歴史上の人物と日本刀

菅実秀と西郷隆盛 太刀 銘 宗忠
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菅実秀と西郷隆盛 太刀 銘 宗忠 菅実秀と西郷隆盛 太刀 銘 宗忠
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「太刀 銘 宗忠」(たち めい むねただ)は、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東南部)福岡一文字派(ふくおかいちもんじは)の刀工「宗忠」(むねただ)の作品。重要美術品に認定されている貴重な太刀(たち)です。この太刀を所有していたのは庄内藩(しょうないはん:現在の山形県)の「菅実秀」(すげさねひで)。菅実秀は、幕末・明治時代にかけて活躍した藩士・役人です。薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県)出身の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と親交が深く、太刀 銘 宗忠は西郷隆盛から譲り受けた物と伝わっています。

菅原道真の末裔

菅実秀

菅実秀

菅実秀」(すげさねひで)は、1830年(文政13年)2月1日、出羽国鶴岡(でわのくにつるおか:現在の山形県鶴岡市)で誕生。

父親は庄内藩(しょうないはん:現在の山形県)の藩士「菅実則」。「菅原道真」(すがわらのみちざね)の子孫にあたります。

幼少期から学問に秀でた菅実秀は、19歳で父の家禄(かろく:藩から家ごとに支給される給与)を継ぎ、庄内藩の役職に就きます。

西郷隆盛との出会い

1868年(慶応4年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう:旧幕府軍と新政府軍の間で起きた内乱)時、菅実秀は庄内藩の軍事係に任ぜられていました。

庄内藩は、徳川四天王のひとりである「酒井忠次」(さかいただつぐ)を始祖とし、徳川家と関係の深い藩です。戊辰戦争では、庄内藩は佐幕派(幕府を補佐)として、薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県)・長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県)を主とする新政府軍と戦います。

結果、庄内藩が降伏しますが、庄内藩に対する戦後の処遇は、石高を170,000石から120,000石へ減封することと、庄内藩主「酒井忠篤」(さかいただすみ)の1年謹慎処分という非常に寛大なものでした。これは「西郷隆盛」(さいごうたかもり)が庄内兵に敬意を表して、新政府軍参謀「黒田清隆」(くろだきよたか)に指示していたのです。

このことを知った菅実秀は、西郷隆盛を訪ね教えを受けるようになります。

西南戦争後

1877年(明治10年)、西郷隆盛が新政府軍に対して挙兵し、西南戦争(せいなんせんそう)が起こります。旧庄内藩士達の中には西郷隆盛の人柄を慕う者が多く、参戦を唱える者もいましたが、新政府の監視下、菅実秀は「参戦することが必ずしも西郷隆盛の本意ではない」と強硬派を説得したと伝わります。その年の9月、西郷隆盛が鹿児島の城山で自害し、西南戦争は終結しました。

「逆賊」となった西郷隆盛ですが、その人柄は多くの人々に愛され、「明治天皇」や黒田清隆の計らいで、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発令とともに大赦され、「正三位」(しょうさんみ)の位階(いかい)を与えられました。

南洲神社「徳の交わり座像」

南洲神社「徳の交わり座像」

その翌年1890年(明治23年)、西郷隆盛を慕い続ける菅実秀によって、「南州翁」(なんしゅうおう)こと西郷隆盛の教えを編纂した「南洲翁遺訓」(なんしゅうおういくん)が発行され、その人徳を世に広めました。

山形県酒田市には、西郷隆盛と菅実秀の2人を祀る「南洲神社」(なんしゅうじんじゃ)があり、境内には「徳の交わり」を誓い合う2人の像が、静かに佇んでいます。

藤沢周平著「風の果て」のモデル

山形県鶴岡市出身の時代小説家藤沢周平」(ふじさわしゅうへい)著「風の果て」の主人公は、菅実秀がモデルと言われます。

また、山形県鶴岡市郊外の松ケ岡には、現在国指定史跡となっている養蚕開墾場「松ケ岡開墾場」(まつがおかかいこんじょう)があり、小説の舞台と考えられています。松ケ岡開墾場は、戊辰戦争で負けた庄内藩の立て直しのため、菅実秀が事業を興した場所。ここでの養蚕製紙事業計画を菅実秀は西郷隆盛に相談し、激励を受けました。

西郷隆盛は松ケ岡開墾場の旧藩士の苦労をねぎらい、「気節凌霜天地知」(きせつりょうそうてんちしる)という言葉を贈っています。「逆境にあっても、それを凌ぐほどの強い意志があれば、天地の神は見ており、必ず報われる」という意味です。

菅実秀の愛刀「太刀 銘 宗忠」

太刀 銘 宗忠」(たち めい むねただ)は菅実秀の愛刀。西郷隆盛から譲り受けたと伝わっています。

太刀(たち)は、鎌倉時代前期に活躍した「宗忠」(むねただ)の作品。宗忠は備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東南部)福岡の地で栄えた福岡一文字派(ふくおかいちもんじは)の刀工です。「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)の御番鍛冶7月番を務めた「宗吉」(むねよし)の系統と考えられています。

重要美術品に認定されている本太刀は、中鋒/中切先(ちゅうきっさき)の姿(すがた)、地鉄(じがね)は小板目肌(こいためはだ)で、刃文(はもん)は小丁子乱れ(こちょうじみだれ)、帽子(ぼうし)は小丸に返り、古備前風(こびぜんふう)な1振です。

太刀 銘 宗忠
太刀 銘 宗忠
宗忠
鑑定区分
重要美術品
刃長
71.2
所蔵・伝来
西郷隆盛 →
菅実秀 →
刀剣ワールド財団
〔東建コーポレーション〕

菅実秀と西郷隆盛 太刀 ...
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名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
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今村長賀伝来の打刀 刀 銘 兼延

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