平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活躍した武将「千葉常胤」(ちばつねたね)。下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東部、他)を拠点とする千葉氏を、地方の一豪族から御家人(鎌倉将軍直属の家臣)の地位へと引き上げた、千葉氏中興の祖です。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「源頼朝」(演:大泉洋[おおいずみよう]さん)からの信頼も厚い坂東(関東)の重鎮を俳優の「岡本信人」(おかもとのぶと)さんが演じています。源氏と平氏が争った戦乱の時代と、鎌倉幕府中枢での権力闘争を生き抜き、数え年84歳の天寿を全うした千葉常胤の生涯を見ていきましょう。
「千葉常胤」(ちばつねたね)は、1118年(元永元年)5月24日に下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東部、他)の政務を担う官職・下総権介(しもうさごんのすけ)である「千葉常重」(ちばつねしげ)の長男として誕生。
18歳のときに家督を相続し、下総国にある寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)の相馬御厨(そうまみくりや)を引き継ぎます。
寄進地系荘園とは、国司(朝廷から赴任した地方官)の収奪を防ぐために、所領を中央の権力者や寺社に寄進することで成立した荘園のこと。寄進者には現地の支配権が認められました。
ところが、千葉常胤が家督を継いだ翌年の1136年(保延2年)、父の千葉常重が租税を納めていなかったという嫌疑で逮捕され、相馬御厨は公家の下総守「藤原親通」(ふじわらのちかみち)に押領(おうりょう:所領を収奪・支配すること)されてしまいます。
この事態の解決には10年を要することとなり、1146年(久安2年)4月に未納とされた分の租税を納め、所領を取り戻しました。同時に千葉氏が世襲していた相馬郡の郡司(行政を司る地方官)にも復帰します。そして改めてその所領を「伊勢神宮」(正式名称は[神宮]:三重県伊勢市)へ寄進したのです。
この一件については、「源頼朝」の父であり源氏の棟梁である「源義朝」(みなもとのよしとも)が介入したことが分かっており、源義朝が千葉常胤と藤原親通を仲裁したという説もあります。
1180年(治承4年)、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)へ配流されていた源頼朝が挙兵しますが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)の序盤戦にあたる「石橋山の戦い」に敗北。源頼朝は安房国(現在の千葉県南部)へ逃れると、千葉常胤に加勢を求めるために側近の「安達盛長」(あだちもりなが)を使者として送ります。
千葉常胤はこの求めに応じ、同じく使者として「和田義盛」(わだよしもり)を送られた上総国(現在の千葉県中部)の「上総広常」(かずさひろつね)よりもいち早く源頼朝のもとへ参陣しました。
千葉常胤と上総広常は又従兄弟(またいとこ)にあたる間柄です。
そのあとの「富士川の戦い」では、源頼朝討伐を目的とした平氏軍に完勝。すぐさま上洛しようとする源頼朝を千葉常胤と上総広常がなだめ、常陸国の佐竹氏討伐を進言します。源頼朝はこれを聞き入れ、佐竹氏一族が籠城する「金砂城」(かなさじょう:茨城県常陸太田市)を攻め落としました。その結果、千葉常胤は佐竹氏に奪われていた相馬御厨を取り返すことができたのです。
さらに1183年(寿永2年)、源頼朝から謀反を疑われた上総広常が誅殺され、上総氏が領有していた上総国も千葉常胤が任されることになり、千葉常胤は房総半島(現在の千葉県)の大半を支配下に治めました。
1184年(元暦元年)、千葉常胤は源頼朝の異母弟「源範頼」(みなもとののりより)の軍に属し、源平合戦の重要な戦いのひとつ「一ノ谷の戦い」に参戦します。また、源範頼軍の一員として豊後国(現在の大分県)に渡り武功を立てました。1189年(文治5年)には、奥州藤原氏征伐を目的とした「奥州征伐」に参加。東海道方面の大将に任命されて活躍しています。
これらの軍功により、千葉常胤は薩摩国(現在の鹿児島県)、肥前国(現在の佐賀県、長崎県)、美濃国(現在の岐阜県南部)、陸奥国(現在の東北地方北東部)に所領を与えられました。のちに所領は本宗家を相続した嫡男の「千葉胤正」(ちばたねまさ)をはじめとする6人の息子達に引き継がれ、多くの分家を創設するかたちで一族の繁栄へとつながっていきます。
千葉常胤は、1199年(建久10年)に源頼朝が死去したあとも鎌倉幕府を中枢で支え、1199年(建久10年)、有力御家人で13人の合議制にも名を連ねる「梶原景時」(かじわらかげとき)を弾劾する際にも署名に加わっています。
源頼朝の死から2年後の1201年(建仁元年)3月24日、千葉常胤死去。鎌倉幕府の創設に貢献し、千葉氏発展の礎を築いた人物として以後長く敬われることとなります。
1180年(治承4年)、石橋山の戦いに敗れて安房国へ逃れた源頼朝が、千葉氏の加勢を得て鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)へ戻る途中、千葉常胤やその一族と共に参拝したと言われているのが「千葉神社」(現在の千葉市中央区)です。
千葉氏の守護神「北辰妙見尊星王」(ほくしんみょうけんそんじょうおう:別名・妙見菩薩[みょうけんぼさつ])を本尊とする寺院「千葉妙見宮」(ちばみょうけんぐう)として建立され、千葉氏の始祖「平忠常」(たいらのただつね)の子「覚算大僧正」(かくさんだいそうじょう)が伽藍(がらん)を整備したと伝えられています。
千葉神社の基本情報 | |
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所在地 | 千葉県千葉市中央区院内1-16-1 |
開門時間 | 6~18時 |
千葉氏の拠点である「猪鼻城」(いのはなじょう:同音で亥鼻城とも:千葉市中央区)城址の北側に位置する井戸跡が「お茶の水」です。
伝承によれば、千葉常胤がこの井戸から湧き出る水を汲んで、源頼朝にお茶を勧めたところ、喜ばれたことからお茶の水という名が付いたとのこと。
一方、当時はお茶が普及していなかったため、湧水を差し上げたとの説もあります。
お茶の水の基本情報 | |
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所在地 | 千葉県千葉市中央区市場町1-5-5 |