天皇一覧

白河天皇
/ホームメイト

白河天皇 白河天皇
文字サイズ

日本の歴代天皇の中で、初めて長期にわたる院政を確立させたのが、第72代「白河天皇」(しらかわてんのう)です。院政とは、譲位して上皇となったあと天皇に代わって執政する形態のことで、白河天皇は自身の子と孫を天皇に即位させ、3代にわたって院政を行いました。白河天皇が実権を握ったことで、藤原氏による摂関政治は衰退し、それまで象徴的な存在となっていた天皇が権威を持つ時代が訪れたのです。さらに院政の繁栄は、のちの武家政権の誕生にも関係していました。上皇、法皇として政治を支配し続けた白河天皇についてご紹介します。

治天の君として君臨し続ける

白河天皇の生い立ち

白河天皇

白河天皇

「白河天皇」(しらかわてんのう)は、1053年(天喜元年)に「尊仁親王」(たかひとしんのう)のちの「後三条天皇」(ごさんじょうてんのう)の第1皇子として誕生しました。

白河天皇の諱(いみな:生前の実名)は「貞仁」(さだひと)と言い、追号の「白河」(しらかわ)は、譲位後の院御所(いんのごしょ)の所在地に由来し、生前に自身で決めたものだと言われています。

また、白河天皇が造営した里内裏(さとだいり:平安宮内裏以外の仮の御所)のひとつ「六条院」にちなみ、「六条帝」(ろくじょうのみかど)とも称されました。

白河天皇の母は、公卿「藤原公成」(ふじわらのきんなり)の娘「藤原茂子」(ふじわらのもし/しげこ)で、藤原公成の妹に子がいなかったことから、叔母夫婦の養女となった過去があります。そのため、白河天皇も幼少期は母の藤原茂子の養父である「藤原能信」(ふじわらのよしのぶ)のもとで育てられました。1062年(康平5年)に母の藤原茂子と死別し、1065年(康平8年)には外祖父の藤原能信も亡くなったため、白河天皇は寂しい幼少期を過ごしたことが窺えます。

父である後三条天皇の即位に伴い、1069年(延久元年)に17歳で皇太子となり、1071年(延久3年)に女御(にょうご)として入内した「藤原賢子」(ふじわらのけんし)を迎え入れます。翌年の1072年(延久4年)に父・後三条天皇より譲位され、20歳で即位して天皇となりました。

白河天皇の家系図

白河天皇の家系図

白河天皇が幼い堀河天皇に譲位した理由とは?

白河天皇の即位後すぐに、第1皇子「敦文親王」(あつふみしんのう)が誕生しますが、3歳で夭逝(ようせい:若くしてこの世を去ること)してしまいます。天台宗の僧侶「慈円」(じえん)が記した史論書「愚管抄」(ぐかんしょう)によると、敦文親王の死は、白河天皇に裏切られた僧侶の怨霊によるものと言われていました。しかし、この記述は史実と異なる部分が多いことから、近年では慈円による創作とする説が有力視されています。

そののち、白河天皇が寵愛していた藤原賢子は、無事に3人の子を授かり、1079年(承暦3年)に第2皇子「善仁親王」(たるひとしんのう)を出産しました。1086年(応徳3年)、白河天皇は善仁親王を立太子させ、これと同時に譲位して、わずか8歳の善仁親王を「堀河天皇」(ほりかわてんのう)として即位させます。

当時、白河天皇はまだ35歳という年齢だったにもかかわらず、なぜ善仁親王の成長を待たずに譲位させたのでしょうか。この背景には、父である後三条天皇の遺命が関係しています。

後三条天皇

後三条天皇

生前の後三条天皇は、もともと白河天皇の異母弟「実仁親王」(さねひとしんのう)と「輔仁親王」(すけひとしんのう)に皇位を継がせたい思いがありました。しかし、摂関家の権威抑圧を意識して、藤原北家を外戚としない白河天皇に皇位を継がせたのです。

そのため、後三条天皇は自身の思いを白河天皇に託し、実仁親王か輔仁親王への譲位を促す遺命を出していました。

ところが実仁親王が急逝すると、白河天皇は輔仁親王に皇位継承させず、父の遺志に背いて実子の堀河天皇に譲位したのです。白河天皇も父の後三条天皇と同様に、寵愛した藤原賢子との間に生まれた我が子へ皇位を継がせたいという強い思いがあったのでしょう。このような理由から、白河天皇は堀河天皇への譲位を早めたと考えられます。

法皇として本格的に院政を敷く

白河上皇と言えば院政のイメージが強いですが、実は譲位直後の白河上皇には、院政で政権を握りたいという気持ちはありませんでした。上皇となった当初は、山登りへ出掛けたり、社寺参詣に励んだりなど、朝政から離れた暮らしを送っていたのです。

しかし、幼い堀河天皇は上皇の後見がなくては執政できず、輔仁親王を支持していた勢力への牽制も必要とされていました。そして、摂関家から冷遇されていた貴族層からの支持もあって、白河上皇の政権が成立していったのです。ここに、白河上皇による院政が開始され、白河天皇時代から摂関に就く「藤原師実」(ふじわらのもろざね)とともに、堀河天皇の後見にあたりました。

1096年(永長元年)、白河上皇は出家して法皇となったあとも院政を続けます。成人した堀河天皇が上皇から独立した親政を目指していたところ、藤原師実を継いで関白となった「藤原師通」(ふじわらのもろみち)が急逝。また、堀河天皇も29歳という若さで崩御してしまいます。そして、1107年(嘉承2年)に堀河天皇の第1皇子「鳥羽天皇」(とばてんのう)が5歳という幼さで即位すると、白河法皇による院政は本格化し、白河法皇を中心とする政治体制が確立していきました。

さらに、1119年(元永2年)に鳥羽天皇の第1皇子「顕仁親王」(あきひとしんのう)が誕生すると、白河法皇はこの皇子への譲位を画策します。この頃、関白「藤原忠実」(ふじわらのただざね)の娘が入内しようとしていることが原因でトラブルが発生。これに激怒した白河法皇は、藤原忠実を関白の職から降ろし、摂関家の権威低下を世に知らしめました。この「保安元年の政変」を機に、摂関政治の衰退は決定的なものとなり、白河法皇は国政を支配する「治天の君」(ちてんのきみ:政務を執る君主)として君臨したのです。

そして1123年(保安4年)に、5歳の顕仁親王を第75代「崇徳天皇」(すとくてんのう)として即位させます。またしても幼帝が誕生したことで、白河法皇の院政はますます本格的になり、堀河、鳥羽、崇徳と3代にわたって続く強力な政権を築き上げました。

人事権の掌握と寺院の建立

白河法皇独自の院御所運営

白河法皇は、近臣団に個人的関係のある受領層(ずりょうそう:下級貴族が任じられていた職)や、武家出身の臣下を配置させ、摂関家からの干渉を避けていました。また、白河法皇は朝政を支配するなかで人事権も掌握していたため、位階の授与や任官に対しても介入していたと言われています。

このような白河法皇の政権運営は極めて私的なもので、貴族や武家が近臣になるために賄賂を贈るといった行為が多発しました。白河法皇は、この世のすべてを意のままにできるほどの権力や財力を蓄えていったのです。

しかし、そんな白河法皇にも支配できないものがありました。白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽の目、比叡山の山法師は自分の思い通りにならない」と言う言葉を残しています。これは、水害、確率、「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:現在の滋賀県大津市)だけは、偉くなった自分でも思い通りにできないと嘆いた言葉であり、この言葉から白河法皇が延暦寺の権威に悩んでいたことが窺えます。

実際に、当時の延暦寺や「興福寺」(こうふくじ:現在の奈良県奈良市)は、神威を盾に僧兵が押しかける「強訴」(ごうそ)を度々行っており、朝廷側は頭を抱えていたのです。

このような寺院勢力に対抗するため、白河法皇は院御所に「北面の武士」(ほくめんのぶし)という警備隊を配置し、武家が持つ武力を持って強訴を防ぎました。このような白河法皇による武家の重用が、平家の地位を少しずつ向上させ、のちに「平清盛」(たいらのきよもり)が武家政権を確立する歴史へとつながっていくのです。

白河法皇が建立した寺院

法勝寺(復元イメージ)

法勝寺(復元イメージ)

僧兵に悩まされる一方で仏教を篤く信仰していた白河法皇は、院政期間に多くの寺院を建立しています。

なかでも、白河の地に建てられた「法勝寺」(ほっしょうじ)は、白河法皇を代表する寺院で、天皇時代の1076年(承保3年)に創建。

広大な境内には、「七堂伽藍」(しちどうがらん:寺院における主要な7つの堂宇)が備えられ、立派な金堂には約10mの「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ:大仏)が安置されていたと言われています。さらに、1083年(永保3年)には、境内にある池の中島に「八角九重塔」を完成させ、高くそびえ立つ塔はまさに白河院政の権威の象徴とされました。

白河法皇は法勝寺の他に、「尊勝寺」(そんしょうじ)、「最勝寺」(さいしょうじ)、「円勝寺」(えんしょうじ)などを天皇とともに建立し、院政期の中心地として栄えさせました。これらの寺院は受領層の経済力を利用して建てられていたため、建立費用の負担者が出世するという売官制度の仕組みが常態化し、それに伴って白河法皇は、ますます財を築いていったのです。

ちなみにこれらの寺院には、すべて「勝」という字が法号に入っており、白河法皇崩御後の「成勝寺」(じょうしょうじ:現在は京都から移転し東京都世田谷区)、「延勝寺」(えんしょうじ)と合わせて「六勝寺」(ろくしょうじ/りくしょうじ)と総称されています。六勝寺はすべて「応仁の乱」以降の戦乱で焼失してしまいましたが、崇徳天皇が建立した成勝寺だけが戦乱後に再興され、江戸へ移転して唯一現存しています。

仏教に帰依した白河法皇の「殺生禁断令」

晩年の白河法皇は浄土信仰に傾倒し、殺生を厳しく禁じるようになりました。崩御前には、すべての生き物の殺生を固く禁じる「殺生禁断令」を発し、漁猟さえ禁止にさせたと言われています。白河法皇はこの勅令を終生解かず、違反した者には処罰を与えました。

鎌倉時代初期に成立した「古事談」(こじだん)には、白河法皇が晩年寵愛していた「祇園女御」(ぎおんにょうご)との食事に、お付きの者が鮮鳥を出して殺傷禁断令を破った話が記載されています。古事談によると、平清盛の父「平忠盛」(たいらのただもり)に鮮鳥を出せと命じられた家臣が、平忠盛から処罰されることを恐れて違反した行為だと語られています。

このように、仏教に帰依して特異な勅令を出した白河法皇は、1129年(大治4年)に77歳で崩御し、「成菩提院陵」(じょうぼだいいんのみささぎ:京都市伏見区)に葬られました。

白河天皇をSNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「天皇一覧」の記事を読む


桓武天皇

桓武天皇
第50代「桓武天皇」(かんむてんのう)と言えば、「鳴くよウグイス平安京」という語呂合わせで有名な「平安京」を造都した天皇です。桓武天皇は、第45代「聖武天皇」(しょうむてんのう)以降、仏教政策が中心となっていた奈良の都から、京都を開拓して新たな都を造営しました。それまで続いてきた奈良時代を終わらせ、天皇による政治を取り戻そうと新たな時代を切り拓いた人物として伝えられています。平安時代の礎を築いた桓武天皇ですが、その生涯は決して順風満帆なものではなく、怨霊や陰謀に悩まされた人生を送っていました。呪いを恐れながらも、平安京造営と蝦夷(えぞ)平定という2大事業を導いた桓武天皇についてご紹介します。

桓武天皇

後鳥羽天皇

後鳥羽天皇
天皇や貴族による朝廷政治が終わり、武家勢力が政権を握るようになる平安時代から鎌倉時代前期に在位した「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)。覇権をめぐり内乱が相次ぐ世で、鎌倉幕府打倒をもくろみ「承久の乱」(じょうきゅうのらん)を企てた異色の天皇です。こうした武張ったふるまいの一方で、和歌に優れ、蹴鞠を楽しみ、みずから作刀するなど多才な人物でした。2022年(令和4年)放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(かまくらどのの13にん)では、歌舞伎俳優の「尾上松也」(おのえまつや)さんが演じる後鳥羽天皇の生涯をたどってみましょう。

後鳥羽天皇

聖武天皇

聖武天皇
「聖武天皇」(しょうむてんのう)は、何をした人?と問われたら、「奈良の大仏」を造った人と答える方が多いのではないでしょうか。「東大寺」(現在の奈良県奈良市)の大仏を造立したことで有名な第45代聖武天皇の治世は、律令制中央集権国家の確立から、藤原氏による政治体制が築かれていった時代だったため、政権をめぐる争乱が度々起こっていました。また、社会不安や疫病の流行などあらゆる問題が頻発したため、聖武天皇は世の平和を願って大仏造営などの仏教を中心とした政策を行ったのです。国家を保護する仏教思想を広めた聖武天皇についてご紹介します。

聖武天皇

宇多天皇

宇多天皇
第59代「宇多天皇」(うだてんのう)は、中世に多くの公卿を輩出し、そのあともいくつかの公家や華族の家系の祖となった「宇多源氏」(うだげんじ)の始祖にあたる天皇です。皇子として誕生した宇多天皇は一度臣籍に降り、再び皇籍に戻って即位するという特異な経歴の持ち主でした。そんな宇多天皇の治世は、関白との間で政治紛争を起こしましたが、学者の「菅原道真」(すがわらのみちざね)を重用し、積極的な政治改革を進めて徳政を行いました。また歴代天皇で初めて法皇となった人物でもあります。仏教を篤く信仰していた宇多天皇の生涯や治世についてご紹介します。

宇多天皇

後醍醐天皇

後醍醐天皇
第96代「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)と言えば、鎌倉時代を終焉させたあと、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)と対立して南朝を築いたことで知られる天皇です。南朝とは、後醍醐天皇が独自に樹立した朝廷で、京都よりも南の吉野(現在の奈良県吉野郡)で築かれたことから南朝と呼ばれました。吉野の南朝と京都の北朝が対立する南北朝時代が始まるきっかけをつくり、政治と密教に強いこだわりを持ち続けた後醍醐天皇とは、一体どのような天皇だったのでしょうか。討幕、島流し、復権、裏切りと、山あり谷ありの人生を送り、鎌倉時代から南北朝時代へと転換させた人物・後醍醐天皇について詳しくご紹介します。 「南北朝時代」 YouTube動画

後醍醐天皇

後白河天皇

後白河天皇
第77代「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)は、わずか3年という短い在位のあと、30余年にわたる長い院政(天皇が譲位後に政治を行うこと)を敷いた天皇です。その治世は藤原氏との争い、平氏と源氏の戦乱という混沌の時代で、後白河天皇自身も幽閉されるなど、戦いにまみれた波乱の生涯を送っています。しかし、後白河天皇は戦乱の世に臆することなく、時代の流れを察知して源平両勢力の間を渡り歩き、強大な権力を築きました。藤原氏の衰退、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立という激動の時代を生きた後白河天皇についてご紹介します。

後白河天皇

後水尾天皇

後水尾天皇
第108代「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)は、江戸時代の幕開けとともに「徳川家康」に擁立されて即位した天皇です。戦国の世が終わり、泰平の世となりつつあるなかで在位した天皇ではありますが、即位直後は時代の変化への対応が求められた大変な時期でもありました。江戸幕府が確固たる権威を誇示するなかで、朝廷統制により天皇の権威は次第に失われ、後水尾天皇は様々な苦難を経験します。徳川家康の計らいによって皇位を継ぐも、江戸幕府との関係に悩まされ続けた後水尾天皇の治世をご紹介します。

後水尾天皇

光格天皇

光格天皇
第119代「光格天皇」(こうかくてんのう)は、江戸時代後期に即位し、飢餓や災害が起こった苦しい時代に朝政を行った天皇です。先帝の急逝に伴い、急遽、皇位継承者として選ばれた天皇でしたが、真摯な態度で朝政に取り組んだうえ、学問や和歌を愛する多才な人物で公家や臣下から厚く信頼されたのです。また、光格天皇による大飢餓での民衆救済は、朝廷が幕府に提案した政策で、幕府が定めた「禁中並公家諸法度」(江戸幕府が天皇と公家の行動を規制するために定めた法度)に対する明白な違反行為でしたが、幕府に受け入れられました。そしてこの行為が、幕末に広まる尊王思想のきっかけとなりました。朝廷統制を続ける幕府に対し対立を避けながらも、強い姿勢で朝廷権威の復活に挑み続けた光格天皇についてご紹介します。

光格天皇

孝明天皇

孝明天皇
第121代「孝明天皇」(こうめいてんのう)は、尊王攘夷運動が激化した幕末期に即位した天皇です。尊王攘夷とは、天皇を尊ぶ「尊王論」と、外国を排除する「攘夷論」のことで、孝明天皇が外国嫌いだったことから2つの思想が結びつきました。開国を迫られるなか江戸幕府は権威を失いつつあり、尊王攘夷に燃える志士や公家達は倒幕思想へと傾倒していきます。泰平の世が終焉を迎えた時代に、孝明天皇は一体どのような行動に出たのか。日本を守るため、攘夷論を唱え続けた孝明天皇の生涯を時代の流れとともにご紹介します。 幕末維新のキーパーソン・孝明天皇と正宗江戸時代最後の天皇・孝明天皇の功績と、佩用していた刀「無銘 伝正宗」についてご紹介します。

孝明天皇

注目ワード
注目ワード