が主導する院政(天皇が譲位後に政治を行うこと)を敷くことができないため強く反発します。
また、後白河天皇を擁立する関白の藤原忠通と手を組んだ「藤原信西」(ふじわらのしんぜい)の体制強化によって、藤原忠通の弟「藤原頼長」(ふじわらのよりなが)は朝廷での役職を追われてしまいます。
こうして、新体制に不満を抱く崇徳天皇と藤原頼長が結束し、後白河天皇方と崇徳上皇方の両勢力は、一触即発な展開となっていきました。
後白河天皇即位の翌年1156年(保元元年)、鳥羽法皇が崩御すると、ついに両者は火花を散らします。
崇徳上皇方が挙兵を試みていた矢先、後白河天皇方につく「平清盛」(たいらのきよもり)と「源義朝」(みなもとのよしとも)が上皇の陣地を夜襲し、上皇方は一夜にして敗者に。崇徳上皇は、この「保元の乱」(ほうげんのらん)によって、讃岐国(現在の香川県)へ配流(はいる:流罪にすること)となり、「藤原忠実」(ふじわらのただざね)は幽閉され、上皇方の武士は処刑という結果となりました。
保元の乱のあと、功績があった平清盛と源義朝は昇進し、後白河天皇は藤原信西を重用して新政権の基盤づくりに努めます。新たな制度の発令や荘園整理に着手していくなかで、後白河政権は強固な体制を築いていきました。そして、1158年(保元3年)に後白河天皇は、わずか3年の在位で第1皇子の二条天皇に譲位し、上皇として院政を開始しました。
崇徳天皇との政争が終わり、後白河上皇による院政が平穏に進むと思いきや、早くも院政内では対立の兆しが見え始めます。上皇の重臣である藤原信西は、上皇院政で頭角を現していた「藤原信頼」(ふじわらのぶより)に睨みを利かせ、両者は次第に敵対心を持つように。さらに、藤原氏が対立している裏では、後白河上皇の腹心である平清盛と源義朝の衝突も起こっていたのです。
上皇院政内の権力争いは過激化し、藤原信西と平清盛が組んで藤原信頼を圧迫したことをきっかけに、1159年(平治元年)に「平治の乱」(へいじのらん)へと発展しました。
藤原信頼は、平清盛の留守を狙って源義朝を挙兵させ、後白河上皇を幽閉し、藤原信西を殺害します。
クーデターに成功した藤原信頼は、二条天皇方も懐柔しようと計略を練ることに。そこへ、帰京した平清盛が二条天皇を囲い、源義朝軍追討として挙兵します。
平清盛軍は源義朝軍を討ち破り、源義朝は斬首され、三男「源頼朝」(みなもとのよりとも)が伊豆国(現在の静岡県伊豆半島、伊豆諸島)へ流されました。源義朝を処刑したことで平治の乱を収束させ、朝政の混乱を統制した平家は天皇家や摂関家をも凌駕するほどの実力を世に知らしめました。
1165年(永万元年)、二条天皇は譲位して第79代「六条天皇」(ろくじょうてんのう)が即位します。しかし、六条天皇の近臣が後白河上皇の対抗勢力となりかねない状況にあったため、院政は一時滞りを見せることに。
この動きを懸念した後白河上皇は、太政大臣となった平清盛とともに、1168年(仁安3年)に六条天皇を退位させ、第80代「高倉天皇」(たかくらてんのう)を即位させます。高倉天皇は後白河上皇の第7皇子で、母は平清盛の義妹であったため、後白河上皇は再び権力を確立したのです。またこの頃、後白河上皇は出家して法皇となりましたが、引き続き院政を敷いていきました。
平治の乱後、平家の目覚ましい台頭は周囲をざわつかせ、次第に平家一門と後白河法皇方の間でも軋轢が生じ始めます。後白河法皇は平家の力に対抗するため、寺社勢力との連携を強めていきました。
そして、1177年(治承元年)に法皇近臣の「藤原成親」(ふじわらのなりちか)、「西光」(さいこう)、「俊寛」(しゅんかん)が鹿ケ谷(ししがたに:現在の京都市左京区)の山荘に集って平家討伐の謀議を行います。「平家物語」でもよく知られる「鹿ケ谷の陰謀」(ししがたにのいんぼう)は、平清盛への内通で露呈し、後白河法皇は窮地に立たされ幽閉されてしまうことに。こうして、1179年(治承3年)に後白河法皇の院政は再び中断されました。
その間、平清盛は娘「平徳子」(たいらのとくこ)と高倉天皇との間に誕生した第1皇子を第81代「安徳天皇」(あんとくてんのう)として即位させ、天皇の外戚となることに成功したのです。
後白河法皇の幽閉によって、反平氏勢力はついに挙兵を決意します。安徳天皇即位で皇位継承を絶たれた後白河法皇の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)は、1180年(治承4年)に平氏討伐の令旨を出し、「源頼政」(みなもとのよりまさ)によって諸国源氏に挙兵が呼びかけられました。以仁王と源頼政が平家に敗れるも、伊豆で源頼朝、信濃で「源義仲」(みなもとのよしなか:木曽義仲)らが蜂起し、平清盛の死で勢いを失った平家軍と形勢逆転することに。
1183年(寿永2年)、「俱利伽羅峠の戦い」(くりからとうげのたたかい)で源義仲が平家軍を討ち破り、後白河法皇は幽閉先から脱出して院政を再開します。そして、平家は安徳天皇とともに西国へ敗走し、源義仲が入京を果たしました。
安徳天皇が三種の神器を携えて平家と逃れたため、朝廷では新たな天皇の践祚(せんそ:皇位につくこと)問題が勃発しましたが、後白河法皇は高倉天皇の第4皇子「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)を即位させました。これは、三種の神器を欠いた初めての皇位継承だったと言われています。
こうして新たな天皇とともに、後白河法皇は引き続き院政を行っていましたが、今度は権力を増大させた源義仲と対立を深めます。京都を制圧した源義仲は、源頼朝と連携を図る後白河法皇に対抗して院御所を焼き討ちし、後白河法皇と後鳥羽天皇を摂関邸に幽閉するという暴挙に出ることに。これに対して、源頼朝が異母弟の「源義経」(みなもとのよしつね)らを京都に招集し、源義仲を討ち落としました。
三たび院政を再開した後白河法皇は、さらに源義経に平氏追討を命じ、1185年(文治元年)に「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で平氏を滅亡させます。このとき、三種の神器である宝剣が安徳天皇とともに海へ沈み、二度と地上へ戻ることはありませんでした。
平氏が滅び、源頼朝による全国統一が果たされましたが、またもや政争が巻き起こります。今度は源頼朝と源義経に不和が生じ、後白河法皇は源義経から強要されて、源頼朝追討の宣旨を出してしまったのです。これにより、後白河法皇と源頼朝の対立関係が浮かび上がり、公武間の確執は激化します。
しかし、源義経は兵士の召集に失敗して京都から脱出。源頼朝は義父「北条時政」(ほうじょうときまさ)を入京させ、後白河法皇の行動を厳しく批判しました。そして、後白河法皇は源頼朝の守護・地頭の設置を容認し、これによって鎌倉幕府の成立となったのです。
そののち、源頼朝は源義経の追討とともに長年源義経を囲っていた奥州藤原氏も殲滅し、政権の安定と強化を図ります。1190年(建久元年)に、後白河法皇は源頼朝と初めて面会し、以後、両者は度々会談を重ね公武間の和平を取り戻していったのです。源頼朝による武家政権が確立していくなかで、1192年(建久3年)に後白河天皇は66歳で崩御し、法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ:京都市東山区)に葬られました。
このように、後白河法皇は、譲位後5代の天皇の治世にかかわるなかで、幽閉による院政停止などの危機を乗り越え、武家とともに変動する時代を生き抜いたのです。