ヨーロッパではその歴史において、戦闘能力が高い民族が現れては、やがて淘汰されていきました。その中には、かなり特徴的な武具を持つ民族がいたのです。古代ヨーロッパの時代に活躍した「ケルト人」や「ガリア人」、中世ヨーロッパ時代に活躍した「ヴァイキング」、「ノルマン人」など。彼らの強さを象徴する甲冑(鎧兜)についてご紹介します。
ケルト人は、古代ヨーロッパの時代において、現在のドイツ、スイス、フランス、イギリスなどの各国に居住していました。彼らは、西洋の他民族と比べて戦闘能力が高かったことから、ヨーロッパの様々な地域で傭兵として雇われていたのです。ヨーロッパ各地に広がったケルト人は、西洋の古代防具の発達にも大きく貢献したと言われていますが、一体どのような物があるのでしょうか。
ケルト人で組織された軍隊は、基本的に「歩兵」、「騎兵」、「チャリオット」(戦闘用馬車)で構成されており、敵と遭遇すると好戦的な態度で威圧していたそうです。彼らは雄叫びを上げ、笛を吹いて大きな音を出しながら相手を驚かせ、敵がひるんだ隙に一斉攻撃を仕掛けるのが得意でした。
またケルト人は、独自の宗教観念を持っており、人間を「生け贄」にしたり、討ち取った「敵の首」を供物や家宝にしたり、「人頭崇拝の儀式」を行なうなど、残酷な行為を日常的に行なっていたのです。このようなケルト人の独特なイメージから、他民族の兵士達は彼らの野蛮性に怯えていました。
さらに驚くべきことに、西洋の兵士達がみな甲冑(鎧兜)などの防具で身を護るなか、ケルト人の兵士は「全裸」、もしくはズボンのみを着用した「上半身裸」の状態で戦闘に挑んでいたと言われています。
これには、ケルト人の戦闘におけるポリシーが関係していたようです。「鎧で身を護るなど腰抜けがすることだ」という、強い戦闘意識を持っていました。彼らが戦にかけるプライドは、他民族のどの兵士よりも強いものだったのです。
裸で戦っていたケルト人でも、さすがに「剣」と共に「盾」は用いていたようで、ケルト人の盾は様々な形状の物が作られていました。特に使用されていた物が、全長130~140cmもの大型の「木製盾」。中央に「金属の突起」を付けて補強していましたが、非常に薄いため、「ローマ軍」の槍で簡単に突き破られてしまったようです。
また、一般的な兵士は「兜」を装着していませんでしたが、「族長」や「特別な階級の兵士」だけは儀式などでも使用する「装飾が施された兜」を所持していました。彼らが用いていた「円錐型兜」は、のちにローマ軍の兜にも影響を与えます。
ケルト人が儀式用に使用していた盾や兜は、現在のイギリス、ロンドン南部にあるテムズ川で発掘されました。どちらも紀元前1世紀頃に制作された物だと推測されています。全長77.5cmの「青銅製の盾」は、独特な模様が加工され、エナメルの象嵌細工が施された装飾性の高い物。兜も、頭部の左右に象牙のような大きな角が付いており、ケルト人の威厳を示す儀式などで使用されていたと推測されています。
「ケルト民族」は、ヨーロッパ全体に散らばり、各地域に所在していました。イタリア北部のガリア地方に定住していたケルト系民族はガリア人と呼ばれ、彼らは「世界の甲冑(鎧兜)史」の中でも金字塔となる甲冑(鎧兜)を作り上げたのです。
その甲冑(鎧兜)とは「チェイン・メイル」。青銅製の輪を繋いで鎖を編み上げたこの鎧は、製造コストが低いわりに品質が高く扱いやすいことから、西洋だけではなくアジアなど世界各地で使われており、まさに世界の甲冑(鎧兜)史において重要な役割を果たしました。チェイン・メイルの誕生は、ケルト民族の歴史においても最大の功績だと言えるでしょう。
「古代ローマ」や「ケルト文化」と並行して軍事的な発展を見せていた「北欧」や「イギリス諸島」では、歴史的証明となる古代の遺跡や遺品が大量に発掘され、現代に至るまで語り継がれてきました。
特に、西洋において中世の武具の発展へ大きく貢献した、「古代スカンディナヴィア」の防具を紹介すると共に、「スカンディナヴィア半島」を拠点に海を渡り、侵略を繰り広げた北欧のヴァイキングの装備についても触れていきます。
「スカンディナヴィア」とは、現在のスウェーデン、ノルウェー、デンマークの、3ヵ国の地域の総称。古代スカンディナヴィアというのは、基本的にヴァイキングが出現する以前、7世紀より前の時代を指します。
ヴァイキング以前の古代スカンディナヴィアでは、非常に特徴的な防具が作られていたことが分かっており、中でも兜はスウェーデンとイングランドで、およそ30個もの「豪華な装飾」が施された物が発掘されているのです。
イギリスを代表する古代遺跡「サットン・フー」は、1939年にイングランド東部で発見された「船葬墓」(せんそうぼ:船形の墳墓)です。
ここから、7世紀にイングランドへ渡ったゲルマン系民族「アングロ・サクソン人」の副葬品と共に、「古代スカンディナヴィア時代」の「鉄製の兜」が出土しました。顔全体を覆うマスクのような「面頬」(めんぼう)と幅のある「首当て」が付けられており、防御性に優れた非常に完成度の高い物。さらに、金属による補強や、頭部に兵士の姿などが浮彫装飾によって描かれた青銅板が付けられている豪華な装飾の兜も見つかっています。
このように「特別派手な兜」は、古代スカンディナヴィアにおいて戦闘用ではなく「儀式用」に使われていた物だったのではないかと考えられているのです。
スカンディナヴィアでは8世紀になると、領土拡大のために戦士が集められ、ヴァイキングが結成されました。彼らはまずイギリス諸島を制圧し、その後「バルト海沿岸」を侵略していくと、「地中海」周辺へも繰り出し、最終的には海を渡り「北米」まで到達したと言われています。船で侵略を繰り返した彼らは、9世紀から10世紀の間に大きく発展し、次第にスカンディナヴィアの支配層が指揮を執って組織化されるようになっていきました。
西洋の軍事史において輝かしい功績を残した彼らの防具は、残念なことに古代スカンディナヴィアの防具に比べて出土している物が圧倒的に少なく、考古学的資料も十分な物とは言えません。そんな中でも、スウェーデンの船葬墓の遺跡から発掘された「ヴァイキング時代」の防具を見てみると、兜においては古代の装飾的な物よりだいぶ「シンプルで安価な物」が使われていたことが分かります。
防具が買えない兵士達は「革の帽子」を兜の代わりにしていたようで、彼らの防具は非常に質素な物でした。ヴァイキングは、指揮官や裕福な層だけが甲冑(鎧兜)を所持しており、鎧は主に、鎖の輪を編み込んだチェイン・メイルを使用。そこに鉄板をぶら下げて補強したベストを着用して、防御力をアップさせていたようです。彼らは直径80~90cmほどの木製の「円形盾」も装備。一応、鉄や青銅で縁取りがされ、表面には革が張られていましたが、戦闘ですぐに破壊されてしまうようなとても脆い物でした。
このようにヴァイキングの防具は、彼らの戦果からは想像できないほど「チープ」な物。しかし、この発見は、かえって彼らの強さを浮き彫りにしたと言えます。実際にヴァイキングは戦闘力の高さが認められ、のちに多くの国で傭兵として雇われたのです。
ヨーロッパに新しい剣を持ち込んだゲルマン系民族のノルマン人は、防具においても新しいタイプの物を広めました。これは、古代ローマの時代から長年主要防具として世界各地で使われてきたチェイン・メイル(鎖帷子:くさりかたびら)を進化させた物。12世紀頃の「中世ヨーロッパ」でさらなる発展を遂げた「メイル」を用いた数々の防具をご紹介します。
10世紀頃にノルマン人が着用していた「ホウバーク」は、言わばチェイン・メイルをコートのような形にして防御範囲を広げた物でした。
ホウバークという名称は、古ドイツ語で「首」という意味の「ハルス」と「防御」を意味する「ベルガン」という言葉を合わせた造語が由来となっており、フードを被るように頭部から首にかけてすべてメイルで覆うことができることから、この名で呼ばれていたようです。
古代から使われていたチェイン・メイルは、一般的にベストか半そでのTシャツのような形状をしていましたが、ホウバークは「長袖」が基本形で、さらに防御力が高い物は指先まで覆う「ミトン」が付いていました。また、裾の部分には「スリット」を入れて、動きやすいように工夫していたようです。
金属のリングと言えど、メイルで頭部から指先まで覆うとかなりの重量がありました。中世に登場した騎士達は、軽量のチェイン・メイルよりも重量のホウバークを好んで着用。また、メイルの特徴である刺突攻撃に弱いという欠点をカバーするために、中世ではホウバークの下に「ギャンベソン」と呼ばれるキルティング加工を施した布製の鎧を身に付けるか「ラメラー・アーマー」のような小札鎧を上から重ねて着用していたようです。つまり、当時の騎士達は、防御性を求めながらも、重くて動きにくくなることを避けていました。
ときを同じくして、ホウバークはイスラム勢力の軍隊でも鎧として使われており「ザルディーヤ」と呼ばれます。しかし、西洋のホウバークとは少し形状が異なり、ザルディーヤはシャツのような作りで、着用するときは羽織ってから、ベルトや金具で前面の開閉部分を閉じるような仕様になっていました。
古代より兵士達は頭部を護るために兜を用いていましたが、13世紀頃になると「メイル・コイフ」という「頭巾型のメイル」が西洋で使われるようになるのです。これはホウバークからフードの部分が完全に分離した物。顔面以外の頭部と首を防御するために用いられました。メイル・コイフにおいてもホウバークと同じ要領で、頭に布を巻いてから被ったり、上から兜を重ねたりして、防御力を高めていたようです。
このように、中世においてもメイルの需要は衰えることなく、騎士達の体を護っていました。やがて13世紀半ばになると、金属加工技術が著しく発達したため、メイルが最初から一体となった鎧や兜が作られるようになり、さらにつま先からひざ上まで覆う「ハイソックスのような形のメイル」も登場し、中世の兵士達は本格的に全身をメイルで固めるようになるのです。