13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

北条宗時
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「北条宗時」(ほうじょうむねとき)は、2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する平安時代後期の武将です。演じるのは歌舞伎役者で俳優・舞踏家でもある「6代・片岡愛之助」(ろくだい・かたおかあいのすけ)さん。「坂東彌十郎」(ばんどうやじゅうろう)さん演じる鎌倉幕府初代執権「北条時政」(ほうじょうときまさ)の嫡男であり、2代執権となる「北条義時」(ほうじょうよしとき:演・小栗旬[おぐりしゅん]さん)の兄にあたります。
「源頼朝」(演:大泉洋[おおいずみよう]さん)を旗頭に、平家打倒を掲げた北条氏の嫡男として重要な立場にあったものの、その出生や最期については謎の多い北条宗時。どのような人物であったのかを探っていきます。

北條宗時の「源平合戦」参陣まで

北条宗時の運命を変えた源頼朝

北条宗時

北条宗時

「北条宗時」(ほうじょうむねとき)に関しては史料がほとんど残っておらず、生まれ年すら明確ではありません。

生まれ順も定かではなく、「北条義時」(ほうじょうよしとき)の兄であることは分かっていますが、「北条時政」(ほうじょうときまさ)の娘で「源頼朝」の妻となった「北条政子」(ほうじょうまさこ)の兄なのか弟なのかは、はっきりしないのです。一般的には兄とされています。

そんな北条宗時と北条氏の運命を大きく変えたのが源頼朝でした。「平治の乱」で平氏の棟梁「平清盛」(たいらのきよもり)に敗れ、のちに謀殺された「源義朝」(みなもとのよしとも)の三男・源頼朝が伊豆(現在の静岡県伊豆半島)の蛭が小島(ひるがこじま)へ流刑になった際、伊豆国の豪族であった北条氏は監視役を任されます。そののち、北条政子が源頼朝と結婚したため北条氏は源頼朝の後ろ盾となったのです。

山木兼隆邸襲撃で先導役を果たす

源頼朝

源頼朝

1180年(治承4年)4月27日、「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の第3皇子である「以仁王」(もちひとおう)が平氏討伐を命ずる令旨(りょうじ:皇太子などの命令を伝える文書)を発し、源頼朝のもとにも届きます。

以仁王自身も「源頼政」(みなもとのよりまさ)らと結んで挙兵しますが、平氏軍に敗れ討死。源頼朝は状況を静かに見守り、すぐには動こうとしませんでした。

しかし、平清盛の義弟「平時忠」(たいらのときただ)が伊豆の国主となり、目代(もくだい:地方官の代理人)として「山木兼隆」(やまきかねたか)が任命されると、平氏に近しい豪族「伊東祐親」(いとうすけちか)が伊豆の実権を掌握。北条氏をはじめとする地方豪族は圧迫されるようになります。

さらに、平氏による諸国の源氏追討の動きが活発となり、いよいよ危機感を覚えた源頼朝は北条氏と手を結び挙兵を決意。縁故のある坂東武士(ばんどうぶし:関東に領地を持つ武士)に呼びかけて協力を得ると、最初の襲撃目標を伊豆国目代・山木兼隆に定めました。

1180年(治承4年)8月17日、山木兼隆邸襲撃が決行されたとき、北条宗時は父・北条時政と弟・北条義時と共に参戦し、襲撃隊の先導役を務めたとされています。この日は「三島大社」(みしまたいしゃ:現在の静岡県三島市)の祭礼で山木兼隆の郎党(ろうとう:従者)の多くが出払っていたため、無勢であった山木兼隆は抵抗むなしく討ち取られました。

石橋山の戦いでの敗北

頼みの援軍が間に合わず

1180年(治承4年)の関東勢力図

1180年(治承4年)の関東勢力図

山木兼隆邸襲撃を成し遂げた源頼朝は、さらに味方勢力を増強するために相模国(現在の神奈川県)三浦半島で力を持つ三浦氏を頼みとしましたが、遠方のためすぐには合流がかないません。

そこで、300騎の兵を率いて「土肥実平」(どいさねひら)が拠点とする相模国土肥郷(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町)まで進出します。北条宗時も父の北条時政と弟の北条義時、また他の伊豆国武士を伴って源頼朝の軍勢に加わりました。

この動きに対して、平氏方の「大庭景親」(おおばかげちか)が3,000騎余りを率いて迎え撃つことになります。源頼朝は石橋山(現在の神奈川県足柄下郡)に布陣。谷を隔てて大庭景親軍も陣を張り、平氏方の伊東祐親は300騎ほどを引き連れて源頼朝の背後に回りました。

折からの豪雨で酒匂川(さかわがわ)が増水し、三浦軍が足止めされて援軍が望めないなか、源頼朝軍は挟み撃ちにされてしまったのです。暴風雨をついて行われた戦いでは、源頼朝軍は10倍近い兵力差のある大庭景親と伊東祐親の軍勢に対して奮戦するものの力の差は歴然。源頼朝軍は大敗を喫してちりぢりに逃げることとなりました。

父・弟とは別行動を取った北条宗時

敗走を余儀なくされた源頼朝と北条氏父子は別々に逃げています。分散した方が敵に見つかりにくいと考えたためでした。源頼朝は真鶴岬(まなづるみさき:神奈川県足柄下郡)から船で安房国(現在の千葉県南部)へ脱出。北条時政と北条義時父子は箱根方面へ向かい、北条宗時は三島方面へ逃れています。

このとき、なぜ北条宗時と、北条時政・北条義時父子が分かれたのか、その理由は定かではありません。歴史書の「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ:東鑑とも)によると、北条時政らは箱根を通って甲斐国(現在の山梨県)にいる甲斐源氏と合流する心積もりであったと言います。そのため、北条宗時にも何らかの目的があって三島から西へ向かったと考えられているのです。

しかし、北条宗時にどのような目的があったにせよ、果たされることはありませんでした。北条宗時は早河(現在の神奈川県小田原市)付近で伊東祐親軍に取り囲まれ、討死しています。

北条宗時の死後、権力の座に就いた北条氏

石橋山の戦い」での敗北ののち、生き延びた源頼朝と北条時政・北条義時父子は捲土重来(けんどちょうらい:一度負けた者が巻き返すこと)を期し、5年に及ぶ平氏との戦い「治承・寿永の乱」(源平合戦)に勝利。源頼朝は本格的な武家政権である鎌倉幕府を開きます。そして北条時政は初代執権として権勢を振るい、北条氏は執権職を継承することで鎌倉幕府の実権を握りました。

一方、早河で命を落とした北条宗時の墓は、現在も静岡県田方郡函南町JR東海道本線「函南駅」近くにあり、ひっそりとした佇まいを見せています。

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