13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

大庭景親(おおばかげちか)
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大庭景親(おおばかげちか) 大庭景親(おおばかげちか)
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「大庭景親」(おおばかげちか)は、平安時代後期に活躍した武将。1180年(治承4年)に行われた「石橋山の戦い」では平氏側に就き、のちに鎌倉幕府初代鎌倉殿となる「源頼朝」を撃破したことで知られています。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、国内外で活躍する俳優「國村隼」(くにむらじゅん)さんが大庭景親を演じたことで話題となりました。大庭景親の生涯と大庭景親にゆかりのある施設をご紹介します。

大庭景親の生涯

大庭景親

大庭景親

「大庭景親」(おおばかげちか)は、相模国大庭御厨(おおばみくりや:現在の神奈川県茅ヶ崎市、神奈川県藤沢市付近)を本領としていた「大庭景宗」(おおばかげむね)の次男です。

生年は史料がないため不詳ですが、大庭景親の家柄である「大庭氏」は「桓武平氏」(かんむへいし:桓武天皇[かんむてんのう]の子孫で、平姓を賜った家系)の流れを汲む「鎌倉氏」の一族で、源氏の譜代家人でした。

1156年(保元元年)に起きた「保元の乱」では、源氏方として「源頼朝」の父である「源義朝」(みなもとのよしとも)に従軍。このとき、兄の「大庭景義/大庭景能」(おおばかげよし)も出陣しますが、大庭景義はこの戦いで源義朝の弟「源為朝」(みなもとのためとも)が放ったにあたって負傷しており、これがきっかけとなって大庭景義は家督を弟・大庭景親へ譲っています。

保元の乱から3年後の1159年(平治元年)、「平治の乱」において源義朝が敗死。戦後、源氏に属した多くの武将が処刑され、大庭景親も処刑されそうになりましたが、大庭景親は平氏から許されて処刑を免れます。

大庭景親が平氏から許された理由は定かではありませんが、一説によると、保元の乱で大庭氏が参戦した名目が「源義朝への私的な従軍」ではなく、「後白河天皇[ごしらかわてんのう]の命に従ったため」だったことが関係しているのだとか。

平治の乱以降、大庭景親は平氏に与して源氏と対立するようになります。

石橋山の戦い

1180年(治承4年)5月、後白河天皇の子である「以仁王」(もちひとおう)が「打倒平氏」を掲げて挙兵。大庭景親は、これを抑えるために出陣して勝利をおさめます。しかし、「平清盛」はこの鎮圧に安心することなく、「まだ反乱分子がいる」として、大庭景親に「関東地方で不穏な動きをみせる者がいれば捕らえよ」と命じました。

大庭景親のもとに、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の流刑人だった源頼朝が挙兵を企てているとの情報が入ります。大庭景親はこれを鎮圧するため、「佐々木秀義」(ささきひでよし)に情報を共有しますが、じつはこの時点で佐々木秀義は源頼朝と手を組んでいたのです。また、大庭景親の兄・大庭景義もこのときにはすでに、源頼朝の同心として動いていました。

佐々木秀義が源頼朝のもとへ使者を走らせると、源頼朝は急いで挙兵しますが、このときに集められた兵士はわずか300騎余り。対して、大庭景親は平氏に与する味方を招集しながら源頼朝のもとへと駆け付けたことで、その兵数は3,000騎余りになっていました。

石橋山の戦い

石橋山の戦い

源頼朝と大庭景親が衝突したのは、相模国足柄下郡石橋山(現在の神奈川県小田原市石橋)。

源頼朝の目標は三浦半島の豪族「三浦氏」と合流すること。大庭景親はこれを阻止するために夜の石橋山へ、悪天候にもかかわらず突撃しました。

この判断が功を奏して源頼朝を撃破することに成功。大庭景親はそのあと、敗走した源頼朝を追います。しかし、ともに捜索していた「梶原景時」(かじわらかげとき)が源頼朝を助けたことで、大庭景親は源頼朝を捕まえることができませんでした。

大庭景親の最期

安房国(現在の千葉県南部)に逃れた源頼朝は、1180年(治承4年)9月に再び挙兵。

これを知った大庭景親は早馬を走らせて平清盛に報告しますが、追討軍の編成に手間取ってしまいます。その間に源頼朝は着々と仲間を集め、同年の9月末には20,000騎以上の兵力を招集。さらに源氏軍の兵力は拡大し続け、のちに鎌倉幕府で「13人の合議制」に参加する「足立遠元」(あだちとおもと)や、坂東武者(ばんどうむしゃ:関東生まれの武士)として名高い「畠山重忠」(はたけやましげただ)などが参陣。こうして、源氏軍の兵力は数万騎にまで到達しました。

圧倒的な兵力差の前に平氏軍は成すすべもなく、1180年(治承4年)10月6日、源頼朝は難なく鎌倉へと到着を果たすのです。

源頼朝が鎌倉へ到着した頃、準備が遅れたことに加えて、西国の飢饉の影響で平氏軍の士気は低下していました。源頼朝を追って平氏軍が駿河国(現在の静岡県中部)に入ったのは1180年(治承4年)10月13日。しかし、その直後に駿河国の目代(もくだい:地方官の代わりに派遣された役人)「橘遠茂」(たちばなのとおもち)が「甲斐源氏」によって捕虜となり、駿河国は陥落。

同年10月18日、大庭景親は1,000騎を率いて平氏軍の援軍へと進発しますが、すでに西方は源氏軍の手に落ちていたため、やむなく山中へと潜伏します。

それから2日後の1180年(治承4年)10月20日、富士川を挟んで源氏軍と相対していた東国追討軍の総大将「平維盛」(たいらのこれもり)は、平氏軍に勝算がないことを悟ると戦うことなく敗走。

1180年(治承4年)10月23日、大庭景親は「もはやこれまで」と腹を括って降伏。その身柄は、上総国(現在の千葉県中部)と下総国(現在の千葉県北部、茨城県の一部)に強い影響力を持っていた「上総広常/上総介広常」(かずさひろつね/かずさのすけひろつね)に預けられ、3日後の1180年(治承4年)10月26日、片瀬川(かたせがわ:現在の境川[さかいがわ])で処刑されました。

なお、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、人気俳優「佐藤浩一」(さとうこういち)さんが演じる上総広常が、大庭景親の処刑人として登場。そして、大庭景親は斬首の直前に、「あのとき、源頼朝を殺しておけばと思うときが来るかもしれん。せいぜい、気を付けることだ」と高笑いしたことが話題となりましたが、史実において大庭景親の処刑人を務めたのは、源氏方に味方した兄の大庭景義でした。

大庭景義は大庭景親が捕らえられた際、源頼朝から「助命嘆願するか」と問われており、これに対して「殿の判断に任せます」と答えたと言われています。最期まで平氏の将として抗った大庭景親とは異なり、大庭景義はそののち、鎌倉幕府の御家人として活躍しました。

大庭景親にゆかりのある施設

神奈川県藤沢市「大庭神社」

大庭神社

大庭神社

神奈川県藤沢市にある「大庭神社」(おおばじんじゃ)は、大庭景親を祭神とする神社です。

平安時代に編纂された「延喜式内相模十三社」(えんぎしきないさがみじゅうさんしゃ:醍醐天皇[だいごてんのう]の時代に編纂され、冷泉天皇[れいぜいてんのう]の時代に施行された法典)にも掲載されており、1777年(安永6年)に大庭景親が祭神として祀られるようになりました。

また、1783年(天明3年)には、現在でも学問の神として有名な「菅原道真」も祀られることになり、これを機に本神社は「天神宮」や「大庭天満宮」と呼ばれるようになります。

境内にある梵鐘(ぼんしょう:お寺にある釣鐘[つりがね])は、1721年(享保6年)に鋳造されたと伝わる釣鐘です。はじめは「天満天神宮」と書いてありましたが、のちにこの文字は削り取られて「大庭大明神」と書き換えられ、現在は「大庭神社」と表記されています。

静岡県三島市「妻塚観音堂」

静岡県三島市には「妻塚観音堂」(さいづかかんのんどう)というお堂が存在。これは、大庭景親の妻を祀る祠です。

妻塚観音堂には、大庭景親にまつわる悲しい伝承があります。大庭景親が源頼朝を追っていたある夜のこと。大庭景親は、「三嶋大社」(現在の静岡県三島市)の近くで人影を見つけたため、これを源頼朝と判断して斬り殺しましたが、斬った相手はなんと大庭景親の妻でした。

大庭景親の妻は、源氏と縁のある家柄であるのに、源氏に仇を成そうとする夫を止めようと待ち伏せをしていたのです。それに気付かず手に掛けてしまった大庭景親は、愛する妻の冥福を祈るために祠を建てたと伝えられています。

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