多くの豪傑と呼ばれる武将達が、名誉や領土獲得のために、命をかけて合戦に挑んでいた戦国時代。この時代には、歴史に残る合戦が、幾度となく行われていました。数ある歴史に名高い合戦の中でも、「関ケ原の合戦」、「川中島の戦い」と並び、日本三大合戦のひとつとして知られているのが、「筑後川の戦い」。九州最大の合戦と呼ばれた筑後川の戦いについて、その背景や勝敗の行方を含めてご紹介します。
ここでは、筑後川の戦いが勃発した背景について、この合戦に関係する人物を含めて、見ていきましょう。
筑後川の戦いは、南北朝時代の1359年(延文4年)、菊池家15代当主「菊池武光」(きくちたけみつ)を筆頭とする南朝軍と、「少弐頼尚」(しょうによりひさ/しょうによりなお)を中心とする北朝軍、両軍合わせておよそ100,000人という大軍が、筑後川を挟んで戦いました。
南北朝時代は、1336年(建武3年)から、およそ60年続いた、朝廷が2つあった時代。1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅亡すると、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)による新しい政治「建武の新政」(けんむのしんせい)が始まりますが、武家階級による強い反発を受けたことにより崩壊します。
武家階級の羨望を集めていた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が、「持明院統」(じみょういんとう:鎌倉時代から続く皇統のひとつ)の「光明天皇」(こうみょうてんのう)を北朝の天皇に立て、京都で武家政府(室町幕府)を再建。後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県)に逃れます。これにより、吉野の南朝、京都の北朝という2つの朝廷が誕生し、対立を深めていくのです。
筑後川の戦いに関係する人物として名前が挙がるのが懐良親王。懐良親王は、後醍醐天皇の皇子のひとりです。
推し進めていた建武の新政が崩壊し、吉野で復権を目指していた後醍醐天皇は、諸国に自分の皇子を派遣して、勢力拡大を画策。
このとき、後醍醐天皇から「征西将軍」(せいせいしょうぐん)の称号を与えられ、九州に派遣されたのが、懐良親王です。
当時まだ8歳と幼かったのですが、南朝軍総帥として、九州豪族の勧誘を開始。1348年(貞和4年/正平3年)、懐良親王は、肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)の「菊池武光」や「阿蘇惟時」(あそこれとき)ら、九州の名高い武将達を味方に付け、「隈府城」(わいふじょう:熊本県菊池市。[菊池城]とも呼ばれる)に入ると征西府を開き、九州攻略に努めました。
この頃、北朝の室町幕府は、筑前国(ちくぜんのくに:福岡県西部)に「大宰府」(だざいふ:地方における行政機関)を置き、「一色範氏」(いっしきのりうじ)、「仁木義長」(にきよしなが)といった武将を派遣し、征西府と九州の覇権を争っていました。
足利尊氏は、室町幕府初代征夷大将軍で、足利将軍家の祖にあたる人物。1338年(延元3年/暦応元年)、足利尊氏は、光明天皇より征夷大将軍に任じられ、室町幕府が誕生します。
翌年の1339年(暦応2年)には、後醍醐天皇が吉野にて亡くなりました。この頃、北朝と南朝との争いは、北朝が優勢であり、多くの戦果を挙げていたのです。北朝・足利政権においては、軍事権を足利尊氏が握り、政治権は、足利尊氏の弟・「足利直義」(あしかがただよし)が握るという、両頭政治。
やがて、足利尊氏と足利直義の兄弟間の対立が表面化し、1350年(観応元年)、「観応の擾乱」という内乱にまで発展しました。観応の擾乱が勃発した頃の1351年(観応2年)、足利直義の養子である「足利直冬」(あしかがただふゆ)が、九州へと逃れてきます。
このとき、足利直冬を筑前国の武将・少弐頼尚が支援をしたことにより、九州の地は、室町幕府、征西府、足利直冬の3つの勢力がけん制し合う混沌とした状態に。
しかし、観応の擾乱は、足利尊氏が勝利して終幕。足利直義は、討死します。このことが影響し、九州で猛威を振るっていた足利直冬の勢力は一気に衰退。足利直冬は長門国(ながとのくに:現在の山口県)へと去ったのです。
観応の擾乱で、長門国へと去った足利直冬を最後まで支援したのが、少弐頼尚です。少弐頼尚は、九州で力を持っていた少弐氏6代当主。1336年(建武3年)に南朝と北朝が、摂津国湊川(せっつのくにみなとがわ:現在の兵庫県神戸市)で戦った「湊川の戦い」など、数々の合戦で功績を残した少弐頼尚は、その恩賞として、九州諸国の守護職に就任。
観応の擾乱が終息し、足利直冬が長門国へ去ると、九州探題(きゅうしゅうたんだい:室町幕府の九州軍事機関)の任に就いていた一色範氏が、以前から対立していた少弐頼尚に攻め込みます。この頃、少弐頼尚は、一色範氏が九州探題の任に就き、九州における支配力を強めることに不満を持っており、反抗の姿勢を見せていたのです。
一色範氏の襲撃により、追い込まれた少弐頼尚は、敵対する南朝で実権を握る「菊池武光」に助けを求め、同盟関係になります。このとき、少弐頼尚は、「今後一切、菊池氏の者達に武力を向けない」ことを誓う書状を送ったとも。そして、少弐頼尚は、菊池武光と共闘して、一色範氏勢力に勝利し、一色範氏は九州から敗走。
これにより、事実上九州における足利勢力のほとんどが一掃されました。ところが、少弐頼尚は、すぐさま北朝(室町幕府)に転じます。少弐頼尚は、九州探題による九州支配を排除したかっただけで、南朝・征西府に下る気は全くなかったのです。このことがきっかけとなり、少弐頼尚と菊池武光は、敵対関係となり、筑後川の戦いで対決することになるのです。
1359年(延文4年/正平14年)、筑後川の戦いが開戦。懐良親王と菊池武光を中心とした南朝軍40,000は、筑後川南側の湖畔に出陣。
一方、少弐頼尚を中心とする北朝軍60,000は本陣を大保原に敷きます。こうして、両軍合わせて100,000の大軍が、九州最大の河川である筑後川を挟んで対峙。このとき、菊池武光は、数で劣ることを見越し、一部の軍を、北朝軍の死角になる場所へ迂回させていたのです。
また、菊池武光は、一色範氏討伐の際に、少弐頼尚から送られた書状を軍旗に貼り付け、あっさりと寝返った少弐頼尚を、「情けない男だ」と罵ったと言う逸話も。
先に仕掛けたのは、南朝軍。菊池武光は、死角に潜めていた軍に指示を出し、3方向から北朝軍の本陣へ向けて夜襲をかけます。不意を衝かれた北朝軍も立て直しを図り対抗。
南朝軍の夜襲から間もなく、両軍入り乱れた乱戦へと発展。筑後川の戦いは、一日中続いたとされ、その死者はおよそ5,400人にも達する、激しい合戦となりました。懐良親王と菊池武光も、この合戦の中で負傷したと言われています。
南朝軍の夜襲から始まり、一日中続いた筑後川の戦いは、菊池武光をリーダーとする南朝軍の勝利で幕を閉じました。戦いに敗れた少弐頼尚ら北朝軍は、大宰府へ撤退。
このあと、九州の地は、1371年(建徳2年/応安4年)に、九州平定の目的で、「今川貞世」(いまがわさだよ)が、室町幕府より派遣されるまでのおよそ12年間、南朝の支配下に置かれたのでした。