「太刀 銘 宗忠」(たち めい むねただ)は、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東南部)福岡一文字派(ふくおかいちもんじは)の刀工「宗忠」(むねただ)の作品。重要美術品に認定されている貴重な太刀(たち)です。この太刀を所有していたのは庄内藩(しょうないはん:現在の山形県)の「菅実秀」(すげさねひで)。菅実秀は、幕末・明治時代にかけて活躍した藩士・役人です。薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県)出身の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と親交が深く、太刀 銘 宗忠は西郷隆盛から譲り受けた物と伝わっています。
1868年(慶応4年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう:旧幕府軍と新政府軍の間で起きた内乱)時、菅実秀は庄内藩の軍事係に任ぜられていました。
庄内藩は、徳川四天王のひとりである「酒井忠次」(さかいただつぐ)を始祖とし、徳川家と関係の深い藩です。戊辰戦争では、庄内藩は佐幕派(幕府を補佐)として、薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県)・長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県)を主とする新政府軍と戦います。
結果、庄内藩が降伏しますが、庄内藩に対する戦後の処遇は、石高を170,000石から120,000石へ減封することと、庄内藩主「酒井忠篤」(さかいただすみ)の1年謹慎処分という非常に寛大なものでした。これは「西郷隆盛」(さいごうたかもり)が庄内兵に敬意を表して、新政府軍参謀「黒田清隆」(くろだきよたか)に指示していたのです。
このことを知った菅実秀は、西郷隆盛を訪ね教えを受けるようになります。
山形県鶴岡市出身の時代小説家「藤沢周平」(ふじさわしゅうへい)著「風の果て」の主人公は、菅実秀がモデルと言われます。
また、山形県鶴岡市郊外の松ケ岡には、現在国指定史跡となっている養蚕開墾場「松ケ岡開墾場」(まつがおかかいこんじょう)があり、小説の舞台と考えられています。松ケ岡開墾場は、戊辰戦争で負けた庄内藩の立て直しのため、菅実秀が事業を興した場所。ここでの養蚕製紙事業計画を菅実秀は西郷隆盛に相談し、激励を受けました。
西郷隆盛は松ケ岡開墾場の旧藩士の苦労をねぎらい、「気節凌霜天地知」(きせつりょうそうてんちしる)という言葉を贈っています。「逆境にあっても、それを凌ぐほどの強い意志があれば、天地の神は見ており、必ず報われる」という意味です。
「太刀 銘 宗忠」(たち めい むねただ)は菅実秀の愛刀。西郷隆盛から譲り受けたと伝わっています。
本太刀(たち)は、鎌倉時代前期に活躍した「宗忠」(むねただ)の作品。宗忠は備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東南部)福岡の地で栄えた福岡一文字派(ふくおかいちもんじは)の刀工です。「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)の御番鍛冶で7月番を務めた「宗吉」(むねよし)の系統と考えられています。
重要美術品に認定されている本太刀は、中鋒/中切先(ちゅうきっさき)の姿(すがた)、地鉄(じがね)は小板目肌(こいためはだ)で、刃文(はもん)は小丁子乱れ(こちょうじみだれ)、帽子(ぼうし)は小丸に返り、古備前風(こびぜんふう)な1振です。