13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

三浦義村(みうらよしむら)
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三浦義村(みうらよしむら) 三浦義村(みうらよしむら)
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「三浦義村」(みうらよしむら)は、平安時代後期から鎌倉時代前期の武将で、相模国(現在の神奈川県)を本拠地とした有力御家人(将軍直属の家臣)です。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優・歌手の「山本耕史」(やまもとこうじ)さんが演じ、「小栗旬」(おぐりしゅん)さん演じる主人公「北条義時」(ほうじょうよしとき)の生涯にわたる盟友として描かれています。北条義時の味方となったがために、ときには一族と相対する立場に身を置くこともあった三浦義村。鎌倉幕府内部の権力闘争を冷静かつ大胆に生き抜いたその生涯を見ていきましょう。

三浦義村と鎌倉幕府の権力闘争

父は「13人の合議制」に列する三浦義澄

三浦義村

三浦義村

「三浦義村」(みうらよしむら)の父は、「13人の合議制」に名を連ねる鎌倉幕府の有力御家人三浦義澄」(みうらよしずみ)、母は伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)の豪族「伊東祐親」(いとうすけちか)の娘です。

三浦義村の生まれた年は明らかではありませんが、1182年(寿永元年)に「源頼朝」の妻「北条政子」(ほうじょうまさこ)の安産祈願に遣わされた使者のなかに初めて名前が登場します。

また、1184年(元暦元年/寿永3年)8月に源頼朝の異母弟「源範頼」(みなもとののりより)を総大将とする平氏追討軍に父・三浦義澄ともども従軍。16歳以下は参加できないとされていたため、このとき三浦義村は17歳であったと推測されています。

1190年(建久元年)には、平家討伐と奥州征伐を成し遂げた源頼朝に従って上洛。父・三浦義澄より譲られるかたちで右兵衛府(うひょうえふ:天皇の警護を担当する役人)に任官しました。

梶原景時糾弾の連判状を作成する

1199年(建久10年/正治元年)1月に源頼朝が没すると、嫡男の「源頼家」(みなもとのよりいえ)が2代将軍(鎌倉殿)となりますが、鎌倉幕府内部では権力闘争が目立つようになります。そのなかで、たびたび重要な役割を果たしたのが三浦義村でした。

梶原景時

梶原景時

特によく知られている政争のひとつが「梶原景時の変」(かじわらかげときのへん)です。

13人の合議制が創設されて半年後の1199年(建久10年/正治元年)10月。有力御家人の「結城朝光」(ゆうきともみつ)が、「主君であった源頼朝が没したときに出家すべきだった」という気持ちを述べたところ、これを聞いた「梶原景時」(かじわらかげとき)が、現在の主君への裏切りであると源頼家に讒言(ざんげん:他人を陥れるために、目上の者に嘘を告げること)します。

苦しい立場に立たされた結城朝光は、三浦義村に相談。三浦義村は梶原景時糾弾のため、有力御家人の「和田義盛」(わだよしもり)や「安達盛長」(あだちもりなが)ら66人による連判状(同志が署名・捺印した誓約書)を作成し、将軍側近の「大江広元」(おおえのひろもと)に提出しました。大江広元は、梶原景時が忠臣であることから躊躇しますが、最終的には鎌倉殿である源頼家に申し立てたため、梶原景時は失脚します。

そして翌1200年(正治2年)正月、一族を率いて上洛を目指した梶原景時は、途上の駿河国(現在の静岡県中部)清見関(きよみがせき)で在地の武士達に見つかり戦いになりました。梶原景時と息子達が討死し、一族は滅んでしまいます。

北条氏に付き比企氏と敵対

側近であった梶原景時を失った2代将軍の源頼家は、側室の父「比企能員」(ひきよしかず)を頼みとするようになり、源頼家の実弟「源実朝」(みなもとのさねとも)を3代将軍に推す北条氏と比企氏が対立。このとき、三浦義村は北条氏側に付き、比企能員追討軍に加わっています。1203年(建仁3年)9月2日、比企能員は北条氏側の手勢に討ち取られ、比企一族は滅亡。源頼家は伊豆の「修善寺」(しゅぜんじ:現在の[修禅寺]静岡県伊豆市)へ幽閉され、のちに殺害されています。

畠山重忠の乱で果たした役割とは

1205年(元久2年)に起こった「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)でも、三浦義村は中心的役割を果たしました。

鎌倉幕府初代執権北条時政」(ほうじょうときまさ)の後妻「牧の方」(まきのかた)の娘婿「平賀朝雅」(ひらがともまさ)が、酒宴での口論をきっかけとして「畠山重忠」(はたけやましげただ)とその嫡男「畠山重保」(はたけやましげやす)を謀反の意志ありと讒言。三浦義村は、北条時政による畠山重忠父子討伐の意を受けて、家来の「佐久間太郎」らに畠山重保を殺害させ、そののち、三浦義村も加わった討伐軍が激戦のすえ畠山重忠を討ち取ります。

畠山重忠は、三浦義村にとっては1180年(治承4年)の「衣笠城の戦い」(きぬがさじょうのたたかい)で祖父「三浦義明」(みうらよしあき)を討った仇でもあったのです。

ところが、のちに畠山重忠による謀反の計画は虚偽であったことが判明します。そして、北条時政の娘婿であり、討伐軍にも参加した「稲毛重成」(いなげしげなり)らが畠山重忠を陥れた首謀者とされ、三浦義村らに誅殺されました。これは、稲毛重成が将軍に対して畠山重忠の謀反を讒言したからと伝えられていますが、一方で、北条時政と牧の方の陰謀に巻き込まれて首謀者の汚名をきせられたとも言われています。

一族に背を向け北条義時の味方に

北条義時

北条義時

1213年(建暦3年)2月、北条義時を排除しようとする陰謀に加担したとして、三浦義村の従兄弟でもある和田義盛の息子2人と甥の「和田胤長」(わだたねなが)が捕縛されました。

息子達は赦免されるものの、和田胤長が流罪に処せられたため、和田義盛は親族の三浦一族などを味方に付けて打倒北条氏を決起。

しかし、三浦義村は親族側に与することなく、和田義盛が挙兵したことを北条義時に知らせ、御所の護衛に就きます。戦いは、3代将軍の源実朝を擁して多くの御家人を集めた北条義時が勝利し、和田氏は滅亡しました。

三浦義村の盟友である北条義時は、和田義盛に代わって侍所別当(さむらいどころべっとう:軍事・警察を担う組織の長官)となり、鎌倉幕府の要となる役職を独占。幕府を主導する地位を固めます。

源実朝の暗殺・承久の乱・伊賀氏の変

源頼家の子・公暁が源実朝を暗殺

1219年(建保7年)1月27日、3代将軍・源実朝は雪の降りしきる中を「鶴岡八幡宮」(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)に参拝。その帰り道、石段に差し掛かったところで、木に隠れていた源頼家の次男「公暁」(くぎょう/こうぎょう/こうきょう)に襲われ、源実朝は命を落とします。

公暁は源実朝の首を持ったまま逃げ、後見人の邸宅へ戻ると、乳母夫(めのと:乳母の夫)である三浦義村に使いを出しました。三浦義村は、「お迎えの使者を送ります」と偽り、討手(うって)を差し向けます。激しい戦いの結果、公暁は討ち取られました。

この事件は様々に取りざたされ、三浦義村が公暁をそそのかしたという説や、北条義時が黒幕として公暁を操ったという説などが数多くあり、真相は分かっていません。三浦義村は公暁討伐の功績により、駿河守に任ぜられています。

承久の乱では実弟と対立

1221年(承久3年)に起こった「承久の乱」(じょうきゅうのらん)でも、三浦義村は親族ではなく北条義時の味方に付きました。

後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が鎌倉幕府2代執権・北条義時追討の院宣(いんぜん:上皇の命令を伝える文書)を発布。三浦義村は、後鳥羽上皇側に付いた在京の弟「三浦胤義」(みうらたねよし)から味方となって決起するよう説得されますが、弟からの使者を追い返し、これを北条義時に知らせたのです。

北条義時率いる幕府軍に加わった三浦義村は、京都の「東寺」(とうじ:京都市南区)で弟・三浦胤義と対峙したと言われています。三浦胤義が熱心に呼びかけるものの、三浦義村は取り合おうとはしません。戦いこそしませんでしたが、兄弟の再会は物別れに終わり、のちに三浦胤義は自害します。

承久の乱は北条義時の幕府軍が圧勝。三浦義村は幕府の代表として京に留まり、後鳥羽上皇らの処分や皇位継承にかかわる問題への対応など、戦後処理にあたりました。

伊賀の方の目論見を防ぐ

北条政子

北条政子

1224年(元仁元年)、三浦義村が一族と敵対しても味方であり続けた北条義時が病没。

これを受けて、北条義時の後妻「伊賀の方」(いがのかた)が自分の実子である「北条政村」(ほうじょうまさむら)を執権に、娘婿の「一条実雅」(いちじょうさねまさ)を将軍に擁立しようと考え、北条政村の烏帽子親(えぼしおや:元服の際に烏帽子をかぶせる役目を担う仮の親)であった三浦義村に相談します。

しかし、この動きに気付いた北条政子に問いただされ、三浦義村は北条義時の長男「北条泰時」(ほうじょうやすとき)が3代執権となることを承諾。伊賀の方に協力した伊賀氏兄弟の配流という処分のみで政変を未然に防ぎました。

評定衆のひとりに選出

伊賀の方の一件があった翌年の1225年(嘉禄元年)夏、北条政子が死去。同じ年の12月には3代執権・北条泰時が、13人の合議制を原型とする集団指導体制「評定衆」(ひょうじょうしゅう)を創設し、4代将軍「藤原頼経」(ふじわらのよりつね:九条頼経[くじょうよりつね]とも)を補佐することになりました。三浦義村も評定衆11人のひとりに選出され、北条氏に次ぐ地位を得ています。

1232年(貞永元年)、三浦義村は武家政権のための法令「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)の制定にも署名。そののちの1238年(暦仁元年)には、上洛する藤原頼経の先陣を務めました。三浦義村にとっては晴れ晴れしい役目であったと言われています。

そして、1239年(延応元年)12月5日、鎌倉幕府内部の権力闘争を勝ち抜いた三浦義村は、病気によりその生涯を閉じたのです。

三浦義村の家系図

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